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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二七五 今週のみそひと歌を振り返る その九五

2018年07月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二七五 今週のみそひと歌を振り返る その九五

 先週の後半から集歌2516の左注に「以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之謌集出」と紹介される巻十一の柿本朝臣人麻呂歌集の歌群に突入しています。
 今回は原歌表記と訓じについて、言い掛かりを付けて行きたいと思います。最初に弊ブログの鑑賞を示し、次いで標準的なものを示します。

集歌2486 珍海 濱邊小松 根深 吾戀度 人子姤
試訓 珍(うづ)し海浜辺(はまへ)し小松(こまつ)根し深み吾(あれ)恋ひわたる人し子(こ)し姤(よし)
私訳 近江の大津宮の貴い海の浜辺の小さな松の根でも深く根を張るように、深く深く私は貴女に恋をしています。私の想いが叶わない貴女ですが、それでも麗しい。
或本謌云、血沼之海之 塩干能小松 根母己呂尓 戀屋度 人兒故尓
或る本の歌に曰はく、
訓読 茅渟(ちぬ)し海し潮干(しおひ)の小松ねもころに恋ひしやわたる人し子ゆゑに
私訳 茅渟の海の潮の干いた海岸の小松の根が這えるようにねんごろに慕いつづけましょう。私の想いのままにならない貴女ゆえに。

中西進氏の鑑賞
本歌
訓読 血沼(ちぬ)の海の浜辺の小松根深めてわれ恋ひわたる人の子ゆゑに
意訳 血沼の海の海岸の小松のように根も深く私は恋いつづける。あの人の子のために。
「或る本の歌に曰はく」の歌
訓読 血沼の海の潮干(しほひ)の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の児ゆゑに
意訳 血沼の海の潮干に見える小松の根。ねんごろに恋いつづけるのか。あの人の子のために。

伊藤博氏の鑑賞
本歌
訓読 茅渟(ちぬ)の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
意訳 茅渟の海の浜辺に生い立つ松、その松の根ではないが、根っからに私は恋いつづけている。手も出せないあの女なのに。
「或る本の歌に曰はく」の歌
訓読 茅渟(ちぬ)の海の潮干(しほひ)の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに
意訳 茅渟の海の潮干の潟に生い立つ松、その松の根ではないが、ねんごろに恋いつづけなければならないのか。手も出せないあの女なのに。

 最初に本歌の末句「人子姤」は難訓です。そのため、注に添えられた「或本謌云」の末句「人兒故尓」と同じ訓じとみなして「姤」を「ゆえに」と仮に訓じます。ただし、漢字「姤」に由来した訓じではありません。漢字「姤」は說文解字や康煕字典の解説では「偶也、一曰好也」としますし、発音は廣韻では「kəu」です。「姤」は「遘」に通じるとも解説します。つまり、選択された漢字の意味合いからしますと「偶々にしか逢えない好ましい女性」と云うことになります。この長々しい意味合いを柿本人麻呂は漢字一字「姤」で表し、奈良時代の貴族たちはそれをそのように理解したと思われます。
 次に本歌の初句「珍海」の訓じについて、中西進氏は集歌4094の長歌で「宇豆奈比」と云う言葉を古語「珍(うず)なひ」と訳します。古語の世界からしますと漢字「珍」を「ちぬ」と訓じるのではなく、「うず」と訓じるのが本来なのです。
 また、飛鳥時代から奈良時代、天皇家などの特別な支配階級の一族を除くと婚姻関係は女系社会で入り婿制度であり、通い婚であったとします。夫婦関係は儒教的な男系血統を尊重するような固定的なものではなく、緩やかなものであったとします。つまり、通念的に人妻であっても新たな恋愛は忌諱ではありませんでした。通史に寡婦が生涯一夫の志を守ったと特別表彰されたことが載るような状況でした。そのような社会状況で「人妻だから恋が出来ない」と云うような解釈が奈良時代の人びとに通用するでしょうか。明治期以降のキリスト教的であり、また、戦場に赴任する兵士の家庭を保証するような一夫一婦制度を前提とした解釈が、そのままに古代に適用できるかと云うと難しいのではないでしょうか。
 集歌2486の本歌のここの漢字表記を検討しますと、従来の解釈の根拠が本歌に添えられた「或本謌云」を疑似本歌とみなし、本歌が同じ訓じを持つであろうとして原歌表記をみなし訓じを行っていたと考えられます。つまり、真剣に万葉集の原歌読解は流行らないので、お座なりだったのでしょう。確かに平安最末期から鎌倉時代の貴族たちは、その時代、万葉集原歌は正確には読解出来ないので似たような雰囲気で万葉集歌を鑑賞していました。ちょうど、新撰万葉集の万葉仮名表記の和歌の逆のスタイルです。新撰万葉集の和歌は一字一音万葉仮名文字表記の和歌を万葉集スタイルの漢字交じり万葉仮名歌表記スタイルへと戻した表現で編纂されていますが、新撰万葉集に載る原歌と新撰万葉集の万葉集スタイルの歌が一致するかと云うとそれは保証されません。似た雰囲気だけが保証されるだけです。

 色々と酔論・暴論があちこちと飛び跳ねていますが、集歌2486の本歌の解釈は原歌本来の表記に立ち戻り、再度、解釈を展開するのが良いのではないでしょうか。
 もう一つ、弊ブログで展開していますが万葉集は奈良時代天平勝宝年間に原万葉集が編まれたと考えています。この時、巻十一は柿本人麻呂歌集などから大部が編まれたと思われますが、その時すでにこの集歌2486の本歌は難訓になっていたのかもしれません。柿本人麻呂の歌は高度な漢字教養を要求しますから「姤」と云う漢字が既に読めなくなっていたかもしれません。それ故に解釈者が類型歌として「或本謌云」の歌を差し込んだのではないでしょうか。なお、二十巻本万葉集の完成は紀貫之時代と考えていますから、「或本謌云」の歌を差し込んだ犯人は大伴家持ではなく、紀貫之であったかもしれません。弊ブログとしては、紀貫之犯人説を採用したい気持ちがあります。

 紹介しましたが、今回もまた酔論・暴論だけです。一般には疑問を持つことなく標準訓からの鑑賞をお願いいたします。

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