第一章 万葉集後編 宇梅乃波奈の誕生
万葉の始めに人麻呂と云う一人の天才が、漢語と漢字を使って表記する大和言葉の宇宙を創りました。ただし、この人麻呂の創った大和言葉の宇宙は、大和言葉でありながら「表記する和歌」と云う外国語である中国語に精通する者たちだけの特別な歌の宇宙です。そして時が遷り時代は奈良の都になって、旅人と云うもう一人の和歌の天才が文学に革命を起こします。人麻呂の創った特別な日の特別な歌から、普段の人の普段の歌への革命です。万葉集後編 宇梅乃波奈は、そんな和歌の革命の後の大和歌の歌集です。
人麻呂のくびき
普段の私達では、「くびき」は余り聞き慣れない言葉と思います。本来は牛馬を使って鋤や荷車を引く時に牛や馬の首に付ける道具ですが、「タタールのくびき」などと使う場合は政治・文化等での歴史的な制約の意味合いが生まれます。私はこの「くびき」の言葉を、和歌の区分の中で「人麻呂のくびき」と新しい言葉を作って使っています。
ここで、非常に初歩的な万葉集への疑問です。いつ頃から、記録に残る和歌が普段の人々に普及したのでしょうか。この普段の人々とは、万葉の時代の特別な外国語である中国語や漢文に精通した国際人の貴族階級でなく、一般の無名歌を詠った人たちです。
前提として、日本書紀の天武十一年(682)八月の「詔禮儀言語之状」の記事からすると、天武十一年八月になってやっと、宮中の儀礼と使用言語が統一されたようですから、天智天皇や天武天皇の時代に朝廷で使われていた言葉が日本語の前身の大和言葉なのか中国語だったのかは明確ではありません。そんな時代の貴族階級の人達において、漢詩のルールを取り入れての身内で通用する和歌は早くから成立していたでしょう。少なくとも、古事記の序の稗田阿禮の記事や額田王・高市皇子の歌を信じると天智天皇から天武天皇の時代には非略体歌と分類される漢語と一部の「てにをは」を真仮名文字で記した記録に残る和歌はあったと思われます。しかし、まだ、それは一部の貴族階級だけの和歌です。普段の人々にとって、歌は口で詠い伝えるだけのものだったと思います。
額田王謌
集歌0008 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
そんな時代に独りの天才が現れます。それが柿本人麻呂です。ただし、柿本人麻呂は、非常に困った天才です。彼は、いきなり、漢語や漢詩のルールで和歌を完璧に詠い挙げてしまったのです。また、時代の教養人も、その漢語や漢詩のルールで和歌を詠い挙げてしまったことに対して敏感に反応し、それを理想の姿としたようです。漢詩が母親のような和歌と云いますか、歌で使われている漢語や漢字のすべてが意味を持つような非常に高度な教養水準の漢字表記の和歌です。この人麻呂が表記する和歌の世界は、国際都市である飛鳥浄御原宮や藤原宮で生活する中国語を話し漢文を使う人々には、大和言葉が判らなくても歌の世界のイメージが容易に掴めるような共通文化の和歌です。つまり、国際都市における国際共通語による和歌です。
参考に次の例‐1の歌で示すと、「河浪立奴」は「川波立ちぬ」と読むだけでなく、「立奴」には川岸に男が立っている風情があります。また、「由槻我高仁」は「由槻が嶽に」なのですが、「我高」には由槻が嶽が独り高くそびえている風情があります。「雲居立有良志」の「雲居立てるらし」にも、同様に「有良志」に初夏の風が心地よい思いが感じられます。それでいて、歌は口に出しても口調のよい大和歌なのです。当然、歌は和歌です。漢詩ではありませんが、私達が中国の旧字体の漢字文をなんとなく理解できるように、当時の中国語を話す人々もなんとなく理解できたと思われます。
人麻呂歌集 推定で柿本人麻呂の歌
例‐1
集歌1087 痛足河 河浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志
訓読 痛足川川波立ちぬ巻目の由槻が嶽に雲居立てるらし
意訳 痛足川には川波が騒ぎ立って来た。巻目の由槻が岳に雲が湧き起こっているらしい。
それで、柿本人麻呂は非常な天才であり歌聖なのでしょう。例‐2の歌でも、「足引之」の「あしひきの」には木々の繁る「葦や檜の」と「足を引きずる痛足(あなし)の痛足川」の意味合いが隠れていますし、「響苗尓」の読みの「響るなへに」の「苗」には稲妻の謂れの「稲の苗」の意味合いがあります。つまり、この「響るなへに」には、川瀬の音だけでなく雲行きが怪しい弓月が嶽での遠雷の音も含まれています。そして、万葉人は、この人麻呂調の和歌を善しとしたようです。
なお、今回、紹介する意訳はこのような私訳では長々しい解説が必要になるために、不遜ではありますが万葉集(全訳注原文付 中西進 講談社文庫)をままに記載させていただきます。
例‐2
集歌1088 足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
訓読 あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る
意訳 あしひきの山川の瀬音が激しくなるにつれて、弓月が嶽に雲の立ち渡るのが見える。
柿本人麻呂が飛鳥時代の天才としますと、もう一人の天才が養老・神亀時代の大伴旅人です。その養老・神亀の天才を説明する前に、彼の人麻呂調の「表記する和歌」の実力を見るために旅人の歌を紹介します。
例‐3
集歌0575 草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
訓読 草香江(くさかえ)の入江に求食(あさ)る葦鶴(よしたづ)のあなたづたづし友無しにして
意訳 草香江の入江に餌をあさる葦べの鶴のように、ああ心もとないことよ。友は遠くにして。
最初にこの集歌0575の歌を理解するには、鶴の日常の約束を踏まえる必要があります。夫婦鶴と云うように鶴は普段は雌雄二匹が行動を共にしますが、その鶴が一匹だけで餌を取り、頭を上げて天を仰いで朋を求めて悲しく鳴く姿を思い描いて下さい。歌の世界の約束では鶴は下を向いては鳴かないことになっています。その背景が「入江二求食」と「友無二指天」の「二」です。そして一匹で鳴く悲しさが「友無二指天」の字の「指天」の空を見上げるのです。また、「痛多豆多頭思」の「あな、たどたどし」は「痛く、たどたどしい」の意味合いが本来ですが、「多頭思」を「多くの頭を思う」と理解すると仲間のいない孤独も示します。
一方、歌は都に戻った旅人から大宰府の沙弥満誓への返歌ですから、「多豆多頭思」には遥か彼方の豆のように見える大宰府の人々の頭の意味も隠れています。このように、この歌は使われている漢語や漢字が、すべて意味を持つような漢字表記の和歌です。当然、歌の全景は、天平二年暮れの藤原氏全盛の中で隠れるように生活している旅人の孤独ですし、「友無二指天」の文字に隠す天に還って行った長屋王への悲しみです。その中の泣き笑いです。
また、次の集歌0574の歌の「方西有良思」は「かたにしあるらし」と読みますが、筑紫の大宰府は奈良の都からは「西の方に在ると思う」の意味もあります。これらは、一見は漢詩調の口調の硬い歌ですが、「表記する和歌」では軽い遊びがあります。
例‐4
集歌0574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
訓読 ここにありて筑紫(つくし)や何処(いづち)白雲のたなびく山の方(かた)にしあるらし
意訳 ここ都にいて筑紫はどちらの方向になるのだろう。白雲のたなびく山の彼方にあるらしい。
このように万葉時代の教養ある歌人は、人麻呂調の和歌を詠う必要があったようです。ただし、これでは漢語や漢字の素養の要求水準が高すぎて、和歌は大衆のものにはなりません。これは教養ある貴族の集いで木簡に墨書して披露する風景があり、清談の歌であり、漢詩の曲水の宴の和歌版です。万葉集の巻一や巻二が捧呈歌や挽歌が中心であり、その相聞歌に後年の伝承歌謡からの採歌の雰囲気があるのは、人麻呂調の和歌の要請の結果ではないでしょうか。大衆の口には東歌で代表されるように和歌があります。が、表記方法がつたないのです。そして、人麻呂歌集の異伝などが示すように大衆の歌は、人麻呂調の和歌の要請する基準に満たないのです。参考に当時の九州地方の網元クラスの人が詠った歌を紹介します。歌は表記方法から作者自身が書記したと思われます。
豊後國白水郎謌一首
標訓 豊後國(とよのみりのしりのくに)の白水郎(あま)の歌一首
集歌3877 紅尓 染而之衣 雨零而 尓保比波雖為 移波米也毛
訓読 紅(くれなゐ)に染(そ)めてし衣(ころも)雨降りてにほひはすれともうつろはめやも
私訳 紅色に染めた衣は雨に濡れて色が鮮やかになることがあっても、色褪せることがあるでしょうか。
日本人が言葉の表記において、漢字で言葉の意味を示し仮名で音を表す表記方法を続けるのならば、現在でも、この人麻呂調の和歌は和歌の最高峰に位置すると思います。私たちは「当字とルビ」という武器があり、「表記する和歌」と「調べの和歌」を同時に持つことが出来るのです。ですが、人麻呂調の和歌は歌を黙読するには好いのですが、普段の人が感情を歌に詠むにはレベルが高すぎるのです。人麻呂調の和歌は漢詩で和歌を歌う姿ですから、漢語・漢詩・漢字を自由に支配している必要があります。そして、その教養があってさらに歌心が必要です。このハードルを越えたものだけが、「表記する和歌」を詠うのです。この姿は日本文学の高度なレベルを示すのですが、一方、滅びの世界への誘いです。では、人麻呂亡き後、いったい誰が和歌を詠うのでしょうか。この人麻呂調の和歌の要請は、一種「人麻呂のくびき」と呼ぶべき障害でもあります。
なお、ここで紹介している「人麻呂のくびき」の考え方は、万葉集は漢語と漢字で書かれているというスコップ持ちのおっちゃんの独特な考え方に成り立っています。そのため、普段に見る万葉集の訓読みや解釈とは離れています。
その「人麻呂のくびき」と呼ぶべき障害に対して、次の時代の天才が現れます。それが、大伴旅人です。漢語・漢詩・漢字を自由に支配した旅人が、人麻呂を棄てます。人麻呂を棄てることによる万葉仮名での一字一音表記の和歌の誕生です。原則、使用する万葉仮名の漢字に意味を期待しない、あくまでも耳で聞く「調べの和歌」です。極論すると、目で読み頭で理解する和歌から、耳で聞き心で理解する和歌への転換です。これは、大伴旅人や山上憶良達が、当時、第一級の漢詩・漢文の教養人であったからこそ出来たことです。漢語や漢文を、素養がなくて使えない事からの苦し紛れの「調べの和歌」ではありません。
この大伴旅人と云う変革の天才が現れたことで、和歌は大衆の心を表す歌になりました。人々は「人麻呂のくびき」から開放され、心の思いを一字一音に映すのです。ただし、和歌が心の思いを音に映すだけの表現作業になり、結果、大衆化したことにより、公式の場の和歌には歌での貴賎の区分と格調が要請されることになります。
なお、この歌論による和歌の「貴賎の区分」の説明は、紀貫之の古今和歌集の仮名序の誕生まで約百五十年を待つ必要があります。人麻呂調の和歌は、「表記する和歌」の特性から選字・用字などから絶対的な価値判断が可能ですが、旅人調の和歌は「調べの和歌」のために心の表現への相対的価値観しか生まれません。そして、その相対的価値観を論として、区分・整備したのが紀貫之です。古今最高の万葉集研究者である紀貫之だけが知る、旅人調の「調べの和歌」の弱点を知り抜いているからこそ為しえた業です。
例‐5
集歌0822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾(わ)が苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
意訳 わが庭に梅の花が散る。天涯の果てから雪が流れ来るよ。
集歌0851 和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
意訳 わが家に盛りと咲いている梅の花は、今にも散りそうになった。見る人があってほしい。
例‐5で示す歌々は、一字一音の万葉仮名の楷書体です。これを、もう一度、名詞や動詞を漢語で表しそれ以外の音を一字一音の万葉仮名で記し、それを草書や草仮名で表記するとそこには古今和歌集の世界が広がっています。そして、「ひらがな」ならば現代の和歌の世界です。その「ひらがな」が、普段に目にする訓読みや読み下しとされる万葉集の「和歌」です。
つまり、現在も詠まれている一般的な和歌を「和歌」というのならば、その産みの親は大伴旅人で、その誕生日までわかります。天平二年(730)正月十三日です。その後、歌の表記の体感速度は、行書小字体、草書連綿、草仮名連綿から「ひらがな」へと上がりましたが、本質は大伴旅人以来なにも変わっていません。なお、単語・発音・語の意味は同じでは無いと云う、専門家だけで通じる「為にする」茶化しはなしです。あくまでも、これは普段のスコップ持ちのおっちゃんの酔論です。
ただし、万葉集は、その本質は東歌のような口唱の採歌集ではなく、表記された歌の歌集です。したがって、万葉集の基本は、あくまでも人麻呂調の和歌の「表記する和歌」です。確かに大伴旅人は大衆に和歌を解放しましたが、当時の貴族階級は律令制が要請する行政能力や漢文での報告書作成能力の評価を行っていた時代の人々ですから「人麻呂調の和歌」を詠いこなす素養と教養を持っています。いえ、持っている人だけが当時の貴族(大夫)に任命されたのです。
なお、現在の万葉集の研究は、この人麻呂調の和歌である「表記する和歌」の存在を認めていません。あくまでも、万葉集は旅人調の「調べの和歌」だけです。そのため、万葉集の解釈の本質に深く関与する「表記する和歌」と「調べの和歌」を区分した研究や歌の解釈は、なかなかに見当たりません。
万葉の始めに人麻呂と云う一人の天才が、漢語と漢字を使って表記する大和言葉の宇宙を創りました。ただし、この人麻呂の創った大和言葉の宇宙は、大和言葉でありながら「表記する和歌」と云う外国語である中国語に精通する者たちだけの特別な歌の宇宙です。そして時が遷り時代は奈良の都になって、旅人と云うもう一人の和歌の天才が文学に革命を起こします。人麻呂の創った特別な日の特別な歌から、普段の人の普段の歌への革命です。万葉集後編 宇梅乃波奈は、そんな和歌の革命の後の大和歌の歌集です。
人麻呂のくびき
普段の私達では、「くびき」は余り聞き慣れない言葉と思います。本来は牛馬を使って鋤や荷車を引く時に牛や馬の首に付ける道具ですが、「タタールのくびき」などと使う場合は政治・文化等での歴史的な制約の意味合いが生まれます。私はこの「くびき」の言葉を、和歌の区分の中で「人麻呂のくびき」と新しい言葉を作って使っています。
ここで、非常に初歩的な万葉集への疑問です。いつ頃から、記録に残る和歌が普段の人々に普及したのでしょうか。この普段の人々とは、万葉の時代の特別な外国語である中国語や漢文に精通した国際人の貴族階級でなく、一般の無名歌を詠った人たちです。
前提として、日本書紀の天武十一年(682)八月の「詔禮儀言語之状」の記事からすると、天武十一年八月になってやっと、宮中の儀礼と使用言語が統一されたようですから、天智天皇や天武天皇の時代に朝廷で使われていた言葉が日本語の前身の大和言葉なのか中国語だったのかは明確ではありません。そんな時代の貴族階級の人達において、漢詩のルールを取り入れての身内で通用する和歌は早くから成立していたでしょう。少なくとも、古事記の序の稗田阿禮の記事や額田王・高市皇子の歌を信じると天智天皇から天武天皇の時代には非略体歌と分類される漢語と一部の「てにをは」を真仮名文字で記した記録に残る和歌はあったと思われます。しかし、まだ、それは一部の貴族階級だけの和歌です。普段の人々にとって、歌は口で詠い伝えるだけのものだったと思います。
額田王謌
集歌0008 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
そんな時代に独りの天才が現れます。それが柿本人麻呂です。ただし、柿本人麻呂は、非常に困った天才です。彼は、いきなり、漢語や漢詩のルールで和歌を完璧に詠い挙げてしまったのです。また、時代の教養人も、その漢語や漢詩のルールで和歌を詠い挙げてしまったことに対して敏感に反応し、それを理想の姿としたようです。漢詩が母親のような和歌と云いますか、歌で使われている漢語や漢字のすべてが意味を持つような非常に高度な教養水準の漢字表記の和歌です。この人麻呂が表記する和歌の世界は、国際都市である飛鳥浄御原宮や藤原宮で生活する中国語を話し漢文を使う人々には、大和言葉が判らなくても歌の世界のイメージが容易に掴めるような共通文化の和歌です。つまり、国際都市における国際共通語による和歌です。
参考に次の例‐1の歌で示すと、「河浪立奴」は「川波立ちぬ」と読むだけでなく、「立奴」には川岸に男が立っている風情があります。また、「由槻我高仁」は「由槻が嶽に」なのですが、「我高」には由槻が嶽が独り高くそびえている風情があります。「雲居立有良志」の「雲居立てるらし」にも、同様に「有良志」に初夏の風が心地よい思いが感じられます。それでいて、歌は口に出しても口調のよい大和歌なのです。当然、歌は和歌です。漢詩ではありませんが、私達が中国の旧字体の漢字文をなんとなく理解できるように、当時の中国語を話す人々もなんとなく理解できたと思われます。
人麻呂歌集 推定で柿本人麻呂の歌
例‐1
集歌1087 痛足河 河浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志
訓読 痛足川川波立ちぬ巻目の由槻が嶽に雲居立てるらし
意訳 痛足川には川波が騒ぎ立って来た。巻目の由槻が岳に雲が湧き起こっているらしい。
それで、柿本人麻呂は非常な天才であり歌聖なのでしょう。例‐2の歌でも、「足引之」の「あしひきの」には木々の繁る「葦や檜の」と「足を引きずる痛足(あなし)の痛足川」の意味合いが隠れていますし、「響苗尓」の読みの「響るなへに」の「苗」には稲妻の謂れの「稲の苗」の意味合いがあります。つまり、この「響るなへに」には、川瀬の音だけでなく雲行きが怪しい弓月が嶽での遠雷の音も含まれています。そして、万葉人は、この人麻呂調の和歌を善しとしたようです。
なお、今回、紹介する意訳はこのような私訳では長々しい解説が必要になるために、不遜ではありますが万葉集(全訳注原文付 中西進 講談社文庫)をままに記載させていただきます。
例‐2
集歌1088 足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
訓読 あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る
意訳 あしひきの山川の瀬音が激しくなるにつれて、弓月が嶽に雲の立ち渡るのが見える。
柿本人麻呂が飛鳥時代の天才としますと、もう一人の天才が養老・神亀時代の大伴旅人です。その養老・神亀の天才を説明する前に、彼の人麻呂調の「表記する和歌」の実力を見るために旅人の歌を紹介します。
例‐3
集歌0575 草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
訓読 草香江(くさかえ)の入江に求食(あさ)る葦鶴(よしたづ)のあなたづたづし友無しにして
意訳 草香江の入江に餌をあさる葦べの鶴のように、ああ心もとないことよ。友は遠くにして。
最初にこの集歌0575の歌を理解するには、鶴の日常の約束を踏まえる必要があります。夫婦鶴と云うように鶴は普段は雌雄二匹が行動を共にしますが、その鶴が一匹だけで餌を取り、頭を上げて天を仰いで朋を求めて悲しく鳴く姿を思い描いて下さい。歌の世界の約束では鶴は下を向いては鳴かないことになっています。その背景が「入江二求食」と「友無二指天」の「二」です。そして一匹で鳴く悲しさが「友無二指天」の字の「指天」の空を見上げるのです。また、「痛多豆多頭思」の「あな、たどたどし」は「痛く、たどたどしい」の意味合いが本来ですが、「多頭思」を「多くの頭を思う」と理解すると仲間のいない孤独も示します。
一方、歌は都に戻った旅人から大宰府の沙弥満誓への返歌ですから、「多豆多頭思」には遥か彼方の豆のように見える大宰府の人々の頭の意味も隠れています。このように、この歌は使われている漢語や漢字が、すべて意味を持つような漢字表記の和歌です。当然、歌の全景は、天平二年暮れの藤原氏全盛の中で隠れるように生活している旅人の孤独ですし、「友無二指天」の文字に隠す天に還って行った長屋王への悲しみです。その中の泣き笑いです。
また、次の集歌0574の歌の「方西有良思」は「かたにしあるらし」と読みますが、筑紫の大宰府は奈良の都からは「西の方に在ると思う」の意味もあります。これらは、一見は漢詩調の口調の硬い歌ですが、「表記する和歌」では軽い遊びがあります。
例‐4
集歌0574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
訓読 ここにありて筑紫(つくし)や何処(いづち)白雲のたなびく山の方(かた)にしあるらし
意訳 ここ都にいて筑紫はどちらの方向になるのだろう。白雲のたなびく山の彼方にあるらしい。
このように万葉時代の教養ある歌人は、人麻呂調の和歌を詠う必要があったようです。ただし、これでは漢語や漢字の素養の要求水準が高すぎて、和歌は大衆のものにはなりません。これは教養ある貴族の集いで木簡に墨書して披露する風景があり、清談の歌であり、漢詩の曲水の宴の和歌版です。万葉集の巻一や巻二が捧呈歌や挽歌が中心であり、その相聞歌に後年の伝承歌謡からの採歌の雰囲気があるのは、人麻呂調の和歌の要請の結果ではないでしょうか。大衆の口には東歌で代表されるように和歌があります。が、表記方法がつたないのです。そして、人麻呂歌集の異伝などが示すように大衆の歌は、人麻呂調の和歌の要請する基準に満たないのです。参考に当時の九州地方の網元クラスの人が詠った歌を紹介します。歌は表記方法から作者自身が書記したと思われます。
豊後國白水郎謌一首
標訓 豊後國(とよのみりのしりのくに)の白水郎(あま)の歌一首
集歌3877 紅尓 染而之衣 雨零而 尓保比波雖為 移波米也毛
訓読 紅(くれなゐ)に染(そ)めてし衣(ころも)雨降りてにほひはすれともうつろはめやも
私訳 紅色に染めた衣は雨に濡れて色が鮮やかになることがあっても、色褪せることがあるでしょうか。
日本人が言葉の表記において、漢字で言葉の意味を示し仮名で音を表す表記方法を続けるのならば、現在でも、この人麻呂調の和歌は和歌の最高峰に位置すると思います。私たちは「当字とルビ」という武器があり、「表記する和歌」と「調べの和歌」を同時に持つことが出来るのです。ですが、人麻呂調の和歌は歌を黙読するには好いのですが、普段の人が感情を歌に詠むにはレベルが高すぎるのです。人麻呂調の和歌は漢詩で和歌を歌う姿ですから、漢語・漢詩・漢字を自由に支配している必要があります。そして、その教養があってさらに歌心が必要です。このハードルを越えたものだけが、「表記する和歌」を詠うのです。この姿は日本文学の高度なレベルを示すのですが、一方、滅びの世界への誘いです。では、人麻呂亡き後、いったい誰が和歌を詠うのでしょうか。この人麻呂調の和歌の要請は、一種「人麻呂のくびき」と呼ぶべき障害でもあります。
なお、ここで紹介している「人麻呂のくびき」の考え方は、万葉集は漢語と漢字で書かれているというスコップ持ちのおっちゃんの独特な考え方に成り立っています。そのため、普段に見る万葉集の訓読みや解釈とは離れています。
その「人麻呂のくびき」と呼ぶべき障害に対して、次の時代の天才が現れます。それが、大伴旅人です。漢語・漢詩・漢字を自由に支配した旅人が、人麻呂を棄てます。人麻呂を棄てることによる万葉仮名での一字一音表記の和歌の誕生です。原則、使用する万葉仮名の漢字に意味を期待しない、あくまでも耳で聞く「調べの和歌」です。極論すると、目で読み頭で理解する和歌から、耳で聞き心で理解する和歌への転換です。これは、大伴旅人や山上憶良達が、当時、第一級の漢詩・漢文の教養人であったからこそ出来たことです。漢語や漢文を、素養がなくて使えない事からの苦し紛れの「調べの和歌」ではありません。
この大伴旅人と云う変革の天才が現れたことで、和歌は大衆の心を表す歌になりました。人々は「人麻呂のくびき」から開放され、心の思いを一字一音に映すのです。ただし、和歌が心の思いを音に映すだけの表現作業になり、結果、大衆化したことにより、公式の場の和歌には歌での貴賎の区分と格調が要請されることになります。
なお、この歌論による和歌の「貴賎の区分」の説明は、紀貫之の古今和歌集の仮名序の誕生まで約百五十年を待つ必要があります。人麻呂調の和歌は、「表記する和歌」の特性から選字・用字などから絶対的な価値判断が可能ですが、旅人調の和歌は「調べの和歌」のために心の表現への相対的価値観しか生まれません。そして、その相対的価値観を論として、区分・整備したのが紀貫之です。古今最高の万葉集研究者である紀貫之だけが知る、旅人調の「調べの和歌」の弱点を知り抜いているからこそ為しえた業です。
例‐5
集歌0822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾(わ)が苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
意訳 わが庭に梅の花が散る。天涯の果てから雪が流れ来るよ。
集歌0851 和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
意訳 わが家に盛りと咲いている梅の花は、今にも散りそうになった。見る人があってほしい。
例‐5で示す歌々は、一字一音の万葉仮名の楷書体です。これを、もう一度、名詞や動詞を漢語で表しそれ以外の音を一字一音の万葉仮名で記し、それを草書や草仮名で表記するとそこには古今和歌集の世界が広がっています。そして、「ひらがな」ならば現代の和歌の世界です。その「ひらがな」が、普段に目にする訓読みや読み下しとされる万葉集の「和歌」です。
つまり、現在も詠まれている一般的な和歌を「和歌」というのならば、その産みの親は大伴旅人で、その誕生日までわかります。天平二年(730)正月十三日です。その後、歌の表記の体感速度は、行書小字体、草書連綿、草仮名連綿から「ひらがな」へと上がりましたが、本質は大伴旅人以来なにも変わっていません。なお、単語・発音・語の意味は同じでは無いと云う、専門家だけで通じる「為にする」茶化しはなしです。あくまでも、これは普段のスコップ持ちのおっちゃんの酔論です。
ただし、万葉集は、その本質は東歌のような口唱の採歌集ではなく、表記された歌の歌集です。したがって、万葉集の基本は、あくまでも人麻呂調の和歌の「表記する和歌」です。確かに大伴旅人は大衆に和歌を解放しましたが、当時の貴族階級は律令制が要請する行政能力や漢文での報告書作成能力の評価を行っていた時代の人々ですから「人麻呂調の和歌」を詠いこなす素養と教養を持っています。いえ、持っている人だけが当時の貴族(大夫)に任命されたのです。
なお、現在の万葉集の研究は、この人麻呂調の和歌である「表記する和歌」の存在を認めていません。あくまでも、万葉集は旅人調の「調べの和歌」だけです。そのため、万葉集の解釈の本質に深く関与する「表記する和歌」と「調べの和歌」を区分した研究や歌の解釈は、なかなかに見当たりません。
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