万葉雑記 色眼鏡 百七三 女性の祭日の歌を楽しむ
今回は題に「女性の祭日の歌を楽しむ」と云うものを与えています。ただ、ここでの女性は若い未婚の女性を想定してください。性別を根拠とするような幼女から老女までと云う広い範囲ではありません。
ここで、古い言葉に五節句と云うものがあり、人日(正月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)がそれに当たります。人日は七草粥を食べる風習で今日でも祝っていますし、この上巳の節句は別名、雛の節句や桃の節句とも呼ばれ、今日の雛祭りで祝われています。なお、同じ発音「ななくさかゆ」となりますが、正月十五日の小正月で食べる米穀に春の七草を炊き合わせる七草粥と人日の七つの雑穀を炊き合わせる七種粥とは違うものです。七種粥は大陸の風習そのままであり、七草粥は日本の初春の若菜摘みと七種粥とが融合してできた日本の風習です。端午はそのままズバリ、端午の節句で男の子の成長祝いとなっています。七夕の節句は説明するまでもなく、重陽は菊の節句とも呼ばれ、長寿を願い・祝うものです。
なお、これらの節句行事において江戸期に風習化した影響が大きく、上巳の節句での雛祭りは江戸期からですし、重陽の節句は江戸期までは重要なものではなく、秋の節会は観月が重要なものとなっています。また、端午の節句が男の子の祭りとなったのは鎌倉時代以降に、祀りで使う菖蒲草の発声「しょうぶ」から勝負や尚武と云う言葉を導き出した駄洒落が元であって、特に江戸期になって流行って来た祭りです。それまでは特別、男の子とは関係のないものでした。それに、奈良時代では、春は上巳の節句よりも春菜摘みの野遊びが、秋は重陽の節句よりも中秋の満月を愛でる観月が重要なものだったようです。そのため、江戸時代からの風習を下に奈良時代を眺めますと、上巳の節句や重陽の節句の歌が無い、実に不思議だというような感想になります。他方、春菜摘みの野遊びを詠う歌を見ますと、万葉集が全盛期となります。色眼鏡で時代を眺めますと、赤でも青でもいくらでも色を染めることが出来ることになります。当然、その色眼鏡を外せば、見える世界は全くに違います。
そうした時、意外でしょうが、五節句の中で女性を中心とする節句は端午と七夕で、端午は糸と薬草に関係し女児節と称され、七夕もまた棚機女の祭りと別称するように女性の機織に関係します。節句ではありませんが、春の春菜摘みでは女性が中心になりますし、秋の中秋の観月祭でもそうです。
さて、先に正月七日の人日の節句で、本来は七つの雑穀を炊いて粥として食べる大陸の七種粥が、日本では春菜摘みと合わさり七草粥の風習になったと説明しました。その季節の行事として平安時代では正月子の日の御遊と呼ぶ春菜摘みがあります。季節は現在の二月上旬ごろとなりますので、摘む野草は「うはぎ(=嫁菜)」が中心だったようで、現在でも春の「よめな御飯」は季節料理として有名です。この正月子の日の春菜摘みに関係しそうな万葉集歌を次に紹介します。日本は中国や朝鮮半島とは違い、遊びの中心は女性です。そのため、日本の風習には女性の姿があります。
集歌1427 従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
訓読 明日(あす)よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 明日からは春の若菜を摘もうと。その人の立ち入りが禁じられた野に、昨日も今日も雪が降り続く。
集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みて煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。
集歌1888 白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉
訓読 白雪し常(つね)敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺(のへ)し鴬鳴くも
私訳 白雪がいつも降り積もる冬はきっとその季節を過ぎたようです、春霞の棚引く野辺に鶯が鳴いています。
つぎに上巳の節句の宴を詠った歌が万葉集中にありますが、これは大伴家持が大唐の風流をなぞったものであって、この時代では民衆レベルに根付いた風習ではありません。そのため、遊びには女性の姿が見えません。
三日守大伴宿祢家持之舘宴謌三首
標訓 三月三日、守大伴宿祢家持の舘にして宴(うたげ)せす謌三首
集歌4151 今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里
訓読 今日しためと思ひて標(しめ)しあしひきの峯し上し桜かく咲きにけり
私訳 今日のためにと願って出入り禁制の結界を設けた、足を引くような険しい峰の上に桜が、このように咲きました。
集歌4152 奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒
訓読 奥山し八峯(やつを)の椿つばらかに今日は暮らさね大夫(ますらを)し徒(とも)
私訳 奥山のたくさんの峰の椿の、その言葉のひびきではないが、つばらかに(=思い残すことなく)今日は一日、宴をして過ごしましょう。立派な大夫の人々よ。
集歌4153 漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈
訓読 漢人(からひと)も筏浮かべに遊ぶと云ふ今日ぞ吾が背子花縵(はなかづら)せな
私訳 漢の人も筏を浮かべて風流を楽しむと云います。今日は、私の大切な貴方たち、花で髪飾りをしましょう。
一方、仲春の春菜摘みは大和人には楽しい風習だったようで、男どもは野で楽しそうに春菜摘みして遊ぶ乙女を眺め、時にはその乙女を野良で抱くのが好みだったようです。集歌1421の歌は上着を着ていたら見ることはできるはずのないのですが、下着を留める紐を見ると云っていますから、婉曲的に野良で乙女を抱いたとしています。歌の季節は山に花がありますから、旧暦三月頃の、現在の四月上旬と云うものとなります。正月子の日の春菜摘みでは多年草の地上からやっと芽を出したような若菜ですが、この時期では気温も上がりアブラナやダイコンなどの菜の花や若芽が中心だったと思われます。およそ、この時期では春菜の背の高さが違い、正月子の日の春菜摘みのようにしゃがみ込む必要は、それほどは無かったのではないでしょうか。ここでもまた野遊びの中心は女性です。
集歌1421 春山之 開乃乎為黒尓 春菜採 妹之白紐 見九四与四門
訓読 春山し咲きの愛(を)しくに春菜摘む妹し白紐(しらひも)見らくし良しも
私訳 春山の桜の花の咲くのを愛でながら、春菜を摘む恋人の衣の白い(下)紐を眺めるのも快いことです。
集歌1442 難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也
訓読 難波辺(なにはへ)に人し行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜摘む児を見るし悲しさ
私訳 難波の方にその子の恋人が行ってしまったので、後に残されて独りで春菜を摘む娘子の姿を見るのが切ない。
そして、五月です。この時期は女児節とも称された古式の五月忌みの神事の季節であり、また渡来の厄除け行事である端午の節句でもあります。この神祀りでは橘や菖蒲を糸で貫き、たすきとして肩にかけ、禊ぎの証しとしますし、邪気除けのまじないとします。菖蒲を使っての厄除けは中国・朝鮮・日本に共通しますから、これは日本古来の風習ではなく、朝鮮を経由した大陸由来の風習と捉えるのが良いようで、万葉集歌の時代では新しい風習となります。ただし、厄除けや禊ぎを目的とするたすきは日本古来の風習です。
集歌1967 香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香
訓読 かぐはしき花橘を玉貫(ぬ)きし送(おく)らむ妹はみつれてもあるか
私訳 芳しい花橘の花びらを玉たすきとして貫いて贈ってくれるはずの愛しい貴女は、病気なのでしょうか。(今年は贈ってきません)
集歌1975 不時 玉乎曽連有 宇能花乃 五月乎待者 可久有
訓読 時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯の花の五月(さつき)を待たば久(ひさ)しくあるべみ
私訳 まだその時節ではないのだが、玉たすきとして紐に貫いているように咲いている卯の花の、その花を玉たすきとして貫いて肩に掛ける端午の節句の五月を待っていると、実に待ち遠しいでしょう。
直接の歌ではありませんが、五節舞は御田植祭で奉納される田舞が由来と思われる舞いで、伝承では天武天皇が鄙の田舞から形式美を持った宮中舞へと整備し、重要な宮中神事では舞うものとされています。次の集歌51の歌は藤原京遷都の行事での采女の舞姿を詠ったものですから、ほぼ、五節舞であったと推定されます。逆に五節舞や御田植祭の田舞を遡れば端午の節句での女児節の遊びを想像できることになります。
集歌51 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。
さて、七夕ですが、牽牛織女の伝説は中国に源を持ちます。そのため、本場中国では織女が着飾ってカササギの羽で出来た橋(烏鵲橋)を渡って牽牛の許に通い、他方、日本では天の川を月人壮士、孫星、男星などと表記される男が舟で越えて女の許を訪れます。さらに日本の七夕の女は男に新しい衣を着てもらうために機を織って待っているとします。このように男と女のどちらが通うのかと云う点からして中国や朝鮮半島の七夕とは風情が違いますし、着飾り衆人注目の下、男の許に女が通わさせると云う風習は日本にはありません。
また、織女の伝説から機織り、染色、裁縫などの技巧の上達を願う乞巧奠の祭りでもあります。なお、万葉集に乞巧奠を探しましたが見つかりませんでしたので、代わりに古今和歌集からそれを紹介します。
<カササギ(鵲)の翼で橋を架け、通う歌>
『全唐詩』より「七夕」(劉威)
烏鵲橋成上界通 烏鵲は橋を成して上界を通わし
千秋霊會此宵同 千秋の霊會は此の宵と同じくす
雲收喜氣星樓曉 雲は喜氣を收め星樓は曉たり
香拂輕塵玉殿空 香は輕塵を拂ひ玉殿は空し
翠輦不行青草路 翠輦は青草路を行かず
金鑾徒候白楡風 金鑾は徒らに白楡の風に候ふ
采盤花閣無窮意 盤花は閣を采どり意は窮きること無し
只在遊絲一縷中 只、遊絲は一縷中に在り
<牽牛ではなく月人壮士や孫星の歌>
集歌2010 夕星毛 往来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
訓読 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 夕星が移り行く天の道を、年に一度の逢う日をいつまでかと仰いで待っている月人壮士。
集歌2029 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
訓読 天つ川楫し音聞こゆ彦星(ひこほし)し織女(たなばたつめ)と今夕(こよひ)逢ふらしも
私訳 天の川に楫の音が聞こえます。彦星が織女と今夕に逢うようです。
<織女が機を織り、月人壮士を迎える歌>
集歌2027 為我登 織女之 其屋戸尓 織白布 織弖兼鴨
訓読 我がためと織女(たなばたつめ)しその屋(や)戸(と)に織(お)る白栲し織りてけむかも
私訳 今度逢う時にと、私のためと織女がその家で織る白栲はもう織り終わったでしょうか。
集歌2034 棚機之 五百機立而 織布之 秋去衣 孰取見
訓読 棚機(たなはた)し五百機(いほはた)立てて織(お)る布(ぬの)し秋さり衣(ころも)誰か取り見む
私訳 織姫がたくさんの機を立てて織る布よ、七夕の秋がやって来たとき、誰がその布を手に取って眺めるのでしょうか。
<乞巧奠を詠う歌>
古今和歌集 歌番180
原歌 たなはたにかしつるいとのうちはへてとしのをなかくこひやわたらむ
解釈 七夕にかしつる糸のうちはへて年のを長く恋ひや渡らむ
私訳 織女を祝う七夕の乞巧奠の祭壇から大切に吊るす五色の糸が長い、その言葉ではないが長い年月に渡って私は貴方を慕っています。
さらに日本では七夕馬と云う風習があり、菰や萱で馬の模型を作り先祖の精霊を祀るということをします。この七夕馬の祭りを前提にしたものが次の集歌525や集歌3313の歌です。歌は先祖の精霊が菰や萱で作った馬に乗り、川の向こう側から里へと帰って来ることを模して、大夫格の男が騎上で女の許を尋ねるという風情を示します。正月子の日の春菜摘みや仲春の春菜摘みでの乙女は特定の男の妻問いを待つ女性ではありませんが、この七夕馬の女性は特定の男の妻問いを待つという成熟した女と云う雰囲気があります。
集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです
集歌3313 川瀬之 石迹渡 野干玉之 黒馬之来夜者 常二有沼鴨
訓読 川し瀬し石(いは)踏み渡りぬばたまし黒馬し来る夜(よ)は常(つね)にあらぬかも
私訳 川の瀬の石を踏み渡り、人々が待ち焦がれる漆黒の黒馬に乗って恋人がやって来る棚機津女の夜が、私に常にあってほしい。
中国の風習からしますと九月九日の重陽の節句は長寿を祝う重要な行事ですが、日本ではそれより少し早い八月十五日、中秋の観月祭の方が重要だったようです。なお、藤原京から前期平城京時代、九月九日は天武天皇の御斎会に当たるため、重陽の節句を祝うことを遠慮した可能性があります。それで、重陽を詠う歌がない理由かもしれません。参考で、万葉集の御斎会と聖武天皇以降の御斎会では示すものが違います。万葉集の「御斎会」は漢字が意味する通りの「身を慎み、斎き祀る」の意味です。
つぎに紹介する歌は中秋の観月宴で湯原王が詠う歌ですが、歌垣歌のような掛け合い歌の中のものです。その掛け合い歌の相手は万葉集では「娘子」とだけ紹介され、氏姓は不明な女性です。
<観月からの歌>
集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<その観月の宴での掛け合い歌から抜粋>
娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。
湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜、私に身を許したのに今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。
中秋の満月は「照月得子」と云う故事成語があるように、子を望む成人女性には重要な祭りです。また、中国では中秋の満月に絡めて嫦娥や西王母の伝説が伝わるように季節において重要なお祭りでもあります。ただ、「照月得子」と云う言葉からして日本の中秋の観月祭もまた未通女児である早乙女の祭りと云うより、妻問いをされる成女の祭りと云う雰囲気が強いのではないでしょうか。
参考に山上憶良が秋の七草の歌を詠っています。歌では萩や女郎花の花を詠いますからこれは旧暦九月九日の重陽の節句ではなく、八月十五日の中秋祭の方で詠われたものと思われます。花や里芋で代表される農作物を供えて、風流を楽しんだのではないでしょうか。
山上巨憶良詠秋野花二首
標訓 山上(やまのうへの)巨(おほ)憶良(おくら)の、秋の野の花を詠める二首
集歌1537 秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 (其一)
訓読 秋し野に咲きたる花を指(および)折(を)りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)し花 (其一)
私訳 秋の野に咲いている花を指折り、その数を数えると七種類の花です。
注意 標の「山上巨憶良」の「巨(おほ)」は、一般に「臣(おみ)」の誤記とします。
集歌1538 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 (其二)
訓読 萩(はぎ)し花尾花(をばな)葛花(ふぢはな)撫子(なでしこ)し花姫部志(をみなえし)また藤袴(ふじはかま)朝貌(あさかほ)し花 (其二)
私訳 萩の花、尾花、葛の花、撫子の花、女郎花、また、藤袴、朝貌の花
女性の歌だけで年中行事となる祭り歌を探しましたが、すこし難しいものがありました。なお、平成二十八年の端午の節句は六月九日(木)に当たります。本来ですと、未通女である女児が着飾って早乙女祭を祝う日です。
今回は題に「女性の祭日の歌を楽しむ」と云うものを与えています。ただ、ここでの女性は若い未婚の女性を想定してください。性別を根拠とするような幼女から老女までと云う広い範囲ではありません。
ここで、古い言葉に五節句と云うものがあり、人日(正月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)がそれに当たります。人日は七草粥を食べる風習で今日でも祝っていますし、この上巳の節句は別名、雛の節句や桃の節句とも呼ばれ、今日の雛祭りで祝われています。なお、同じ発音「ななくさかゆ」となりますが、正月十五日の小正月で食べる米穀に春の七草を炊き合わせる七草粥と人日の七つの雑穀を炊き合わせる七種粥とは違うものです。七種粥は大陸の風習そのままであり、七草粥は日本の初春の若菜摘みと七種粥とが融合してできた日本の風習です。端午はそのままズバリ、端午の節句で男の子の成長祝いとなっています。七夕の節句は説明するまでもなく、重陽は菊の節句とも呼ばれ、長寿を願い・祝うものです。
なお、これらの節句行事において江戸期に風習化した影響が大きく、上巳の節句での雛祭りは江戸期からですし、重陽の節句は江戸期までは重要なものではなく、秋の節会は観月が重要なものとなっています。また、端午の節句が男の子の祭りとなったのは鎌倉時代以降に、祀りで使う菖蒲草の発声「しょうぶ」から勝負や尚武と云う言葉を導き出した駄洒落が元であって、特に江戸期になって流行って来た祭りです。それまでは特別、男の子とは関係のないものでした。それに、奈良時代では、春は上巳の節句よりも春菜摘みの野遊びが、秋は重陽の節句よりも中秋の満月を愛でる観月が重要なものだったようです。そのため、江戸時代からの風習を下に奈良時代を眺めますと、上巳の節句や重陽の節句の歌が無い、実に不思議だというような感想になります。他方、春菜摘みの野遊びを詠う歌を見ますと、万葉集が全盛期となります。色眼鏡で時代を眺めますと、赤でも青でもいくらでも色を染めることが出来ることになります。当然、その色眼鏡を外せば、見える世界は全くに違います。
そうした時、意外でしょうが、五節句の中で女性を中心とする節句は端午と七夕で、端午は糸と薬草に関係し女児節と称され、七夕もまた棚機女の祭りと別称するように女性の機織に関係します。節句ではありませんが、春の春菜摘みでは女性が中心になりますし、秋の中秋の観月祭でもそうです。
さて、先に正月七日の人日の節句で、本来は七つの雑穀を炊いて粥として食べる大陸の七種粥が、日本では春菜摘みと合わさり七草粥の風習になったと説明しました。その季節の行事として平安時代では正月子の日の御遊と呼ぶ春菜摘みがあります。季節は現在の二月上旬ごろとなりますので、摘む野草は「うはぎ(=嫁菜)」が中心だったようで、現在でも春の「よめな御飯」は季節料理として有名です。この正月子の日の春菜摘みに関係しそうな万葉集歌を次に紹介します。日本は中国や朝鮮半島とは違い、遊びの中心は女性です。そのため、日本の風習には女性の姿があります。
集歌1427 従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
訓読 明日(あす)よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 明日からは春の若菜を摘もうと。その人の立ち入りが禁じられた野に、昨日も今日も雪が降り続く。
集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みて煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。
集歌1888 白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉
訓読 白雪し常(つね)敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺(のへ)し鴬鳴くも
私訳 白雪がいつも降り積もる冬はきっとその季節を過ぎたようです、春霞の棚引く野辺に鶯が鳴いています。
つぎに上巳の節句の宴を詠った歌が万葉集中にありますが、これは大伴家持が大唐の風流をなぞったものであって、この時代では民衆レベルに根付いた風習ではありません。そのため、遊びには女性の姿が見えません。
三日守大伴宿祢家持之舘宴謌三首
標訓 三月三日、守大伴宿祢家持の舘にして宴(うたげ)せす謌三首
集歌4151 今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里
訓読 今日しためと思ひて標(しめ)しあしひきの峯し上し桜かく咲きにけり
私訳 今日のためにと願って出入り禁制の結界を設けた、足を引くような険しい峰の上に桜が、このように咲きました。
集歌4152 奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒
訓読 奥山し八峯(やつを)の椿つばらかに今日は暮らさね大夫(ますらを)し徒(とも)
私訳 奥山のたくさんの峰の椿の、その言葉のひびきではないが、つばらかに(=思い残すことなく)今日は一日、宴をして過ごしましょう。立派な大夫の人々よ。
集歌4153 漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈
訓読 漢人(からひと)も筏浮かべに遊ぶと云ふ今日ぞ吾が背子花縵(はなかづら)せな
私訳 漢の人も筏を浮かべて風流を楽しむと云います。今日は、私の大切な貴方たち、花で髪飾りをしましょう。
一方、仲春の春菜摘みは大和人には楽しい風習だったようで、男どもは野で楽しそうに春菜摘みして遊ぶ乙女を眺め、時にはその乙女を野良で抱くのが好みだったようです。集歌1421の歌は上着を着ていたら見ることはできるはずのないのですが、下着を留める紐を見ると云っていますから、婉曲的に野良で乙女を抱いたとしています。歌の季節は山に花がありますから、旧暦三月頃の、現在の四月上旬と云うものとなります。正月子の日の春菜摘みでは多年草の地上からやっと芽を出したような若菜ですが、この時期では気温も上がりアブラナやダイコンなどの菜の花や若芽が中心だったと思われます。およそ、この時期では春菜の背の高さが違い、正月子の日の春菜摘みのようにしゃがみ込む必要は、それほどは無かったのではないでしょうか。ここでもまた野遊びの中心は女性です。
集歌1421 春山之 開乃乎為黒尓 春菜採 妹之白紐 見九四与四門
訓読 春山し咲きの愛(を)しくに春菜摘む妹し白紐(しらひも)見らくし良しも
私訳 春山の桜の花の咲くのを愛でながら、春菜を摘む恋人の衣の白い(下)紐を眺めるのも快いことです。
集歌1442 難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也
訓読 難波辺(なにはへ)に人し行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜摘む児を見るし悲しさ
私訳 難波の方にその子の恋人が行ってしまったので、後に残されて独りで春菜を摘む娘子の姿を見るのが切ない。
そして、五月です。この時期は女児節とも称された古式の五月忌みの神事の季節であり、また渡来の厄除け行事である端午の節句でもあります。この神祀りでは橘や菖蒲を糸で貫き、たすきとして肩にかけ、禊ぎの証しとしますし、邪気除けのまじないとします。菖蒲を使っての厄除けは中国・朝鮮・日本に共通しますから、これは日本古来の風習ではなく、朝鮮を経由した大陸由来の風習と捉えるのが良いようで、万葉集歌の時代では新しい風習となります。ただし、厄除けや禊ぎを目的とするたすきは日本古来の風習です。
集歌1967 香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香
訓読 かぐはしき花橘を玉貫(ぬ)きし送(おく)らむ妹はみつれてもあるか
私訳 芳しい花橘の花びらを玉たすきとして貫いて贈ってくれるはずの愛しい貴女は、病気なのでしょうか。(今年は贈ってきません)
集歌1975 不時 玉乎曽連有 宇能花乃 五月乎待者 可久有
訓読 時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯の花の五月(さつき)を待たば久(ひさ)しくあるべみ
私訳 まだその時節ではないのだが、玉たすきとして紐に貫いているように咲いている卯の花の、その花を玉たすきとして貫いて肩に掛ける端午の節句の五月を待っていると、実に待ち遠しいでしょう。
直接の歌ではありませんが、五節舞は御田植祭で奉納される田舞が由来と思われる舞いで、伝承では天武天皇が鄙の田舞から形式美を持った宮中舞へと整備し、重要な宮中神事では舞うものとされています。次の集歌51の歌は藤原京遷都の行事での采女の舞姿を詠ったものですから、ほぼ、五節舞であったと推定されます。逆に五節舞や御田植祭の田舞を遡れば端午の節句での女児節の遊びを想像できることになります。
集歌51 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。
さて、七夕ですが、牽牛織女の伝説は中国に源を持ちます。そのため、本場中国では織女が着飾ってカササギの羽で出来た橋(烏鵲橋)を渡って牽牛の許に通い、他方、日本では天の川を月人壮士、孫星、男星などと表記される男が舟で越えて女の許を訪れます。さらに日本の七夕の女は男に新しい衣を着てもらうために機を織って待っているとします。このように男と女のどちらが通うのかと云う点からして中国や朝鮮半島の七夕とは風情が違いますし、着飾り衆人注目の下、男の許に女が通わさせると云う風習は日本にはありません。
また、織女の伝説から機織り、染色、裁縫などの技巧の上達を願う乞巧奠の祭りでもあります。なお、万葉集に乞巧奠を探しましたが見つかりませんでしたので、代わりに古今和歌集からそれを紹介します。
<カササギ(鵲)の翼で橋を架け、通う歌>
『全唐詩』より「七夕」(劉威)
烏鵲橋成上界通 烏鵲は橋を成して上界を通わし
千秋霊會此宵同 千秋の霊會は此の宵と同じくす
雲收喜氣星樓曉 雲は喜氣を收め星樓は曉たり
香拂輕塵玉殿空 香は輕塵を拂ひ玉殿は空し
翠輦不行青草路 翠輦は青草路を行かず
金鑾徒候白楡風 金鑾は徒らに白楡の風に候ふ
采盤花閣無窮意 盤花は閣を采どり意は窮きること無し
只在遊絲一縷中 只、遊絲は一縷中に在り
<牽牛ではなく月人壮士や孫星の歌>
集歌2010 夕星毛 往来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
訓読 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 夕星が移り行く天の道を、年に一度の逢う日をいつまでかと仰いで待っている月人壮士。
集歌2029 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
訓読 天つ川楫し音聞こゆ彦星(ひこほし)し織女(たなばたつめ)と今夕(こよひ)逢ふらしも
私訳 天の川に楫の音が聞こえます。彦星が織女と今夕に逢うようです。
<織女が機を織り、月人壮士を迎える歌>
集歌2027 為我登 織女之 其屋戸尓 織白布 織弖兼鴨
訓読 我がためと織女(たなばたつめ)しその屋(や)戸(と)に織(お)る白栲し織りてけむかも
私訳 今度逢う時にと、私のためと織女がその家で織る白栲はもう織り終わったでしょうか。
集歌2034 棚機之 五百機立而 織布之 秋去衣 孰取見
訓読 棚機(たなはた)し五百機(いほはた)立てて織(お)る布(ぬの)し秋さり衣(ころも)誰か取り見む
私訳 織姫がたくさんの機を立てて織る布よ、七夕の秋がやって来たとき、誰がその布を手に取って眺めるのでしょうか。
<乞巧奠を詠う歌>
古今和歌集 歌番180
原歌 たなはたにかしつるいとのうちはへてとしのをなかくこひやわたらむ
解釈 七夕にかしつる糸のうちはへて年のを長く恋ひや渡らむ
私訳 織女を祝う七夕の乞巧奠の祭壇から大切に吊るす五色の糸が長い、その言葉ではないが長い年月に渡って私は貴方を慕っています。
さらに日本では七夕馬と云う風習があり、菰や萱で馬の模型を作り先祖の精霊を祀るということをします。この七夕馬の祭りを前提にしたものが次の集歌525や集歌3313の歌です。歌は先祖の精霊が菰や萱で作った馬に乗り、川の向こう側から里へと帰って来ることを模して、大夫格の男が騎上で女の許を尋ねるという風情を示します。正月子の日の春菜摘みや仲春の春菜摘みでの乙女は特定の男の妻問いを待つ女性ではありませんが、この七夕馬の女性は特定の男の妻問いを待つという成熟した女と云う雰囲気があります。
集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです
集歌3313 川瀬之 石迹渡 野干玉之 黒馬之来夜者 常二有沼鴨
訓読 川し瀬し石(いは)踏み渡りぬばたまし黒馬し来る夜(よ)は常(つね)にあらぬかも
私訳 川の瀬の石を踏み渡り、人々が待ち焦がれる漆黒の黒馬に乗って恋人がやって来る棚機津女の夜が、私に常にあってほしい。
中国の風習からしますと九月九日の重陽の節句は長寿を祝う重要な行事ですが、日本ではそれより少し早い八月十五日、中秋の観月祭の方が重要だったようです。なお、藤原京から前期平城京時代、九月九日は天武天皇の御斎会に当たるため、重陽の節句を祝うことを遠慮した可能性があります。それで、重陽を詠う歌がない理由かもしれません。参考で、万葉集の御斎会と聖武天皇以降の御斎会では示すものが違います。万葉集の「御斎会」は漢字が意味する通りの「身を慎み、斎き祀る」の意味です。
つぎに紹介する歌は中秋の観月宴で湯原王が詠う歌ですが、歌垣歌のような掛け合い歌の中のものです。その掛け合い歌の相手は万葉集では「娘子」とだけ紹介され、氏姓は不明な女性です。
<観月からの歌>
集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<その観月の宴での掛け合い歌から抜粋>
娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。
湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜、私に身を許したのに今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。
中秋の満月は「照月得子」と云う故事成語があるように、子を望む成人女性には重要な祭りです。また、中国では中秋の満月に絡めて嫦娥や西王母の伝説が伝わるように季節において重要なお祭りでもあります。ただ、「照月得子」と云う言葉からして日本の中秋の観月祭もまた未通女児である早乙女の祭りと云うより、妻問いをされる成女の祭りと云う雰囲気が強いのではないでしょうか。
参考に山上憶良が秋の七草の歌を詠っています。歌では萩や女郎花の花を詠いますからこれは旧暦九月九日の重陽の節句ではなく、八月十五日の中秋祭の方で詠われたものと思われます。花や里芋で代表される農作物を供えて、風流を楽しんだのではないでしょうか。
山上巨憶良詠秋野花二首
標訓 山上(やまのうへの)巨(おほ)憶良(おくら)の、秋の野の花を詠める二首
集歌1537 秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 (其一)
訓読 秋し野に咲きたる花を指(および)折(を)りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)し花 (其一)
私訳 秋の野に咲いている花を指折り、その数を数えると七種類の花です。
注意 標の「山上巨憶良」の「巨(おほ)」は、一般に「臣(おみ)」の誤記とします。
集歌1538 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 (其二)
訓読 萩(はぎ)し花尾花(をばな)葛花(ふぢはな)撫子(なでしこ)し花姫部志(をみなえし)また藤袴(ふじはかま)朝貌(あさかほ)し花 (其二)
私訳 萩の花、尾花、葛の花、撫子の花、女郎花、また、藤袴、朝貌の花
女性の歌だけで年中行事となる祭り歌を探しましたが、すこし難しいものがありました。なお、平成二十八年の端午の節句は六月九日(木)に当たります。本来ですと、未通女である女児が着飾って早乙女祭を祝う日です。
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