人事は、人言か、
普段の万葉集の鑑賞では「人事」は「ひとこと」と訓み、「人言」と表記を変えた上で「人のうわさ」や「世の指弾」のような意味合いで解釈すことが約束です。
ここでは、万葉集の短歌の中から「人事」の言葉の表記を持つものを十一首ほど抜きだして、「言」、「辞」と「事」はそれぞれに意味が違うと云う「大和言葉での言霊」の決まりを大切にして、「人事」の言葉は「人の為す事」の意味合いとして解釈を試みてみました。 なお、今回は標や左注を一切無視して、純粋に歌の意訳を試みています。
当然、素人がする独善です。笑ってやって下さい。もし、それでも貴方がここでのことで真剣に悩んでいただけたら、大変に光栄な事件です。
集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
訓読 人(ひと)事(こと)を繁み事痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝(あさ)川(かは)渡る
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山あり非常に煩わしく思い、私の生涯で未だした事がない仏教への帰依をしよう。
注意 歌での「人事」を「人の為す事」と解釈した上で「未渡朝川渡」を仏教の視点から見ると、地蔵菩薩発心因縁十王経に由来する「彼岸を渡る=得度」の景色が見えてきます。そうするとき、そこには女性が「己世尓」と歌うよりも、よりふさわしい男性の姿が見えてきます。
集歌539 吾背子師 遂常云者 人事者 繁有登毛 出而相麻志呼
訓読 吾が背子し遂げむと云はば人事(ひとこと)は繁くありとも出でて逢はましを
私訳 私の愛しい貴方が恋の思いを遂げると云うのでしたら、人がするべき雑用が沢山あっても出かけて来て私に逢うでしょうに。
集歌541 現世尓波 人事繁 来生尓毛 将相吾背子 今不有十方
訓読 この世には人事(ひとこと)繁し来む生(よ)にも逢はむ吾が背子今ならずとも
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山ある。この世だけでなく来世でも逢いましょう。私の愛しい貴方。今でなくても。
集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花の散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりてよどむころかも
私訳 初々しい花はその時期には散るべきものですが、人の世の出来事が多くて、それで散るべき時期が滞っているのでしょう。
集歌659 豫 人事繁 如是有者 四恵也吾背子 奥裳何如荒海藻
訓読 あらかじめ人(ひと)事(こと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや吾が背子(せこ)奥(おく)もいかにあらめ
私訳 最初からこれほど忙しくしているのでしたら、私の愛しい貴方。将来は、どうなるのでしょう。
集歌685 人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍将座
訓読 人(ひと)事(こと)を繁みか君を二鞘(ふたさや)の家(いへ)を隔(へな)りて恋ひつつをらむ
私訳 世事が多いのでしょうか。御出でにならない愛しい貴方を、中を隔てる二鞘のように家を隔てて恋い慕っています。
集歌2438 人事 暫吾妹 縄手引 従海益 深念
訓読 人事(ひとこと)は暫(しま)しぞ吾妹(わぎも)綱手(つなて)引く海ゆまさりて深くぞ念(おも)ふ
私訳 仕事をするのはほんのわずかな間です。私の愛しい貴女。綱手で舟を引く、そんな海よりも深く深く貴女を恋い慕います。
集歌2561 人事之 繁間守而 相十方八 反吾上尓 事之将繁
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)りて逢ふともやなほ吾(わ)が上(へ)に事(こと)の繁けむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて貴女に逢ったとしても、それでも私に降りかかる仕事は多いでしょう。
集歌2586 人事 茂君 玉梓之 使不遣 忘跡思名
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君に玉梓の使(つか)ひも遣(や)らず忘ると思(おも)ふな
私訳 世の中でする事が多いと貴女に立派な梓の杖を持つような使いを遣らない。だからと、貴女を私が忘れてしまったと思わないで下さい。
集歌2591 人事 茂間守跡 不相在 終八子等 面忘南
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)ると逢はずあらばつひにや子らが面(おも)忘(わす)れなむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて逢わずにいると、その内にその愛しい人の面影を忘れるでしょう。
集歌2799 人事乎 繁跡君乎 鶉鳴 人之古家尓 相誥而遣都
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君を鶉(うづら)鳴く人の古家(ふるへ)に相(あひ)誥(つ)げ遣(や)りつ
私訳 世の中でする事が多く忙しいと思える、そんな貴方を鶉が鳴くような今はすっかり世から取り残されてしまったような人の古き家に、その人と語らうようにと命じ遣ります。
注意 普段の解説では「相誥而遣都」では「人事」を「人言」としたときの「人言乎繁跡」に相応しくないので「相語而遣都」として、字余りですが「語らひて遣りつ」と訓みます。こうした時、当然、歌意は全く異なります。もし、集歌2799の歌が集歌1558の歌に連動する可能性があるならば、素人の解釈の方が素直となります。
集歌2799の歌に対する参考歌
集歌1558 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
訓読 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
私訳 野の鶉が鳴くような古寂びた里の秋萩の花を、貴方が尊敬する人の気持ちとなって、一緒に萩の花を見たでしょうか。
内訳話ですが、実は集歌116の歌の解釈が標と相応しくないと感じていまして、「己世尓 未渡 朝川渡」の理解が出来ない状態でした。そこで、万葉集の短歌から「人事」の表記を持つものを全て抜き出したのが先の歌々です。その「人事」の表記に対して「人の為す事」の意味合いでの解釈が全ての歌で成り立つかを試みた次第です。結果、実験的には成り立つとの思いです。
この実験を踏まえて集歌116の歌を素人流に解釈したものが、ここで紹介するものです。
なお、集歌116の歌は、本来は標とは違い但馬皇女が詠う歌ではなく、歌物語として他の人の詠う歌を流用して編まれた歌と思っています。解釈において、歌物語としてのものと、短歌そのものとしてのものは違うのではないかと思っています。歌物語では「未渡 朝川渡」は、彼岸を渡り得度して仏に帰依する姿より、恋慕の煩悩地獄に陥るような意味合いと取るのが良いのかもしれません。
普段の万葉集の鑑賞では「人事」は「ひとこと」と訓み、「人言」と表記を変えた上で「人のうわさ」や「世の指弾」のような意味合いで解釈すことが約束です。
ここでは、万葉集の短歌の中から「人事」の言葉の表記を持つものを十一首ほど抜きだして、「言」、「辞」と「事」はそれぞれに意味が違うと云う「大和言葉での言霊」の決まりを大切にして、「人事」の言葉は「人の為す事」の意味合いとして解釈を試みてみました。 なお、今回は標や左注を一切無視して、純粋に歌の意訳を試みています。
当然、素人がする独善です。笑ってやって下さい。もし、それでも貴方がここでのことで真剣に悩んでいただけたら、大変に光栄な事件です。
集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
訓読 人(ひと)事(こと)を繁み事痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝(あさ)川(かは)渡る
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山あり非常に煩わしく思い、私の生涯で未だした事がない仏教への帰依をしよう。
注意 歌での「人事」を「人の為す事」と解釈した上で「未渡朝川渡」を仏教の視点から見ると、地蔵菩薩発心因縁十王経に由来する「彼岸を渡る=得度」の景色が見えてきます。そうするとき、そこには女性が「己世尓」と歌うよりも、よりふさわしい男性の姿が見えてきます。
集歌539 吾背子師 遂常云者 人事者 繁有登毛 出而相麻志呼
訓読 吾が背子し遂げむと云はば人事(ひとこと)は繁くありとも出でて逢はましを
私訳 私の愛しい貴方が恋の思いを遂げると云うのでしたら、人がするべき雑用が沢山あっても出かけて来て私に逢うでしょうに。
集歌541 現世尓波 人事繁 来生尓毛 将相吾背子 今不有十方
訓読 この世には人事(ひとこと)繁し来む生(よ)にも逢はむ吾が背子今ならずとも
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山ある。この世だけでなく来世でも逢いましょう。私の愛しい貴方。今でなくても。
集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花の散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりてよどむころかも
私訳 初々しい花はその時期には散るべきものですが、人の世の出来事が多くて、それで散るべき時期が滞っているのでしょう。
集歌659 豫 人事繁 如是有者 四恵也吾背子 奥裳何如荒海藻
訓読 あらかじめ人(ひと)事(こと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや吾が背子(せこ)奥(おく)もいかにあらめ
私訳 最初からこれほど忙しくしているのでしたら、私の愛しい貴方。将来は、どうなるのでしょう。
集歌685 人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍将座
訓読 人(ひと)事(こと)を繁みか君を二鞘(ふたさや)の家(いへ)を隔(へな)りて恋ひつつをらむ
私訳 世事が多いのでしょうか。御出でにならない愛しい貴方を、中を隔てる二鞘のように家を隔てて恋い慕っています。
集歌2438 人事 暫吾妹 縄手引 従海益 深念
訓読 人事(ひとこと)は暫(しま)しぞ吾妹(わぎも)綱手(つなて)引く海ゆまさりて深くぞ念(おも)ふ
私訳 仕事をするのはほんのわずかな間です。私の愛しい貴女。綱手で舟を引く、そんな海よりも深く深く貴女を恋い慕います。
集歌2561 人事之 繁間守而 相十方八 反吾上尓 事之将繁
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)りて逢ふともやなほ吾(わ)が上(へ)に事(こと)の繁けむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて貴女に逢ったとしても、それでも私に降りかかる仕事は多いでしょう。
集歌2586 人事 茂君 玉梓之 使不遣 忘跡思名
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君に玉梓の使(つか)ひも遣(や)らず忘ると思(おも)ふな
私訳 世の中でする事が多いと貴女に立派な梓の杖を持つような使いを遣らない。だからと、貴女を私が忘れてしまったと思わないで下さい。
集歌2591 人事 茂間守跡 不相在 終八子等 面忘南
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)ると逢はずあらばつひにや子らが面(おも)忘(わす)れなむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて逢わずにいると、その内にその愛しい人の面影を忘れるでしょう。
集歌2799 人事乎 繁跡君乎 鶉鳴 人之古家尓 相誥而遣都
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君を鶉(うづら)鳴く人の古家(ふるへ)に相(あひ)誥(つ)げ遣(や)りつ
私訳 世の中でする事が多く忙しいと思える、そんな貴方を鶉が鳴くような今はすっかり世から取り残されてしまったような人の古き家に、その人と語らうようにと命じ遣ります。
注意 普段の解説では「相誥而遣都」では「人事」を「人言」としたときの「人言乎繁跡」に相応しくないので「相語而遣都」として、字余りですが「語らひて遣りつ」と訓みます。こうした時、当然、歌意は全く異なります。もし、集歌2799の歌が集歌1558の歌に連動する可能性があるならば、素人の解釈の方が素直となります。
集歌2799の歌に対する参考歌
集歌1558 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
訓読 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
私訳 野の鶉が鳴くような古寂びた里の秋萩の花を、貴方が尊敬する人の気持ちとなって、一緒に萩の花を見たでしょうか。
内訳話ですが、実は集歌116の歌の解釈が標と相応しくないと感じていまして、「己世尓 未渡 朝川渡」の理解が出来ない状態でした。そこで、万葉集の短歌から「人事」の表記を持つものを全て抜き出したのが先の歌々です。その「人事」の表記に対して「人の為す事」の意味合いでの解釈が全ての歌で成り立つかを試みた次第です。結果、実験的には成り立つとの思いです。
この実験を踏まえて集歌116の歌を素人流に解釈したものが、ここで紹介するものです。
なお、集歌116の歌は、本来は標とは違い但馬皇女が詠う歌ではなく、歌物語として他の人の詠う歌を流用して編まれた歌と思っています。解釈において、歌物語としてのものと、短歌そのものとしてのものは違うのではないかと思っています。歌物語では「未渡 朝川渡」は、彼岸を渡り得度して仏に帰依する姿より、恋慕の煩悩地獄に陥るような意味合いと取るのが良いのかもしれません。
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