万葉雑記 色眼鏡 百二三 中大兄の歌を鑑賞する
ずいぶんと昔に中大兄の歌を鑑賞しました。今回は話題が切れたので、その蒸し返しを致します。ですから、「なんだ、見たことがある。つまんないじゃないか」とのご批判があるようなものです。
ただし、追記して案内いたしますが、以前にも説明しましたように「中大兄の歌を鑑賞する」と題名を付けていますが、だからと云って「中大兄=天智天皇」など云うような『日本書紀』の記事を無視するような決め付けは致しません。それでは国文学の研究者に大笑いされてしまいます。多少なりとも恥を知っていますから、大笑いされないように慎重に歌を鑑賞しています。
さて、『万葉集』に「中大兄」が詠う「三山歌」と云う長歌と反歌二首とで出来た組歌があります。ただし、古くからこの組歌に対しては、その左注が語るようにこれらの長短歌三首が組歌であること自体を疑う解釈があり、現在では、この組歌の解釈は、組歌ではないことを前提に解釈されているようです。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮に御宇天皇の代(みよ)
追訓 天豊財重日足姫天皇、後に後岡本宮に即位
中大兄 三山謌
標訓 中大兄 三山の歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は 畝傍(うねび)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻を 争ふらしき
私訳 香具山は畝傍山を男らしい立派な山であると耳成山と相争ったとのことだ。神代よりこのようなことらしい。昔もそのようであったので、現在もそのように妻の座を争っているのだろう。
反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(かぐやま)と耳成山(みみなしやま)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山と耳成山が対面したときに、その様子を立て見にしに来た。この稲穂の美しい大和の平原よ。
集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但、旧本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。
さて、長歌となる集歌13の中大兄の詠う「三山の歌」に対して、『万葉集』の標題に従って集歌14と15の歌が反歌であると素直に解釈し、これらの長短歌三首は舒明天皇が香具山で国見を詠った集歌2の御製歌を踏襲していると推定しますと、これらの組歌の理解が容易になるのではないでしょうか。
天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御製歌
集歌2 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
訓読 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。
一方、元暦校本・類聚古集・紀州本等の解釈のように標題に対して「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場もあります。そのような解釈では、当然、集歌13の三山の歌、集歌2の舒明天皇の御製、標題で反歌と題された集歌14と15の歌には、それぞれに関連性がないことになります。それは当たり前であって、集歌15の歌に付けられた左注の示す疑問を解消するために「中大兄 三山謌一首」と「一首」を追記して解釈し、関連性を切り捨てたのですから、そのようにならなければ支離滅裂です。解釈に合わせて語字を追記して、それでいてその目的が果たせないのでは子供の遊びになってしまします。
おおよそ、集歌15の歌の左注は紀貫之たちによって付けられたものでしょうが、平安時代初期の段階では集歌15の短歌が集歌13の長歌が詠う大和の三山に対する反歌とは思えなかったのでしょう。現在の万葉集研究者が指摘するように大和にはため池のような湖水や湿地帯があったにせよ、琵琶湖や古代の巨椋池のような大きな湖はなかったとします。つまり、詠うべき湖水面がないことになります。それで集歌15の歌が大和の三山を詠う長歌の反歌として相応しくないとの判断です。
そのような背景から、『万葉集』が好きな御方はご存知のように、およそ、集歌14の歌とは播州印南野の風景を詠ったものであり、集歌15の歌は斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵の一環である九州への航海での播磨から讃岐への渡海の一風景を詠ったものと解釈されています。およそこの解釈は「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場を取る元暦校本等の解釈に沿ったものです。
現代の常識的には、大和の香具山からは海原は見えないから、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲に」の風景は大和の国ではないと判断しますし、詠われた歌の時代推定から「百済の役」での斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵での播磨灘の一場面としています。そのために、集歌13の三山の歌と集歌15の歌との間には、関連性が無いことになります。そして、集歌15の歌が播磨灘の歌であるならば、集歌14の歌での「伊奈美國波良」は、「否なみ国原」や「稲美国原」ではなくて、播州の「印南国原」でなくてはならなくなります。これが伝統の解釈です。そして、この解釈ですと、奈良時代の編纂者の解釈ではなく、平安時代の左注を付けた評釈者と視線は一致します。ただし、その時、左注の「今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次」の文が示すように奈良時代の解釈とは違うものであることが確定します。さらに国文学の研究者に大笑いされてしまいますが、これらの解釈の背景には「中大兄=天智天皇」との暗黙の了解があり、集歌13の歌が詠われたのが「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇=斉明天皇」の時代である。従って、百済の役の時の出来事であろうとの推定が存在します。当然、日本書紀の記事に従って「中大兄=天智天皇」が否定されると、歌の解釈の根底は崩れます。つまり、一般に紹介される解釈は無理筋であり、誤解釈である可能性が非常に高いと云うことです。
ここで、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が、万葉集の歌が詠われた時の大和の人々の間にあるのなら、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲」の風景は香具山や明日香から眺めた大和の風景となり、播磨灘の景色である必要はなくなります。すると、集歌13の三山の歌と集歌15の歌とが明日香から眺めた大和の風景ですと、集歌14の歌もまた大和の風景に成らざるを得ません。つまり、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が存在するならば、長歌の集歌13の三山の歌とその反歌となる集歌14と15の歌とは関連を持ち、集歌2の御製歌の世界と同じ「明日香の大和の風景」を元に詠っていることになります。
集歌15の歌が詠われてから三十年ほど後の風景ですが、人々は飛鳥の前野の様子を次のように詠っていますから、藤原京建設の時に当たっても相当な湿地帯であったことは確かなようです。
壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし以後(のち)の謌二首
集歌4260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すめらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒し腹這ふ田(た)為(い)を京師(みやこ)と成しつ
私訳 天皇は神であられるので、赤馬が腹をも漬く沼田を都と成された。
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍にして贈右大臣大伴卿の作れる
集歌4261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者不詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ (作る者は詳(つばび)かならず)
私訳 大王は神であられるので、水鳥が棲みかとする水沼を都と成された。
右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞く、即ち茲(ここ)に載せるなり
これらの歌からの帰結的に、集歌14の歌は集歌2の舒明天皇の御製歌の国見の国原に対応する稲穂の美しい立ち見を行うときの国原を誉める歌であり、集歌15の歌は海原(=大湿地帯)を誉める歌に近いものになります。集歌2の舒明天皇の御製歌の世界を虚構とみるか、自然風景と見るかで、万葉集巻一全体の解釈は大きく違います。
大口叩きになりますが、普段に目にする万葉集の解説では集歌1の雄略天皇の御製や集歌2の舒明天皇の御製を理解していないと判断されます。それは平安時代の貴族が集歌15の歌に左注で「自分の理解とは違うが、反歌とするのがオリジナルの編纂」と困惑しているのと同じか、困惑をしていない分、さらに理解不足です。それで、集歌13の三山の歌も理解不能に陥っているのです。
さて、日本書紀の天智天皇紀を見てみると次のような記事があります。
天智天皇六年(667)の記事
原文 春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗・百済・新羅、皆奉哀於御路。
訓読 春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡(をちのをかの)上陵(うへのみささぎ)に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女を陵(みささぎ)の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路(おほち)に哀(みね)奉る。
現在の専門家がする百済の役での「白村江の戦い」の評価において、まっとうな社会人の持つ常識的な戦史や戦術からの視線と常識からは大いに疑問はありますが、この天智天皇六年の記事からは白村江の戦いが過去となった天智六年の段階で、唐支配下の高麗と百済の代表と独立国新羅の代表とが、大和国の明日香で国運を賭けて大和との同盟を結べく、その外交を繰り広げていたことを推測することが出来ます。そして、歴史書は唐支配下の高麗と百済に肩入れしていた天智・大友朝が倒れ、朝鮮半島不介入政策を貫いた天武・持統朝の時代に、韓半島の独立国である新羅が南朝鮮半島の統一を果たしたことを伝えます。
また、日本書紀には斉明天皇の時代に次のような記事を見ることが出来ます。
斉明天皇元年(655)の記事
是歳、高麗・百済・新羅並遣使進調
斉明天皇二年(656)の記事
是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗・百済・新羅並遣使進調
こうしたとき、集歌13の歌は、朝鮮半島での覇権を賭けて唐の意向を受けた百済とそれに対抗する新羅とが大和の国を取り合っていたとする解釈は出来ないでしょうか。つまり、香具山を百済国、耳成山を新羅国、そして畝傍山を大和国と見立てることは出来ないでしょうか。そして、その時、大和盆地には地質調査記録が示すように大湿地がひろがり、その大湿地を囲むように深田の水田が広がっていたのではないでしょうか。
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
私訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。
集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
ところで最初にも紹介しましたが、集歌13の長歌の標題に「中大兄 三山謌」とあります。ではさて、この「中大兄」とは誰を指すのでしょうか。慣習的に「中大兄」とは天智天皇の別称であるとの解釈もありますが、それは学問的には確定した事柄ではありません。天皇家や有力豪族家のそれぞれの一族の後継者の中で二番目に有力な候補者と云うのが「中+大兄」としての解釈です。
そうした時、日本書紀には次のような文章があり、天智天皇は葛城皇子と云う名が正式な名前です。「中大兄」ではありません。
二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后。后生二男一女。一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生。更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。
さらにこの文から判るように、古人皇子=大兄皇子は夫人の御子であって、皇后の御子ではありません。古代では生まれの順番に長男、次男のように名称を与えるのではなく、生母の身分や出身により生まれてきた御子の立場が決まります。従いまして、夫人の御子でも長男だから大兄、皇后の御子でも次男だから中大兄となるなどと云うことはありません。
では、集歌13の歌を詠った中大兄とは誰か?
結論だけを紹介しますと、この中大兄は有馬皇子であろうと思われますし、集歌13の歌が詠われたのは斉明天皇二年のことと思われます。ただ、この推論の過程は長いので、別の機会に紹介致します。
で、国文の研究者のお方、もう、これで「日本書紀を読んでないとか、万葉集を理解していない」などと大笑いはしないですよね。
ずいぶんと昔に中大兄の歌を鑑賞しました。今回は話題が切れたので、その蒸し返しを致します。ですから、「なんだ、見たことがある。つまんないじゃないか」とのご批判があるようなものです。
ただし、追記して案内いたしますが、以前にも説明しましたように「中大兄の歌を鑑賞する」と題名を付けていますが、だからと云って「中大兄=天智天皇」など云うような『日本書紀』の記事を無視するような決め付けは致しません。それでは国文学の研究者に大笑いされてしまいます。多少なりとも恥を知っていますから、大笑いされないように慎重に歌を鑑賞しています。
さて、『万葉集』に「中大兄」が詠う「三山歌」と云う長歌と反歌二首とで出来た組歌があります。ただし、古くからこの組歌に対しては、その左注が語るようにこれらの長短歌三首が組歌であること自体を疑う解釈があり、現在では、この組歌の解釈は、組歌ではないことを前提に解釈されているようです。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮に御宇天皇の代(みよ)
追訓 天豊財重日足姫天皇、後に後岡本宮に即位
中大兄 三山謌
標訓 中大兄 三山の歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は 畝傍(うねび)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻を 争ふらしき
私訳 香具山は畝傍山を男らしい立派な山であると耳成山と相争ったとのことだ。神代よりこのようなことらしい。昔もそのようであったので、現在もそのように妻の座を争っているのだろう。
反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(かぐやま)と耳成山(みみなしやま)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山と耳成山が対面したときに、その様子を立て見にしに来た。この稲穂の美しい大和の平原よ。
集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但、旧本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。
さて、長歌となる集歌13の中大兄の詠う「三山の歌」に対して、『万葉集』の標題に従って集歌14と15の歌が反歌であると素直に解釈し、これらの長短歌三首は舒明天皇が香具山で国見を詠った集歌2の御製歌を踏襲していると推定しますと、これらの組歌の理解が容易になるのではないでしょうか。
天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御製歌
集歌2 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
訓読 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。
一方、元暦校本・類聚古集・紀州本等の解釈のように標題に対して「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場もあります。そのような解釈では、当然、集歌13の三山の歌、集歌2の舒明天皇の御製、標題で反歌と題された集歌14と15の歌には、それぞれに関連性がないことになります。それは当たり前であって、集歌15の歌に付けられた左注の示す疑問を解消するために「中大兄 三山謌一首」と「一首」を追記して解釈し、関連性を切り捨てたのですから、そのようにならなければ支離滅裂です。解釈に合わせて語字を追記して、それでいてその目的が果たせないのでは子供の遊びになってしまします。
おおよそ、集歌15の歌の左注は紀貫之たちによって付けられたものでしょうが、平安時代初期の段階では集歌15の短歌が集歌13の長歌が詠う大和の三山に対する反歌とは思えなかったのでしょう。現在の万葉集研究者が指摘するように大和にはため池のような湖水や湿地帯があったにせよ、琵琶湖や古代の巨椋池のような大きな湖はなかったとします。つまり、詠うべき湖水面がないことになります。それで集歌15の歌が大和の三山を詠う長歌の反歌として相応しくないとの判断です。
そのような背景から、『万葉集』が好きな御方はご存知のように、およそ、集歌14の歌とは播州印南野の風景を詠ったものであり、集歌15の歌は斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵の一環である九州への航海での播磨から讃岐への渡海の一風景を詠ったものと解釈されています。およそこの解釈は「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場を取る元暦校本等の解釈に沿ったものです。
現代の常識的には、大和の香具山からは海原は見えないから、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲に」の風景は大和の国ではないと判断しますし、詠われた歌の時代推定から「百済の役」での斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵での播磨灘の一場面としています。そのために、集歌13の三山の歌と集歌15の歌との間には、関連性が無いことになります。そして、集歌15の歌が播磨灘の歌であるならば、集歌14の歌での「伊奈美國波良」は、「否なみ国原」や「稲美国原」ではなくて、播州の「印南国原」でなくてはならなくなります。これが伝統の解釈です。そして、この解釈ですと、奈良時代の編纂者の解釈ではなく、平安時代の左注を付けた評釈者と視線は一致します。ただし、その時、左注の「今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次」の文が示すように奈良時代の解釈とは違うものであることが確定します。さらに国文学の研究者に大笑いされてしまいますが、これらの解釈の背景には「中大兄=天智天皇」との暗黙の了解があり、集歌13の歌が詠われたのが「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇=斉明天皇」の時代である。従って、百済の役の時の出来事であろうとの推定が存在します。当然、日本書紀の記事に従って「中大兄=天智天皇」が否定されると、歌の解釈の根底は崩れます。つまり、一般に紹介される解釈は無理筋であり、誤解釈である可能性が非常に高いと云うことです。
ここで、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が、万葉集の歌が詠われた時の大和の人々の間にあるのなら、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲」の風景は香具山や明日香から眺めた大和の風景となり、播磨灘の景色である必要はなくなります。すると、集歌13の三山の歌と集歌15の歌とが明日香から眺めた大和の風景ですと、集歌14の歌もまた大和の風景に成らざるを得ません。つまり、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が存在するならば、長歌の集歌13の三山の歌とその反歌となる集歌14と15の歌とは関連を持ち、集歌2の御製歌の世界と同じ「明日香の大和の風景」を元に詠っていることになります。
集歌15の歌が詠われてから三十年ほど後の風景ですが、人々は飛鳥の前野の様子を次のように詠っていますから、藤原京建設の時に当たっても相当な湿地帯であったことは確かなようです。
壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし以後(のち)の謌二首
集歌4260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すめらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒し腹這ふ田(た)為(い)を京師(みやこ)と成しつ
私訳 天皇は神であられるので、赤馬が腹をも漬く沼田を都と成された。
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍にして贈右大臣大伴卿の作れる
集歌4261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者不詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ (作る者は詳(つばび)かならず)
私訳 大王は神であられるので、水鳥が棲みかとする水沼を都と成された。
右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞く、即ち茲(ここ)に載せるなり
これらの歌からの帰結的に、集歌14の歌は集歌2の舒明天皇の御製歌の国見の国原に対応する稲穂の美しい立ち見を行うときの国原を誉める歌であり、集歌15の歌は海原(=大湿地帯)を誉める歌に近いものになります。集歌2の舒明天皇の御製歌の世界を虚構とみるか、自然風景と見るかで、万葉集巻一全体の解釈は大きく違います。
大口叩きになりますが、普段に目にする万葉集の解説では集歌1の雄略天皇の御製や集歌2の舒明天皇の御製を理解していないと判断されます。それは平安時代の貴族が集歌15の歌に左注で「自分の理解とは違うが、反歌とするのがオリジナルの編纂」と困惑しているのと同じか、困惑をしていない分、さらに理解不足です。それで、集歌13の三山の歌も理解不能に陥っているのです。
さて、日本書紀の天智天皇紀を見てみると次のような記事があります。
天智天皇六年(667)の記事
原文 春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗・百済・新羅、皆奉哀於御路。
訓読 春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡(をちのをかの)上陵(うへのみささぎ)に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女を陵(みささぎ)の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路(おほち)に哀(みね)奉る。
現在の専門家がする百済の役での「白村江の戦い」の評価において、まっとうな社会人の持つ常識的な戦史や戦術からの視線と常識からは大いに疑問はありますが、この天智天皇六年の記事からは白村江の戦いが過去となった天智六年の段階で、唐支配下の高麗と百済の代表と独立国新羅の代表とが、大和国の明日香で国運を賭けて大和との同盟を結べく、その外交を繰り広げていたことを推測することが出来ます。そして、歴史書は唐支配下の高麗と百済に肩入れしていた天智・大友朝が倒れ、朝鮮半島不介入政策を貫いた天武・持統朝の時代に、韓半島の独立国である新羅が南朝鮮半島の統一を果たしたことを伝えます。
また、日本書紀には斉明天皇の時代に次のような記事を見ることが出来ます。
斉明天皇元年(655)の記事
是歳、高麗・百済・新羅並遣使進調
斉明天皇二年(656)の記事
是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗・百済・新羅並遣使進調
こうしたとき、集歌13の歌は、朝鮮半島での覇権を賭けて唐の意向を受けた百済とそれに対抗する新羅とが大和の国を取り合っていたとする解釈は出来ないでしょうか。つまり、香具山を百済国、耳成山を新羅国、そして畝傍山を大和国と見立てることは出来ないでしょうか。そして、その時、大和盆地には地質調査記録が示すように大湿地がひろがり、その大湿地を囲むように深田の水田が広がっていたのではないでしょうか。
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
私訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。
集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
ところで最初にも紹介しましたが、集歌13の長歌の標題に「中大兄 三山謌」とあります。ではさて、この「中大兄」とは誰を指すのでしょうか。慣習的に「中大兄」とは天智天皇の別称であるとの解釈もありますが、それは学問的には確定した事柄ではありません。天皇家や有力豪族家のそれぞれの一族の後継者の中で二番目に有力な候補者と云うのが「中+大兄」としての解釈です。
そうした時、日本書紀には次のような文章があり、天智天皇は葛城皇子と云う名が正式な名前です。「中大兄」ではありません。
二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后。后生二男一女。一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生。更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。
さらにこの文から判るように、古人皇子=大兄皇子は夫人の御子であって、皇后の御子ではありません。古代では生まれの順番に長男、次男のように名称を与えるのではなく、生母の身分や出身により生まれてきた御子の立場が決まります。従いまして、夫人の御子でも長男だから大兄、皇后の御子でも次男だから中大兄となるなどと云うことはありません。
では、集歌13の歌を詠った中大兄とは誰か?
結論だけを紹介しますと、この中大兄は有馬皇子であろうと思われますし、集歌13の歌が詠われたのは斉明天皇二年のことと思われます。ただ、この推論の過程は長いので、別の機会に紹介致します。
で、国文の研究者のお方、もう、これで「日本書紀を読んでないとか、万葉集を理解していない」などと大笑いはしないですよね。
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