万葉雑記 色眼鏡 二一三 今週のみそひと歌を振り返る その三三
今週は、次の歌で遊びたいと思います。
敢布私懐謌 三首
標訓 敢(あ)へて私の懐(おもひ)を布(の)べたる謌 三首
集歌880 阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
訓読 天離る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ京(みやこ)の風俗(てふり)忘(わす)らえにけり
私訳 奈良の京から遥かに離れた田舎に五年も住んでいて、奈良の京の風習を忘れてしまいそうです。
集歌881 加久能米夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
訓読 如(かく)のみや息(いき)衝(つ)き居(を)らむあらたまの来(き)経(ふ)往(ゆ)く年の限り知らずて
私訳 このようにばかり、溜息をついているのでしょう。年魂が改まる新年がやって来て、そして去って往く。その区切りとなる年を知らないで。
集歌882 阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 咩佐宜多麻波祢
訓読 吾(あ)が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の京(みやこ)に召上(めさ)げ賜はね
私訳 私の主人である貴方の思し召しを頂いて、春がやって来たら奈良の京に私を召し上げするお言葉を賜りたいものです。
天平二年十二月六日、筑前國守山上憶良謹上
注訓 天平二年十二月六日に、筑前國守山上憶良、謹(つつし)みて上(たてまつ)る。
この歌群は歴史の一コマを紹介してくれる貴重なものです。奈良時代の歴史を見るに史書として続日本紀は重要なものですが、なぜかこの続日本紀に天平二年十月から天平三年正月の間の記事が非常に薄いと云う姿があります。このため、長屋王の変のあと、中納言兼大宰師と云う要職にあった大伴旅人が、いつ、大納言に就任したかは不明ですし、また、いつごろ、旅人が大宰府から奈良の都へ帰京したかも不明です。続日本紀の記事からすると天平三年正月二七日に従二位の位を拝受していますから、これ以前に帰京していただろうとのみ推測されています。また、同年七月に旅人は大納言の位で死亡していますから、天平二年のある時期から天平三年正月ごろに中納言兼大宰師から大納言へと昇格したのであろうとも推定されています。
さて、紹介する歌群は天平二年十二月六日の日付を持ち、山上憶良から大伴旅人に提出された「もう年だから、奈良の都に帰りたい」と云う憶良の個人的なお願い書です。すると、この時点では大伴旅人はまだ大宰府を出発していないか、出発の日の感覚があります。旅人と憶良との人間関係からすると旅人帰京の出発の日、憶良は直接に旅人と合い、送別を行った可能性があります。
この発想から発展して、中納言兼大宰師から当時の人臣最高位となる大納言就任を奈良の都から大宰府へ書類送付で済ましたとは思えませんので、十二月六日の段階では旅人は大納言就任していなかったと思います。形式的には天皇からの親授でしょうから、就任は奈良の都へ帰った後と思います。平安時代初期の延喜式からしますと、大宰府から奈良の都までの正式な旅程は十五日ほどとなっていますので、六日に大宰府を出発しますと、二一日ごろに奈良に着いたと推定されます。すると、もう、年末です。大納言就任と云う行事は政権争いの裏舞台はどうであれ、建前ではおめでたい行事です。可能性として新年正月に親授式が行われたのではないでしょうか。
一方、山上憶良もまた正史である続日本紀ではあまり取り扱われない人物です。実は続日本紀には山上憶良が筑前國守に任命された記事はありません。霊亀二年の伯耆守への就任記事はあるのですが、筑前守への就任記事はないのです。また、死亡に関する記事もありません。もし、憶良が万葉集に取り上げていませんと、従五位下前伯耆守並びに東宮侍学と云う立場で死亡した人と云う扱いになります。
今回取り上げました歌群からしますと、天平二年(730)の段階で九州筑前国の暮らしが五年に及ぶとしますから神亀三年(726)三月ごろに筑前守に任官したと推定されます。大宝律令の規定では国守の任期は六年であり、万葉集の歌から推定して山上憶良は天平四年ごろには奈良の都に帰京していただろうと推定されています。つまり、集歌880の歌から推定される任官時期や帰京時期は符合することになります。
万葉集の歌は歌として鑑賞すべきものですが、時として歴史の資料となる場面もあります。今回はそのような面を注目しました。
参考として集歌887から集歌890の歌は地方の芸能の人を奈良の都で披露する為に上京する時、病に倒れ死亡した青年を悼む歌群です。このような歌から奈良時代の制度運用や人々の生活が窺えるものとなります。今回は、こちらの方面で遊ぶことは省略しました。
今週は、次の歌で遊びたいと思います。
敢布私懐謌 三首
標訓 敢(あ)へて私の懐(おもひ)を布(の)べたる謌 三首
集歌880 阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
訓読 天離る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ京(みやこ)の風俗(てふり)忘(わす)らえにけり
私訳 奈良の京から遥かに離れた田舎に五年も住んでいて、奈良の京の風習を忘れてしまいそうです。
集歌881 加久能米夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
訓読 如(かく)のみや息(いき)衝(つ)き居(を)らむあらたまの来(き)経(ふ)往(ゆ)く年の限り知らずて
私訳 このようにばかり、溜息をついているのでしょう。年魂が改まる新年がやって来て、そして去って往く。その区切りとなる年を知らないで。
集歌882 阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 咩佐宜多麻波祢
訓読 吾(あ)が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の京(みやこ)に召上(めさ)げ賜はね
私訳 私の主人である貴方の思し召しを頂いて、春がやって来たら奈良の京に私を召し上げするお言葉を賜りたいものです。
天平二年十二月六日、筑前國守山上憶良謹上
注訓 天平二年十二月六日に、筑前國守山上憶良、謹(つつし)みて上(たてまつ)る。
この歌群は歴史の一コマを紹介してくれる貴重なものです。奈良時代の歴史を見るに史書として続日本紀は重要なものですが、なぜかこの続日本紀に天平二年十月から天平三年正月の間の記事が非常に薄いと云う姿があります。このため、長屋王の変のあと、中納言兼大宰師と云う要職にあった大伴旅人が、いつ、大納言に就任したかは不明ですし、また、いつごろ、旅人が大宰府から奈良の都へ帰京したかも不明です。続日本紀の記事からすると天平三年正月二七日に従二位の位を拝受していますから、これ以前に帰京していただろうとのみ推測されています。また、同年七月に旅人は大納言の位で死亡していますから、天平二年のある時期から天平三年正月ごろに中納言兼大宰師から大納言へと昇格したのであろうとも推定されています。
さて、紹介する歌群は天平二年十二月六日の日付を持ち、山上憶良から大伴旅人に提出された「もう年だから、奈良の都に帰りたい」と云う憶良の個人的なお願い書です。すると、この時点では大伴旅人はまだ大宰府を出発していないか、出発の日の感覚があります。旅人と憶良との人間関係からすると旅人帰京の出発の日、憶良は直接に旅人と合い、送別を行った可能性があります。
この発想から発展して、中納言兼大宰師から当時の人臣最高位となる大納言就任を奈良の都から大宰府へ書類送付で済ましたとは思えませんので、十二月六日の段階では旅人は大納言就任していなかったと思います。形式的には天皇からの親授でしょうから、就任は奈良の都へ帰った後と思います。平安時代初期の延喜式からしますと、大宰府から奈良の都までの正式な旅程は十五日ほどとなっていますので、六日に大宰府を出発しますと、二一日ごろに奈良に着いたと推定されます。すると、もう、年末です。大納言就任と云う行事は政権争いの裏舞台はどうであれ、建前ではおめでたい行事です。可能性として新年正月に親授式が行われたのではないでしょうか。
一方、山上憶良もまた正史である続日本紀ではあまり取り扱われない人物です。実は続日本紀には山上憶良が筑前國守に任命された記事はありません。霊亀二年の伯耆守への就任記事はあるのですが、筑前守への就任記事はないのです。また、死亡に関する記事もありません。もし、憶良が万葉集に取り上げていませんと、従五位下前伯耆守並びに東宮侍学と云う立場で死亡した人と云う扱いになります。
今回取り上げました歌群からしますと、天平二年(730)の段階で九州筑前国の暮らしが五年に及ぶとしますから神亀三年(726)三月ごろに筑前守に任官したと推定されます。大宝律令の規定では国守の任期は六年であり、万葉集の歌から推定して山上憶良は天平四年ごろには奈良の都に帰京していただろうと推定されています。つまり、集歌880の歌から推定される任官時期や帰京時期は符合することになります。
万葉集の歌は歌として鑑賞すべきものですが、時として歴史の資料となる場面もあります。今回はそのような面を注目しました。
参考として集歌887から集歌890の歌は地方の芸能の人を奈良の都で披露する為に上京する時、病に倒れ死亡した青年を悼む歌群です。このような歌から奈良時代の制度運用や人々の生活が窺えるものとなります。今回は、こちらの方面で遊ぶことは省略しました。
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