万葉雑記 色眼鏡 五十 娘子の歌を鑑賞する その2
前回に引き続き、万葉集に載る娘子の歌を鑑賞します。
最初に河内百枝娘子の歌を鑑賞しますが、大伴家持に歌を贈った、この河内百枝娘子は歴史では不明な人物です。ただ、名の河内百枝に注目しますと物部守屋の妻の一人に、中国の梁国を本国とし百済を経由して渡来した河内氏一族の百枝姫がいます。従いまして、場合によっては、河内百枝娘子は物部守屋と百枝姫との間の御子に由来する一族の娘子であったかもしれません。なお、姓(かばね)を持っていませんから、部民ではないでしょうが、非常に格の低い一族の出であることが想像されます。
歌を鑑賞しますと、集歌701の歌の句「又外二将見」が示すように、河内百枝娘子と家持との関係は娘子の屋敷を妻問う関係ではありませんし、家持の屋敷に飼われる女性でもありません。もし、この歌が宮中の宴会で詠ったものではないとしますと、唯一の可能性は宮中に住む河内百枝娘子の許に家持が忍んで行った時のものとなります。ただ、下級女官は複数人で一つの部屋を使っていたと思われますから、数人の女性が寝泊まりしている部屋で二人は夜の交渉をしたことになります。その状況を想像する時、実際の歌かと云うと、そうではなく、やはり、宮中での宴での歌垣のような相聞歌交換ではないでしょうか。
河内百枝娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 河内百枝(かはちのももえの)娘子(をとめ)の大伴宿祢家持に贈りたる謌二首
集歌701 波都波都尓 人乎相見而 何将有 何日二箇 又外二将見
訓読 はつはつに人を相見にいかにあらむいづれし日にかまた外(よそ)に見む
私訳 ほんのわずかに貴方に御会いして、さて、どうなのでしょうか。いつか別の日にでも、また別な場所で御会いしたいものです。
集歌702 夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
訓読 ぬばたましその夜の月夜(つくよ)今日(けふ)までに吾は忘れず間(ま)無くし念(おも)へば
私訳 漆黒の闇のあの夜の月夜のこと。今日まで私は忘れません。常に間を空けることなく貴方をお慕いしていると。
次に巫部麻蘇娘子の歌を鑑賞します。巫部麻蘇娘子もまた、歴史では不明な女性です。なお、この巫部は「かむなぎべ」と訓み、神道祭祀を行う一族である巫(かむなぎ)一族の部民となります。また、「麻蘇」を「まそ」と訓む場合、その言葉は「真澄」や「真寸」とも表記され、「整っている、りっぱ、すばらしい、美しい」などの意味を持ちますから、巫部麻蘇とは「巫部の美人の娘」の意味合いがあるのかもしれません。
この巫部麻蘇娘子の歌は万葉集には四首が載せられています。その内、集歌1562の歌が家持の詠う集歌1563の歌と相聞関係にあります。この相聞歌は推定で天平十一年頃のもので、家持が二十一歳、内舎人時代のものと思われます。巫部麻蘇娘子もまた宮中女官でしょうが、独立した部屋(=房)を頂けるような女性ではなかったと思われますし、家持を招くような屋敷を都に持っていたとは思えません。従いまして、詠われる歌は宮中や貴族の屋敷で開かれた宴で余興として詠われた歌垣歌のような相聞歌と思われます。ただ、集歌1562の歌に示すように才女です。なお、集歌1621の歌の初句「吾屋前乃」の言葉は、言葉のあやと思われ、屋敷と云うより私の住んでいる所の意味合いと私の部屋の意味合いで理解するのが良いと思います。
巫部麻蘇娘子謌二首
標訓 巫部麻蘇(かんなぎべのまその)娘子(をとめ)の謌二首
集歌703 吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志
訓読 吾が背子を相見しその日今日(けふ)までに吾が衣手(ころもて)は乾(ふ)る時も無し
私訳 私の愛しい貴方に御逢いしたその日から今日まで私の衣の袖は貴方が恋しい涙に乾く暇もありません。
注意 集歌3163の歌の感覚からすると、集歌703の歌は「貴方に抱かれたその日からそのことを思い出すと我が身は濡れたまま」との解釈も可能です。
参考歌
集歌3163 吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
訓読 吾妹子(わぎもこ)に触(ふ)るるは無(な)みに荒礒廻(ありそみ)に吾(あ)が衣手(ころもて)は濡れにけるかも
私訳 私の愛しい貴女と身を交わしたこともないのに、波打つ荒磯を廻り行くに、私の衣の袖は濡れたようです。
集歌704 栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社
訓読 栲縄(たくなは)し永(なが)き命(いのち)を欲(ほ)りしくは絶えずて人を見まく欲(ほ)りこそ
私訳 栲の縄が丈夫で長いように、末永い命を求めたのは、いつまでも貴方のお姿を拝見したいと思ったからです。
巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「之」を「おいて」とは訓まずに「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。当然、歌意は変わります。
大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。
巫部麻蘇娘子謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の謌一首
集歌1621 吾屋前乃 芽子花咲有 見来益 今二日許 有者将落
訓読 吾が屋前(やと)の萩花咲けり見に来ませいま二日(ふたひ)だみあらば散りなむ
私訳 私の家の萩の花は咲きました。眺めにいらっしゃい。二日ほど経ったなら花は散るでしょう。
紹介した二人の娘子の歌への鑑賞と同じような視線で万葉集の巻四を見てみますと、粟田娘子、安都扉娘子、丹波大女娘子などの歌を見ることが出来ます。彼女たちもまた姓(かばね)を持ちませんから、自ら宮中女官を希望して出仕したか、地方からの采女のような形で都に送られたが、祭祀を専門とする神事采女には選抜されず、皇族などの身の周りの世話をもっぱらとして行うような立場の女性であったと思われます。場合によっては、宴席に侍る、ある種の詩妓的な宴会要員の女性と思われます。従いまして、恋の相聞歌を詠っても、それは宴会での余興として行われた歌垣歌での相聞歌と思われます。
先の歌もそうですが、これらの歌の標題には娘子の名前が記述されていますから、想像として大伴家持が内舎人時代に宴の余興で披露した歌垣歌のような歌会で詠われた歌が家持の手元に残されたものと考えます。その時、これらの歌は家持内舎人時代の参考資料として扱われ、家持の恋人関係を示すものとはなりません。
なお、天平十一~十二年頃の歌と想像しますと、丹波大女娘子が詠う歌の背景には集歌390の紀皇女の歌、集歌517の大伴麻呂の歌、集歌2405の人麻呂歌集の歌があるのかもしれません。推定で現在の万葉集巻一と巻二を中心とする原初万葉集や人麻呂歌集は既に宮中で和歌をたしなむ人々には知られていたと想像されます。また、集歌710の安都扉娘子の歌は数字遊びの歌なのでしょう。
粟田娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 粟田娘子(あはたのをとめ)の大伴宿祢家持に贈れる謌二首
集歌707 思遣 為便乃不知者 片垸之 底曽吾者 戀成尓家類
訓読 思ひ遣(や)るすべの知らねば片垸(かたもひ)し底にぞ吾は恋ひ成りにける
私訳 貴方に恋い慕う気持ちを送り遣る方法を知らないので、土椀(かたもひ)の底、その言葉のひびきではありませんが、片思いのままに、心底、私は貴方に恋い焦がれてしまいました。
集歌708 復毛将相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齊留目六
訓読 またも逢はむ因(よし)もあらぬか白栲し我が衣手(ころもて)に齊(いは)ひ留(とど)めむ
私訳 もう一度逢う機会はないのでしょうか。貴方と寝たときの白い栲の我の衣の袖に、神に願って貴方の思い出を留めましょう。
安都扉娘子謌一首
標訓 安都扉(あとのとびらの)娘子(をとめ)の謌一首
集歌710 三空去 月之光二 直一目 相三師人 夢西所見
訓読 み空行く月し光にただ一目(ひとめ)相見し人を夢にしそ見ゆ
私訳 大空を行く月の光の下に、私を妻問ってきた姿をただ一度だけ見た貴方の、その姿を夢の中に見ます。
丹波大女娘子謌三首
標訓 丹波大女(たにはのおほめの)娘子(をとめ)の謌三首
集歌711 鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國
訓読 鴨鳥(かもとり)し遊ぶこの池(ち)に木(こ)し葉落(ふ)に浮きたる心吾が念(おも)はなくに
私訳 鴨鳥が泳ぎ遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶ、そんな浮いた気持ちを私は思わないのに。
集歌712 味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸
訓読 味酒(うまさけ)を三輪し祝(ほふり)が忌(いは)ふ杉手(て)触(ふ)れし罪か君に逢ひ難(かた)き
私訳 口噛みの味酒を造る三輪の神官が祭り奉る杉を私の手が触れた罪なのでしょうか、貴方に逢うことが難しい。
集歌713 垣穂成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
訓読 垣穂(かきほ)なす人(ひと)辞(こと)聞きに吾が背子し情(こころ)たゆたひ逢はぬこのころ
私訳 周囲を取り囲む生垣のような包み込む人の噂話を聞いて私の愛しい貴方の私への気持ちはためらって、貴方に逢わないこの頃です。
次に佐伯宿祢赤麿が娘子と交わした相聞和歌を紹介します。ただ、この歌を交わした娘子は万葉集に「娘子」とだけ示され、その人物像は不明です。一方、相聞歌交換のパートナーとなる佐伯赤麿もまた、大伴一族同祖となる佐伯宿祢一族の人物ですが、歴史では不明な人物です。万葉集の巻四に佐伯赤麿の歌が集歌405の歌と集歌628の歌とに分かれて二首載せられています。ともに歌は娘子と交わした相聞和歌ですが、この相聞歌の二つ後に万葉集では湯原王と娘子との掛詞を多用した相聞和歌群が載せられています。従いまして、この娘子が同じ人物としますと、娘子は豊前娘子となります。そして、その豊前娘子や安倍虫麿、大伴坂上郎女、湯原王、藤原八束たちが参加した秋の観月の宴に佐伯赤麿や大伴四綱もまた参加していたと思われます。結構、大人数の観月の宴となります。
参考として、その観月の宴は佐保あたりにあった屋敷から高円山から三笠山方向を眺めるものであったと推定されます。そこからか、集歌404の歌では和迩一族によって春日野で祀られていた武甕槌命、經津主命 天兒屋根命 巨勢比賣神の四神を比喩して「神之社四」と詠ったものと思われます。
娘子報佐伯宿祢赤麿贈謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿の贈れるに報(こた)へたる謌一首
集歌404 千磐破 神之社四 無有世伐 春日之野邊 粟種益乎
訓読 ちはやぶる神し社(やしろ)し無きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に粟(あは)種(ま)きましを
私訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社が、もし、無かったら、その春日の野辺に粟の種を播いたのですが。
<裏歌の鑑賞>
試訓 ちはやぶる神し社(やしろ)し泣きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に逢はまき座(ま)しを
試訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社、その社で貴方を恋しくて泣いていたなら、その春日の野辺で逢って頂いたのでしょうね。
佐伯宿祢赤麿更贈謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の更に贈れる謌一首
集歌405 春日野尓 粟種有世伐 待鹿尓 継而行益乎 社師留焉
訓読 春日野に粟(あは)種(ま)きありせば鹿(しし)待ちに継ぎに行かましを社(やしろ)し留(とど)めし
私訳 春日野に粟を蒔いたならば、粟を食べに来る鹿を待ち伏せしに、たびたび、出て行くのですが。しかし、神聖な神の社では、そのような振る舞いは思い止めましょう。
<裏歌の鑑賞>
試訓 春日野に逢はまきありせば待ちしかに次に行かましをこそしとどめむ
試訳 春日野で貴女に逢う機会があるのなら、きっと待っていましたよ。だから、次の機会には、絶対、逢いに行きましょう。ですから、貴女への想いはこのようにずっと持ち続けています。
注意 一般に「社師留焉」の「留」は「怨」の誤記とします。その時、歌意は変わります。ここは原文のままです。
娘子復報謌一首
標訓 娘子(をとめ)のまた報(こた)へたる謌一首
集歌406 吾祭 神者不有 大夫尓 認有神曽 好應祀
訓読 吾(あ)が祭(まつ)る神にはあらず大夫(ますらを)に憑(つ)きたる神ぞよく祀(まつ)るべし
私訳 それは私が祭る神ではありません。春日四神である経津主命は佐伯一族である立派な貴方の祖神となる神様です。大切に祭るべきです。
<裏歌の鑑賞>
試訓 吾(あ)が奉(ま)つる上(かみ)にはあらず大夫(ますらを)に就きたる上ぞよく奉(ま)つるべし
試訳 私が奉仕を申しあげる御方(=大夫の妻のこと)ではありません。大夫である貴方に寄り添った御方ですよ。その御方をもっと大切にしてあげて下さい。
次の歌もまた、宴で佐伯赤麿と娘子とが交換した相聞歌です。この歌二首の前に佐伯赤麿が詠う歌があったことになりますが、その詠われた歌の状況は不明です。
ただ、この二首だけを鑑賞する時、万葉集に載る歌を引用している可能性があります。その引用されたのではないかと云う歌が集歌2709の歌です。この歌には異伝があり、その異伝が伝わるほどですから、当時には有名な歌だったと思われます。そこで想像ですが、娘子はこの集歌2709の歌を背景に集歌627の歌を詠ったのではないかと考えています。
なお、集歌627や集歌628の歌には裏歌が隠されて折、歌で詠う「戀水」の言葉には媚薬や精力剤の意味合いがあるようです。それを窺わせるものとして集歌628の歌の四句目は「鹿煮藻闕二毛」と表記していますから、およそ、この「鹿煮」の言葉には「鹿茸」や「鹿角」を煮込んで作る媚薬・精力剤の意味が隠されていると思われます。発声での歌の鑑賞と、墨書して示す歌の世界は大きく違います。
娘子報贈佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿に報(こた)へ贈れる謌一首
集歌627 吾手本 将巻跡念牟 大夫者 戀水定 白髪生二有
訓読 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(さだ)めし白髪生(お)ひにけり
私訳 私を抱きたいと強く思う立派な男子は、集歌2709の「戀水」の歌ではありませんが、どんな困難を乗り越えても恋しく思うのではありませんか、だって、「しがらみ」ではありませんが、貴方には白髪が生えていますから。
<裏歌の解釈>
試訓 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(もと)めむ白髪生(お)ひにけり
試訳 このように若い私を抱きたいと思う大夫さんは、きっと、精力剤を必要とするでしょうね。だって、白髪が生えているのですから。
注意 原文の「戀水定」の「戀」は「變」の誤字、「定」は「者」の誤字として「變水者(をちみづは)」と訓みます。この時、歌は全く別物になります。
佐伯宿祢赤麿和謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の和(こた)へたる謌一首
集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 しがら負(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
私訳 世間のしがらみを背負っていることを気にすることなく、集歌2709の「戀水」の歌が詠うように、このようにして貴女の愛を求めて行きましょう。
<裏歌の解釈>
試訓 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
試訳 年老いて白髪が生え、精力が落ちたことを考えないで、貴女との夜の営みのため、必要な媚薬をなにはともあれ求めに行きましょう。
注意 集歌627の歌と同様に、一般には「戀水者」の「戀」は「變」の誤字とします。
<参考歌>
集歌2709 吾妹子 吾戀樂者 水有者 之賀良三越而 應逝衣思
訓読 吾妹子(わぎもこ)し吾(あ)が恋ふらくは水ならばしがらみ越しに行くべくそ思(も)ふ
私訳 私の愛しい貴女を私が恋い焦がれる姿とは、もし、川の水であったなら、しがらみを乗り越え流れ行くような、そのようなものと思います。
ここで、大伴四綱もまた同じ宴に出席していたとしますと、四綱は赤麿の詠う集歌268の歌を引き取って詠ったような雰囲気があります。それが赤麿の「鹿煮藻闕二毛」に対して四綱は「左右裳」です。また、四綱の詠う歌の初句「奈何鹿」の音字となる「鹿」も意味を込めた漢字使いと思われます。
大伴四綱宴席謌一首
標訓 大伴四綱(よつな)の宴席(うたげ)の謌一首
集歌629 奈何鹿 使之来流 君乎社 左右裳 待難為礼
訓読 何すとか使(つかひ)し来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
試訳 赤麿さん、どうにかして歌を返したようですね。貴方の返歌を、なにはともあれ、期待して待っていましたから。
その四綱の歌に対して赤麿は次の集歌630の歌を返したようです。四綱の歌の「奈何鹿」に対して集歌2273の歌の「何為等加」であり、その「待難為礼」に対しては「君乎将厭」です。これを踏まえての集歌630の歌の「初花之 可散物乎」なのでしょう。当然、これらの歌の流れからは、娘子がまだ若い娘であるならば、集歌2273の歌を踏まえて集歌630の歌には娘子は、もう、男に抱かれる年頃なのに、あれこれと云い訳をして、なかなか体を許してくれないとの意味も隠れています。
佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の謌一首
集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花し散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりによどむころかも
試訳 初々しい花はその時期には散るべきものです。ただ、人の世の差し障りが多くて、それで遅れたのでしょう。
<参考歌>
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。
穿った歌の鑑賞を紹介しました。
ただ、今回、示しました穿った鑑賞方法を受け入れられる可能性があるとしますと、万葉時代の歌人が求められる水準は非常に高度です。古今和歌集の時代に発達したとされる掛詞や縁語の技法は奈良時代の和歌人の知るべき基本的事項ですし、さらに本歌取りの技法もまた必須事項です。さらに奈良時代の貴族たちが好む人麻呂調の和歌の特性として、歌には発声と墨書した時とに風景や解釈の多重性が求められます。
この要求は古今和歌集を超える高度な作歌基準です。現在の大勢は万葉集の歌は素朴であるが力強気と云うことになっていて、それを根底に歌を鑑賞します。原文から、今回、紹介したような鑑賞態度で鑑賞を要求されますと、大変、手強いのではないでしょうか。当然、訓読みされた万葉集歌をテキストに使用したのでは、ここで示した鑑賞方法は適用できません。あくまで、原文からの鑑賞方法です。
さて、今まで、人は万葉集を本当に鑑賞して来たのでしょうか。
前回に引き続き、万葉集に載る娘子の歌を鑑賞します。
最初に河内百枝娘子の歌を鑑賞しますが、大伴家持に歌を贈った、この河内百枝娘子は歴史では不明な人物です。ただ、名の河内百枝に注目しますと物部守屋の妻の一人に、中国の梁国を本国とし百済を経由して渡来した河内氏一族の百枝姫がいます。従いまして、場合によっては、河内百枝娘子は物部守屋と百枝姫との間の御子に由来する一族の娘子であったかもしれません。なお、姓(かばね)を持っていませんから、部民ではないでしょうが、非常に格の低い一族の出であることが想像されます。
歌を鑑賞しますと、集歌701の歌の句「又外二将見」が示すように、河内百枝娘子と家持との関係は娘子の屋敷を妻問う関係ではありませんし、家持の屋敷に飼われる女性でもありません。もし、この歌が宮中の宴会で詠ったものではないとしますと、唯一の可能性は宮中に住む河内百枝娘子の許に家持が忍んで行った時のものとなります。ただ、下級女官は複数人で一つの部屋を使っていたと思われますから、数人の女性が寝泊まりしている部屋で二人は夜の交渉をしたことになります。その状況を想像する時、実際の歌かと云うと、そうではなく、やはり、宮中での宴での歌垣のような相聞歌交換ではないでしょうか。
河内百枝娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 河内百枝(かはちのももえの)娘子(をとめ)の大伴宿祢家持に贈りたる謌二首
集歌701 波都波都尓 人乎相見而 何将有 何日二箇 又外二将見
訓読 はつはつに人を相見にいかにあらむいづれし日にかまた外(よそ)に見む
私訳 ほんのわずかに貴方に御会いして、さて、どうなのでしょうか。いつか別の日にでも、また別な場所で御会いしたいものです。
集歌702 夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
訓読 ぬばたましその夜の月夜(つくよ)今日(けふ)までに吾は忘れず間(ま)無くし念(おも)へば
私訳 漆黒の闇のあの夜の月夜のこと。今日まで私は忘れません。常に間を空けることなく貴方をお慕いしていると。
次に巫部麻蘇娘子の歌を鑑賞します。巫部麻蘇娘子もまた、歴史では不明な女性です。なお、この巫部は「かむなぎべ」と訓み、神道祭祀を行う一族である巫(かむなぎ)一族の部民となります。また、「麻蘇」を「まそ」と訓む場合、その言葉は「真澄」や「真寸」とも表記され、「整っている、りっぱ、すばらしい、美しい」などの意味を持ちますから、巫部麻蘇とは「巫部の美人の娘」の意味合いがあるのかもしれません。
この巫部麻蘇娘子の歌は万葉集には四首が載せられています。その内、集歌1562の歌が家持の詠う集歌1563の歌と相聞関係にあります。この相聞歌は推定で天平十一年頃のもので、家持が二十一歳、内舎人時代のものと思われます。巫部麻蘇娘子もまた宮中女官でしょうが、独立した部屋(=房)を頂けるような女性ではなかったと思われますし、家持を招くような屋敷を都に持っていたとは思えません。従いまして、詠われる歌は宮中や貴族の屋敷で開かれた宴で余興として詠われた歌垣歌のような相聞歌と思われます。ただ、集歌1562の歌に示すように才女です。なお、集歌1621の歌の初句「吾屋前乃」の言葉は、言葉のあやと思われ、屋敷と云うより私の住んでいる所の意味合いと私の部屋の意味合いで理解するのが良いと思います。
巫部麻蘇娘子謌二首
標訓 巫部麻蘇(かんなぎべのまその)娘子(をとめ)の謌二首
集歌703 吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志
訓読 吾が背子を相見しその日今日(けふ)までに吾が衣手(ころもて)は乾(ふ)る時も無し
私訳 私の愛しい貴方に御逢いしたその日から今日まで私の衣の袖は貴方が恋しい涙に乾く暇もありません。
注意 集歌3163の歌の感覚からすると、集歌703の歌は「貴方に抱かれたその日からそのことを思い出すと我が身は濡れたまま」との解釈も可能です。
参考歌
集歌3163 吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
訓読 吾妹子(わぎもこ)に触(ふ)るるは無(な)みに荒礒廻(ありそみ)に吾(あ)が衣手(ころもて)は濡れにけるかも
私訳 私の愛しい貴女と身を交わしたこともないのに、波打つ荒磯を廻り行くに、私の衣の袖は濡れたようです。
集歌704 栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社
訓読 栲縄(たくなは)し永(なが)き命(いのち)を欲(ほ)りしくは絶えずて人を見まく欲(ほ)りこそ
私訳 栲の縄が丈夫で長いように、末永い命を求めたのは、いつまでも貴方のお姿を拝見したいと思ったからです。
巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「之」を「おいて」とは訓まずに「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。当然、歌意は変わります。
大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。
巫部麻蘇娘子謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の謌一首
集歌1621 吾屋前乃 芽子花咲有 見来益 今二日許 有者将落
訓読 吾が屋前(やと)の萩花咲けり見に来ませいま二日(ふたひ)だみあらば散りなむ
私訳 私の家の萩の花は咲きました。眺めにいらっしゃい。二日ほど経ったなら花は散るでしょう。
紹介した二人の娘子の歌への鑑賞と同じような視線で万葉集の巻四を見てみますと、粟田娘子、安都扉娘子、丹波大女娘子などの歌を見ることが出来ます。彼女たちもまた姓(かばね)を持ちませんから、自ら宮中女官を希望して出仕したか、地方からの采女のような形で都に送られたが、祭祀を専門とする神事采女には選抜されず、皇族などの身の周りの世話をもっぱらとして行うような立場の女性であったと思われます。場合によっては、宴席に侍る、ある種の詩妓的な宴会要員の女性と思われます。従いまして、恋の相聞歌を詠っても、それは宴会での余興として行われた歌垣歌での相聞歌と思われます。
先の歌もそうですが、これらの歌の標題には娘子の名前が記述されていますから、想像として大伴家持が内舎人時代に宴の余興で披露した歌垣歌のような歌会で詠われた歌が家持の手元に残されたものと考えます。その時、これらの歌は家持内舎人時代の参考資料として扱われ、家持の恋人関係を示すものとはなりません。
なお、天平十一~十二年頃の歌と想像しますと、丹波大女娘子が詠う歌の背景には集歌390の紀皇女の歌、集歌517の大伴麻呂の歌、集歌2405の人麻呂歌集の歌があるのかもしれません。推定で現在の万葉集巻一と巻二を中心とする原初万葉集や人麻呂歌集は既に宮中で和歌をたしなむ人々には知られていたと想像されます。また、集歌710の安都扉娘子の歌は数字遊びの歌なのでしょう。
粟田娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 粟田娘子(あはたのをとめ)の大伴宿祢家持に贈れる謌二首
集歌707 思遣 為便乃不知者 片垸之 底曽吾者 戀成尓家類
訓読 思ひ遣(や)るすべの知らねば片垸(かたもひ)し底にぞ吾は恋ひ成りにける
私訳 貴方に恋い慕う気持ちを送り遣る方法を知らないので、土椀(かたもひ)の底、その言葉のひびきではありませんが、片思いのままに、心底、私は貴方に恋い焦がれてしまいました。
集歌708 復毛将相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齊留目六
訓読 またも逢はむ因(よし)もあらぬか白栲し我が衣手(ころもて)に齊(いは)ひ留(とど)めむ
私訳 もう一度逢う機会はないのでしょうか。貴方と寝たときの白い栲の我の衣の袖に、神に願って貴方の思い出を留めましょう。
安都扉娘子謌一首
標訓 安都扉(あとのとびらの)娘子(をとめ)の謌一首
集歌710 三空去 月之光二 直一目 相三師人 夢西所見
訓読 み空行く月し光にただ一目(ひとめ)相見し人を夢にしそ見ゆ
私訳 大空を行く月の光の下に、私を妻問ってきた姿をただ一度だけ見た貴方の、その姿を夢の中に見ます。
丹波大女娘子謌三首
標訓 丹波大女(たにはのおほめの)娘子(をとめ)の謌三首
集歌711 鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國
訓読 鴨鳥(かもとり)し遊ぶこの池(ち)に木(こ)し葉落(ふ)に浮きたる心吾が念(おも)はなくに
私訳 鴨鳥が泳ぎ遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶ、そんな浮いた気持ちを私は思わないのに。
集歌712 味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸
訓読 味酒(うまさけ)を三輪し祝(ほふり)が忌(いは)ふ杉手(て)触(ふ)れし罪か君に逢ひ難(かた)き
私訳 口噛みの味酒を造る三輪の神官が祭り奉る杉を私の手が触れた罪なのでしょうか、貴方に逢うことが難しい。
集歌713 垣穂成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
訓読 垣穂(かきほ)なす人(ひと)辞(こと)聞きに吾が背子し情(こころ)たゆたひ逢はぬこのころ
私訳 周囲を取り囲む生垣のような包み込む人の噂話を聞いて私の愛しい貴方の私への気持ちはためらって、貴方に逢わないこの頃です。
次に佐伯宿祢赤麿が娘子と交わした相聞和歌を紹介します。ただ、この歌を交わした娘子は万葉集に「娘子」とだけ示され、その人物像は不明です。一方、相聞歌交換のパートナーとなる佐伯赤麿もまた、大伴一族同祖となる佐伯宿祢一族の人物ですが、歴史では不明な人物です。万葉集の巻四に佐伯赤麿の歌が集歌405の歌と集歌628の歌とに分かれて二首載せられています。ともに歌は娘子と交わした相聞和歌ですが、この相聞歌の二つ後に万葉集では湯原王と娘子との掛詞を多用した相聞和歌群が載せられています。従いまして、この娘子が同じ人物としますと、娘子は豊前娘子となります。そして、その豊前娘子や安倍虫麿、大伴坂上郎女、湯原王、藤原八束たちが参加した秋の観月の宴に佐伯赤麿や大伴四綱もまた参加していたと思われます。結構、大人数の観月の宴となります。
参考として、その観月の宴は佐保あたりにあった屋敷から高円山から三笠山方向を眺めるものであったと推定されます。そこからか、集歌404の歌では和迩一族によって春日野で祀られていた武甕槌命、經津主命 天兒屋根命 巨勢比賣神の四神を比喩して「神之社四」と詠ったものと思われます。
娘子報佐伯宿祢赤麿贈謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿の贈れるに報(こた)へたる謌一首
集歌404 千磐破 神之社四 無有世伐 春日之野邊 粟種益乎
訓読 ちはやぶる神し社(やしろ)し無きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に粟(あは)種(ま)きましを
私訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社が、もし、無かったら、その春日の野辺に粟の種を播いたのですが。
<裏歌の鑑賞>
試訓 ちはやぶる神し社(やしろ)し泣きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に逢はまき座(ま)しを
試訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社、その社で貴方を恋しくて泣いていたなら、その春日の野辺で逢って頂いたのでしょうね。
佐伯宿祢赤麿更贈謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の更に贈れる謌一首
集歌405 春日野尓 粟種有世伐 待鹿尓 継而行益乎 社師留焉
訓読 春日野に粟(あは)種(ま)きありせば鹿(しし)待ちに継ぎに行かましを社(やしろ)し留(とど)めし
私訳 春日野に粟を蒔いたならば、粟を食べに来る鹿を待ち伏せしに、たびたび、出て行くのですが。しかし、神聖な神の社では、そのような振る舞いは思い止めましょう。
<裏歌の鑑賞>
試訓 春日野に逢はまきありせば待ちしかに次に行かましをこそしとどめむ
試訳 春日野で貴女に逢う機会があるのなら、きっと待っていましたよ。だから、次の機会には、絶対、逢いに行きましょう。ですから、貴女への想いはこのようにずっと持ち続けています。
注意 一般に「社師留焉」の「留」は「怨」の誤記とします。その時、歌意は変わります。ここは原文のままです。
娘子復報謌一首
標訓 娘子(をとめ)のまた報(こた)へたる謌一首
集歌406 吾祭 神者不有 大夫尓 認有神曽 好應祀
訓読 吾(あ)が祭(まつ)る神にはあらず大夫(ますらを)に憑(つ)きたる神ぞよく祀(まつ)るべし
私訳 それは私が祭る神ではありません。春日四神である経津主命は佐伯一族である立派な貴方の祖神となる神様です。大切に祭るべきです。
<裏歌の鑑賞>
試訓 吾(あ)が奉(ま)つる上(かみ)にはあらず大夫(ますらを)に就きたる上ぞよく奉(ま)つるべし
試訳 私が奉仕を申しあげる御方(=大夫の妻のこと)ではありません。大夫である貴方に寄り添った御方ですよ。その御方をもっと大切にしてあげて下さい。
次の歌もまた、宴で佐伯赤麿と娘子とが交換した相聞歌です。この歌二首の前に佐伯赤麿が詠う歌があったことになりますが、その詠われた歌の状況は不明です。
ただ、この二首だけを鑑賞する時、万葉集に載る歌を引用している可能性があります。その引用されたのではないかと云う歌が集歌2709の歌です。この歌には異伝があり、その異伝が伝わるほどですから、当時には有名な歌だったと思われます。そこで想像ですが、娘子はこの集歌2709の歌を背景に集歌627の歌を詠ったのではないかと考えています。
なお、集歌627や集歌628の歌には裏歌が隠されて折、歌で詠う「戀水」の言葉には媚薬や精力剤の意味合いがあるようです。それを窺わせるものとして集歌628の歌の四句目は「鹿煮藻闕二毛」と表記していますから、およそ、この「鹿煮」の言葉には「鹿茸」や「鹿角」を煮込んで作る媚薬・精力剤の意味が隠されていると思われます。発声での歌の鑑賞と、墨書して示す歌の世界は大きく違います。
娘子報贈佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿に報(こた)へ贈れる謌一首
集歌627 吾手本 将巻跡念牟 大夫者 戀水定 白髪生二有
訓読 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(さだ)めし白髪生(お)ひにけり
私訳 私を抱きたいと強く思う立派な男子は、集歌2709の「戀水」の歌ではありませんが、どんな困難を乗り越えても恋しく思うのではありませんか、だって、「しがらみ」ではありませんが、貴方には白髪が生えていますから。
<裏歌の解釈>
試訓 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(もと)めむ白髪生(お)ひにけり
試訳 このように若い私を抱きたいと思う大夫さんは、きっと、精力剤を必要とするでしょうね。だって、白髪が生えているのですから。
注意 原文の「戀水定」の「戀」は「變」の誤字、「定」は「者」の誤字として「變水者(をちみづは)」と訓みます。この時、歌は全く別物になります。
佐伯宿祢赤麿和謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の和(こた)へたる謌一首
集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 しがら負(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
私訳 世間のしがらみを背負っていることを気にすることなく、集歌2709の「戀水」の歌が詠うように、このようにして貴女の愛を求めて行きましょう。
<裏歌の解釈>
試訓 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
試訳 年老いて白髪が生え、精力が落ちたことを考えないで、貴女との夜の営みのため、必要な媚薬をなにはともあれ求めに行きましょう。
注意 集歌627の歌と同様に、一般には「戀水者」の「戀」は「變」の誤字とします。
<参考歌>
集歌2709 吾妹子 吾戀樂者 水有者 之賀良三越而 應逝衣思
訓読 吾妹子(わぎもこ)し吾(あ)が恋ふらくは水ならばしがらみ越しに行くべくそ思(も)ふ
私訳 私の愛しい貴女を私が恋い焦がれる姿とは、もし、川の水であったなら、しがらみを乗り越え流れ行くような、そのようなものと思います。
ここで、大伴四綱もまた同じ宴に出席していたとしますと、四綱は赤麿の詠う集歌268の歌を引き取って詠ったような雰囲気があります。それが赤麿の「鹿煮藻闕二毛」に対して四綱は「左右裳」です。また、四綱の詠う歌の初句「奈何鹿」の音字となる「鹿」も意味を込めた漢字使いと思われます。
大伴四綱宴席謌一首
標訓 大伴四綱(よつな)の宴席(うたげ)の謌一首
集歌629 奈何鹿 使之来流 君乎社 左右裳 待難為礼
訓読 何すとか使(つかひ)し来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
試訳 赤麿さん、どうにかして歌を返したようですね。貴方の返歌を、なにはともあれ、期待して待っていましたから。
その四綱の歌に対して赤麿は次の集歌630の歌を返したようです。四綱の歌の「奈何鹿」に対して集歌2273の歌の「何為等加」であり、その「待難為礼」に対しては「君乎将厭」です。これを踏まえての集歌630の歌の「初花之 可散物乎」なのでしょう。当然、これらの歌の流れからは、娘子がまだ若い娘であるならば、集歌2273の歌を踏まえて集歌630の歌には娘子は、もう、男に抱かれる年頃なのに、あれこれと云い訳をして、なかなか体を許してくれないとの意味も隠れています。
佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の謌一首
集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花し散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりによどむころかも
試訳 初々しい花はその時期には散るべきものです。ただ、人の世の差し障りが多くて、それで遅れたのでしょう。
<参考歌>
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。
穿った歌の鑑賞を紹介しました。
ただ、今回、示しました穿った鑑賞方法を受け入れられる可能性があるとしますと、万葉時代の歌人が求められる水準は非常に高度です。古今和歌集の時代に発達したとされる掛詞や縁語の技法は奈良時代の和歌人の知るべき基本的事項ですし、さらに本歌取りの技法もまた必須事項です。さらに奈良時代の貴族たちが好む人麻呂調の和歌の特性として、歌には発声と墨書した時とに風景や解釈の多重性が求められます。
この要求は古今和歌集を超える高度な作歌基準です。現在の大勢は万葉集の歌は素朴であるが力強気と云うことになっていて、それを根底に歌を鑑賞します。原文から、今回、紹介したような鑑賞態度で鑑賞を要求されますと、大変、手強いのではないでしょうか。当然、訓読みされた万葉集歌をテキストに使用したのでは、ここで示した鑑賞方法は適用できません。あくまで、原文からの鑑賞方法です。
さて、今まで、人は万葉集を本当に鑑賞して来たのでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます