竹取翁と万葉集のお勉強

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原万葉集 宇梅乃波奈(うめのはな) 大宰府 烏梅の宴

2013年10月27日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
大宰府 烏梅の宴

 紹介しましたように天平二年正月十三日、大宰府で大伴旅人を宴主とする烏梅の宴が開かれました。その宴に参加した人物は山上憶良や笠沙弥を始めとして、身分の上下はありますが、全員が中級から上級公務員で日常的に公文書を作成する立場にある人たちです。つまり、日々、漢文での公文書を作成・読解する立場の人々です。また、大宰府を中心とする役人たちですから、その地理的関知から中国語を使う外国人との交渉窓口となる人々です。この人々の身分とその身分が要求する日常業務を前提にしますと、正月十三日の烏梅の宴に参加した人々にとっては、新規に提案された万葉仮名だけを使って一字一音の和歌を詠うより、漢詩・漢文の方がより身近で親しみやすかった可能性があります。また、同じ和歌でも漢字の持つ表語力を活用する人麻呂調の「表記する和歌」の方が好ましかったと思われます。烏梅の宴で詠われた「梅花歌三十二首」にはこのような背景があることを理解して下さい。当時、日本語をままに表現する表記法は模索の時代ですし、口語文の記録方法自体があったかどうかも不明の時代です。国際的にも中華文化圏では漢字漢文が唯一の文章での表現方法の時代です。
 このような作歌での背景があるためか、烏梅の宴で詠われた「梅花歌三十二首」は凡作が過半です。白川静氏は『後期万葉集(中公文庫)』の「第五章 旅人讃酒」で、この梅花歌三十二首の作品について「旅人・憶良の作を除いて、とりたてていうべきものがない」と感想を述べられています。さらに、氏は土屋文明氏の『万葉集私注』の一節を引用して「言はば御座なりの作が多い」とも紹介されています。
 この烏梅の宴で詠われた歌の鑑賞において大切なことは、これらの歌が御座なりで、肝心の梅の花を実際に見て歌を詠んだのかどうかも怪しいことが重要なのです。この梅花歌三十二首が、『万葉集』の多くの歌では当たり前である作歌されたその歌を鑑賞するために作られた歌ではないことに気付き、注目することが大切です。鑑賞して頂ければ明らかですが、これらの歌は心の感情をそのままに歌にするという実験の歌ですし、その手段が日本語口語を発声に従って表記することが可能な万葉仮名だけを使った一字一音の和歌作歌法なのです。およそ、これらの歌は実験の過程を示すものなのです。
大伴旅人はその烏梅の宴を開く時、宴の目的を漢文で表し残しています。その新たな作歌運動の宣言書とでも云うべき彼の漢文を紹介します。

梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

訓読 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃まりて、宴會を申く。時、初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。加以、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて盖を傾け、夕の岫に霧結び、鳥は穀に封められて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖とし地を坐とし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放にし、快然と自ら足る。若し翰苑に非ずは、何を以ちて情を濾べむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。

私訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。

 旅人はこの漢文で「淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情」と新たな作歌運動での方法論を述べています。およそ、この烏梅の宴とは旅人が主張する新たな作歌運動の実践の場であり、梅花歌三十二首とはその成果物です。
 梅花歌三十二首の歌を鑑賞する時、最初に宴が持たれたときの季節感を考えて下さい。この宴の当日(新暦二月八日)、冬本番の寒風吹き付ける冬日ではなく、穏やかな日和だったようですが、柳の芽吹きはどうだったでしょうか。また、当時の梅は花が先で葉は後と思われますが、山桜のような花の散り方のイメージや葉と花が同時に枝にあると云う景色があります。また、九州の博多といっても新暦二月上旬に霞が棚引くとは思えませんし、山野では霞が棚引くと云う同日に庭では梅の花びらが散るかのように沫雪が降っていることになっています。さて、彼らは実際に外の景色や梅の花を見て歌を詠ったのでしょうか。古来、和歌の専門家はこれらの歌の世界は実際に見た景色の写生と解釈しているようですが、その可能性はあるのでしょうか。
 なお、歌で詠われる梅は現在の品種区分では野梅性の白梅と思われ、新暦十二月下旬から一月中旬に咲く早咲きの梅です。つまり、季節的には宴が持たれた正月十三日(新暦二月八日)は盛りを過ぎた梅の花なのです。現在の梅の多くは杏との交配種ですので、やや桃に近い季節感を持つ必要があります。
 『万葉集』ではこの烏梅の宴の歌群は「梅花謌卅二首并序」から「後追和梅謌四首」までの漢文の序文と和歌三十八首とで構成されています。大伴旅人が新たな和歌の作歌法を提議した、その序文は、現在の文学研究者によると当時としては最新の唐の書物である『晋書』に載る王羲之の最高傑作である「欄亭序」の文体を模したものであると推定しています。研究者は使われる一部分の言葉の類似性に注目して模倣と考えているようですが、文章構成と表現能力では「欄亭序」より「梅花謌卅二首并序」の方が上かも知れません。このような背景があるために、古くから序文となる漢文を創作した人物の素養と国際的な文化流行への感度は優れていたと評価されています。そのため、この漢文の創作者は山上憶良ではないかと云う説も唱えられたほどです。
 「梅花謌卅二首」はその国際レベルにある漢文の序と大和歌である短歌の組み合わせで構成されています。時代として、このスタイルが重要だったと思われます。正調の漢文と和文・和歌とを組み合わせるスタイルは、ちょうど『古事記』の編纂者である太朝臣安麻呂が正調な漢文で最初に序文を記し、その後に本文を和化漢文とされる日本語の文章で記したのと同じ世界です。それは、「このように、漢文・漢語での表現能力はあります。また、人麻呂調の和歌である表記する和歌も詠う能力もあります。しかしそこを敢えて万葉仮名表記の一字一音表記なのです」と云っている様な姿です。つまり、この烏梅の宴の歌群、和歌三十八首とは実験の和歌であり、その実験とは「万葉仮名による一字一音表示で三十一音字の縛りのある大和歌」を詠うことなのです。
 その実験の状況を少し見てみましょう。紹介する集歌八五一の歌は旅人の歌です。対して、集歌四五一の歌もまた旅人の歌です。その歌比べです。それぞれの歌の制作年度は共に天平年間初頭で相互には一年程度しか違いません。また、常体歌表記の集歌四五一の歌の方が時代的に新しい歌と推定されていますから、歌の表現方法の違いは歌が詠われた年代や年齢による変化ではありません。この作歌表現方法の違いは意識しての書き分けにあります。

集歌四五一
原文 人毛奈吉空家者草枕旅尓益而辛苦有家里
訓読 人もなき空しき家は草枕旅にまさりに苦しかりけり
私訳 あのお方も黒髪豊かであった最愛の妻も亡くなり心も屋敷も空しい、その空しい家には草を枕するような野宿の旅以上に心が満たされないので、辛いことや苦しいことは家にも里にもある。

集歌八五一
原文 和我夜度尓左加里尓散家留宇梅能波奈知流倍久奈里奴美牟必登聞我母
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
私訳 私の家に盛りと咲いている梅の花に、その花が散る時期が来たようだようだ。今、その名残の花を眺める友がいればいいのに。

 ここで、集歌四五一の歌で「人毛奈吉」を「ひともなき」と読み「人も亡き」と訓読みして、旅人の妻が大宰府で亡くなったことを想うのが普段のルールです。ところが、「人毛奈吉」の用字ですから、「人も奈良の都も吉である」のイメージがあります。ここに、繁栄する奈良の都で妻に先立たれ独り後に残されたとの感情があります。このように表記から連想が広がるのが、人麻呂調の和歌である「表記する和歌」です。一方、集歌八五一の歌は字は音の意味しか持たない、声に出して詠う「調べの和歌」です。これが、実験です。
 烏梅の宴に参加した人々にとって、万葉仮名表記での一字一音表記の三十一字の縛りのある大和歌を詠うことは気持ちの悪い歌と思います。集歌八五一の歌が表記において比喩歌と解釈出来るとしますと、「和我夜度尓」を「吾が夜毎に」と採って家に囲う愛人が浮気することなく私一人を愛して年取ったとも解釈することは可能ですが、声に出して詠う「調べの和歌」ではそのような解釈は成り立ちません。一義的に「私の屋戸の」です。日頃、漢字と漢語の意味を調べ、その適用を研究するような通訳や書記の人々にとってこのような表現方法は衝撃だったでしょう。
 文章を職業とする通訳や書記の人々は万葉仮名表記での一字一音表記法は知っていたでしょうし、宣命や祝詞文などで「てにをは」での助字や音仮名としての使用もしています。しかし、名詞や動詞を表す漢語をすべて棄てる発想はなかったと思いますし、そこまで革命的でもないと思います。つまり、この烏梅の宴で旅人から示された万葉仮名だけの一字一音表記の三十一字の和歌は革命だったと思います。そして、この瞬間が人麻呂調の和歌である「表記する和歌」から脱して、普段の人が日常で使う用字と言葉で歌を表記する「調べの和歌」の歴史が始まった場面なのでしょう。

 大伴旅人はこの烏梅の宴での実験の後、宴で詠われた歌を取り纏め、それを平城京にいる和歌と漢詩の教養人である吉田連宜の許に送り、評価を求めています。ここからも、烏梅の宴とは、都にいる人々に「万葉仮名だけでの一字一音表記による三十一字の和歌」の表現について評価を求めるために開かれた宴会と思われます。この一字一音表記法による和歌は、天平元年前後に大宰府で大伴旅人や山上憶良らにより考案され広まったようですが、普段の人への普及はこの大宰府の「烏梅の宴」からとして良いと思っています。そこから調べの和歌の誕生日は天平二年正月十三日です。
 『万葉集』にはこのように「表記する和歌」と「調べの和歌」と云う二つの大きな区分があり、また、その代表者に柿本人麻呂と大伴旅人とがいます。その視線に時代区分を入れて編まれたのが「奈弖之故」であり「宇梅乃波奈」です。これが私の考えです。それを理解していただきたくて、このように長い寄り道をいたしました。
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