万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 北斎とよむ古事記・万葉集
批評社から岡林みどり氏の『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』(本体3500円+税)が本年平成30年3月30日に出版されています。弊ブログに、一度、ご紹介がありましたので、ここに紹介いたしたいと思います。
本は著者がライフワークとしてなされている「日本語」に対する研究成果・知識を葛飾北斎の版画図「百人一首 姥かゑとき」を足掛かりに、小倉百人一首、古今和歌集、万葉集へと遡り、解説・展開されています。この「百人一首 姥かゑとき(=姥が絵解き)」は「おばあさんが孫に教える絵解きなので、簡単なはずのものなのだが、実際の北斎の画には難解なものが多い。そのため出版に至ったものは27図だけで、その他の64図は、校合摺1図、版下絵56図ならびにこれを基にした亜鉛凸版による復刻版7図として残っているに過ぎない」と作品解説されるもので、本来は小倉百人一首に応答する100図の画集になるところ、現時点で伝存するものは27図しかありません。つまり、北斎の「百人一首 姥かゑとき」は未完の画集です。
すると、ここに北斎の「百人一首 姥かゑとき」への疑問が出て来ます。未完になった理由は偶然か、必然かです。また、絵図が示す世界観と和歌の世界観との対比にあります。著者はこれを意図した未完と考察されたようですし、絵図の世界に江戸風流からの「滑稽」や「洒落」を見ています。ここが出発点であり、それに気付くかどうかは「深読み」か「浅読み」かの鑑賞者の立場であり、現代の「深読み」を求める時流への感受性によるとします。この立場から思索を展開し「百人一首 姥かゑとき」と「万葉集巻一 全84首と関連する歌」との関連性を考察し、そこでの「立体象」を示されています。また、本著の契機を東日本大震災と大津波から見出した百人一首の「末の松山」から万葉集の歌番号83の「海の底 奥つ白波 立田山」への啓示によるとされています。弊ブログでも、ご連絡の内容から「番外雑話 末の松山」で弊ブログの鑑賞立場を紹介しましたが、著者はこの「末の松山」の歌に貞観大地震を、歌番号83の歌に白鳳大震災を想像されたようです。およそ、ここに文学を鑑賞するときの「浅読み」と「深読み」との分かれ道があります。
本は日本語の研究をライフワークとされている著者が独自の視点から古今和歌集や万葉集の歌々を使い、これまでの研究成果を述べられていますので純粋・直線的に和歌を鑑賞するものではありません。著書にはインターネットでは有名なHP『暗号 山上憶良』に類する思索の展開があり、読者にはある程度の以上の古典文学や言語学に対する素養を求めるものとなっています。このような本であるがため、浅読みとなる歌をその原歌の字面に従い直線的に鑑賞を旨とする私では非常に難しい思索の展開となっています。しかしながら本著を感想文的に要約しますと和歌鑑賞と云うものよりも筆者が見出した古典文学への謎解き本であり、その謎解きに日本語と言語論と云う武器を使います。
また、弊ブログと比較しますと万葉集の原歌表記での漢字の解釈に使う『説文解字』の扱い方、太陰太陽暦を基準とする暦などへの解釈・扱いが大きく異なります。そのために万葉集の原歌読解、弊ブログで指摘する「之」や「而」などの漢字解釈などに多く相違があります。つまり和歌の基本鑑賞に相違があり、立場が違います。例としては「番外雑話 末の松山」や「番外雑話 末の歌と頭の歌 万葉集と古今和歌集」に示すところです。『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、個人の感覚では、その論旨の展開や思索原理ではHP『暗号 山上憶良』に似たところがあります。従いまして、あくまで個人の感想ですが、HP『暗号 山上憶良』で行う古典文学へのアプローチを好まれるお方には、この『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』はその心のツボにハマるのではないでしょうか。他方、そのような方向性を持つ著書であることを理解していないと、本著をお手にされた時に途惑われるのではないでしょうか。
本著書は私にはとても難解でしたので帰結すら理解することも出来ませんでした。従いまして、実に頓珍漢な本の紹介となりました。それを御了解下さい。
なお著作物を離れますと、葛飾北斎の「百人一首 姥かゑとき」と云う作品で紹介される版画図の世界観に江戸時代の文化人の和歌鑑賞態度があるとしますと、私が鑑賞する和歌の世界観とは相当に違います。現代の万葉集での訓読み万葉集解釈は平安時代末期から鎌倉時代初期の次点解釈を江戸時代に発展させたものですので、北斎が示す「百人一首 姥かゑとき」の世界観はそれを絵として示すものと考えます。このような視点から解釈比較を行うのは面白いかもしれません。ただし、小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期の和歌の世界観で古典を翻訳したものですので、それを前提にする必要はあります。つまり、弊ブログの立場からしますと万葉集の世界、小倉百人一首の世界、北斎の「百人一首 姥かゑとき」の世界は同一ではないことになります。
斯様に『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、考えさせられるところがありますので、余裕がおありでしたら書店・図書館で、一度、お手にされてはいかがでしょうか。ただ、繰り返しますが、本著は直線的な和歌鑑賞本ではないことを御了解下さい。ある種、和歌に隠された謎解き本です。
いつものように支離滅裂で申し訳ありません。
批評社から岡林みどり氏の『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』(本体3500円+税)が本年平成30年3月30日に出版されています。弊ブログに、一度、ご紹介がありましたので、ここに紹介いたしたいと思います。
本は著者がライフワークとしてなされている「日本語」に対する研究成果・知識を葛飾北斎の版画図「百人一首 姥かゑとき」を足掛かりに、小倉百人一首、古今和歌集、万葉集へと遡り、解説・展開されています。この「百人一首 姥かゑとき(=姥が絵解き)」は「おばあさんが孫に教える絵解きなので、簡単なはずのものなのだが、実際の北斎の画には難解なものが多い。そのため出版に至ったものは27図だけで、その他の64図は、校合摺1図、版下絵56図ならびにこれを基にした亜鉛凸版による復刻版7図として残っているに過ぎない」と作品解説されるもので、本来は小倉百人一首に応答する100図の画集になるところ、現時点で伝存するものは27図しかありません。つまり、北斎の「百人一首 姥かゑとき」は未完の画集です。
すると、ここに北斎の「百人一首 姥かゑとき」への疑問が出て来ます。未完になった理由は偶然か、必然かです。また、絵図が示す世界観と和歌の世界観との対比にあります。著者はこれを意図した未完と考察されたようですし、絵図の世界に江戸風流からの「滑稽」や「洒落」を見ています。ここが出発点であり、それに気付くかどうかは「深読み」か「浅読み」かの鑑賞者の立場であり、現代の「深読み」を求める時流への感受性によるとします。この立場から思索を展開し「百人一首 姥かゑとき」と「万葉集巻一 全84首と関連する歌」との関連性を考察し、そこでの「立体象」を示されています。また、本著の契機を東日本大震災と大津波から見出した百人一首の「末の松山」から万葉集の歌番号83の「海の底 奥つ白波 立田山」への啓示によるとされています。弊ブログでも、ご連絡の内容から「番外雑話 末の松山」で弊ブログの鑑賞立場を紹介しましたが、著者はこの「末の松山」の歌に貞観大地震を、歌番号83の歌に白鳳大震災を想像されたようです。およそ、ここに文学を鑑賞するときの「浅読み」と「深読み」との分かれ道があります。
本は日本語の研究をライフワークとされている著者が独自の視点から古今和歌集や万葉集の歌々を使い、これまでの研究成果を述べられていますので純粋・直線的に和歌を鑑賞するものではありません。著書にはインターネットでは有名なHP『暗号 山上憶良』に類する思索の展開があり、読者にはある程度の以上の古典文学や言語学に対する素養を求めるものとなっています。このような本であるがため、浅読みとなる歌をその原歌の字面に従い直線的に鑑賞を旨とする私では非常に難しい思索の展開となっています。しかしながら本著を感想文的に要約しますと和歌鑑賞と云うものよりも筆者が見出した古典文学への謎解き本であり、その謎解きに日本語と言語論と云う武器を使います。
また、弊ブログと比較しますと万葉集の原歌表記での漢字の解釈に使う『説文解字』の扱い方、太陰太陽暦を基準とする暦などへの解釈・扱いが大きく異なります。そのために万葉集の原歌読解、弊ブログで指摘する「之」や「而」などの漢字解釈などに多く相違があります。つまり和歌の基本鑑賞に相違があり、立場が違います。例としては「番外雑話 末の松山」や「番外雑話 末の歌と頭の歌 万葉集と古今和歌集」に示すところです。『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、個人の感覚では、その論旨の展開や思索原理ではHP『暗号 山上憶良』に似たところがあります。従いまして、あくまで個人の感想ですが、HP『暗号 山上憶良』で行う古典文学へのアプローチを好まれるお方には、この『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』はその心のツボにハマるのではないでしょうか。他方、そのような方向性を持つ著書であることを理解していないと、本著をお手にされた時に途惑われるのではないでしょうか。
本著書は私にはとても難解でしたので帰結すら理解することも出来ませんでした。従いまして、実に頓珍漢な本の紹介となりました。それを御了解下さい。
なお著作物を離れますと、葛飾北斎の「百人一首 姥かゑとき」と云う作品で紹介される版画図の世界観に江戸時代の文化人の和歌鑑賞態度があるとしますと、私が鑑賞する和歌の世界観とは相当に違います。現代の万葉集での訓読み万葉集解釈は平安時代末期から鎌倉時代初期の次点解釈を江戸時代に発展させたものですので、北斎が示す「百人一首 姥かゑとき」の世界観はそれを絵として示すものと考えます。このような視点から解釈比較を行うのは面白いかもしれません。ただし、小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期の和歌の世界観で古典を翻訳したものですので、それを前提にする必要はあります。つまり、弊ブログの立場からしますと万葉集の世界、小倉百人一首の世界、北斎の「百人一首 姥かゑとき」の世界は同一ではないことになります。
斯様に『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、考えさせられるところがありますので、余裕がおありでしたら書店・図書館で、一度、お手にされてはいかがでしょうか。ただ、繰り返しますが、本著は直線的な和歌鑑賞本ではないことを御了解下さい。ある種、和歌に隠された謎解き本です。
いつものように支離滅裂で申し訳ありません。
弊ブログは正統な教育を受けていない素人の与太話であり、酔論です。
そのような者の戯言とご笑納ください。
今、弊ブログを読み返すますと、立派な著作に対して恥じ入るばかりです。