万葉雑記 色眼鏡 その十六 「而」は「テ」と訓めるのか
今回は、個人的な文字への疑問をテーマにしています。
真仮名または万葉仮名に「之」や「而」と云う文字がありますが、これらの文字は万葉集の歌を解釈する時、訓仮名として「之」は「ノ」や「ガ」と訓み、「而」は「テ」と訓むことになっています。
当然、「之」や「而」の文字を音仮名として訓めば「之」は「シ」であり、「而」は「二」や「ジ」です。しかし、なぜか助詞として扱っても「之」は訓仮名として「ノ」であり「ガ」ですし、「而」は「テ」です。古代において日本人は固有の日本語を文字として表記する方法を持たず、漢字の字音を使って日本語を表記することを発明しました。そうした時、助詞として「之」や「而」の文字を日本語としての訓仮名文字として解釈する場合は、助詞であるがゆえにその字自体が意味を持たないはずですから、字音とは関係ないその発音の根拠について「なぜ」と云う疑問に答える必要があるのではないかと思います。
このためでしょうか、万葉仮名の字音表というものに於いて、研究者によりその人が説明する万葉仮名の字音表に「シ」の字音には「之」の文字は無く、同じように「テ」の字音に「而」の文字はありません。以前、ここでのブログで平安時代中期に作成された秋萩帖から、その当時には「之」の文字を「ノ」や「ガ」と訓んだ例は無いと紹介しました。そして、可能性として「之」の文字を助詞において訓仮名としたのは平安時代後期の貴族たちの癖が根拠ではないかと考えました。つまり、万葉集の歌が詠われた時代と平安時代後期以降では歌の訓読みが違うのではないかと云う疑問です。
では「而」の文字はどうでしょうか。ここに同じ疑問が生じます。やはり、「之」の文字を漢文訓読調に漢字だけで表記された万葉集の歌を読んでしまった平安後期の貴族の癖と同じなのでしょうか。なお、「而」の文字の漢音は「ジ」、呉音は「二」であり、唐音は「ルウ」です。(ウキペディア:「音読み」より) 逆に万葉仮名の研究者は、字音から研究すれば「之」の文字は「ノ」や「ガ」とは訓めませんし、「而」の文字は「テ」とは訓めませんので、彼らが紹介する万葉仮名表にはそれが無いのだと思います。一方、校本万葉集の訓読みから万葉仮名表を編纂する場合は、当たり前ですが「之」の文字に「ノ」や「ガ」の訓みがあり、「而」の文字に「テ」の訓みが存在しなければいけないことになります。常識ある社会人からみれば、漢字字音からの万葉仮名の研究者と校本万葉集の訓読み表記からの万葉仮名の研究者とは、まったく違う学問分野で万葉仮名を研究していることは明らかです。当然、万葉集の歌を原本から鑑賞するなら、この学問分野での混同は許されません。
従いまして、もしもですが、紹介した疑問に於いて漢字字音からの万葉仮名を考えて「而」の文字の訓みが平安時代後期以降とそれ以前で違うのですと、必然、万葉集の歌の解釈が変わって来る可能性があります。
そこで、試みに「而」の文字を音仮名文字として奈良時代の基本的な発音である呉音の「二」として訓んでみました。時に、集歌77の歌の句「嗣而賜流」において、「嗣ぎに賜へる」と「嗣ぎて賜へる」とでは大きく歌意が変わります。これは、文語として完了や強調の助動詞「ぬ」の連用形である「に」ではないかとの推定が可能ではないでしょうか。
試みの訓読み及び私例の紹介;
集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
試訓 春過ぐに夏来(き)けるらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天し香来山(かくやま)
試訳 もう、寒さ厳しい初春が終わったからか、夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。
集歌33 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
試訓 楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびに荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
試訳 楽浪の国を守る国つ御神の神威も衰えてしまったからこそ、その荒廃した京を見ると悲しくなる。
集歌39 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
試訓 山川も依りに仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せしかも
試訳 山や川の神々も大王の御威光に打たれたからこそご奉仕します、その現御神として、この流れの激しい川の中に船出なされるようです。
集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
試訓 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立ちそ見にかへり見すれば月西渡る
試訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立ったのが見えたからこそ、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌77 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
試訓 吾(わ)ご大王(おほきみ)物(もの)な念(おも)ほし皇神(すめかみ)の嗣ぎに賜へる吾れ無けなくに
試訳 吾らの大王よ。御心配なされるな。貴女は皇祖から日嗣としてその立場が賜られたのです。それに、吾らがいないわけではありません。
今回は、疑問であり、遊びです。そこをご了承ください。
参考に高千穂大学の経営学部教授 渋谷栄一氏が率いる渋谷栄一(国語・国文学)研究室が変体仮名表記された「土左日記」に対して、その原本で使われていた真仮名の復元作業をされています。成果としての復元された「土左日記」の原本では、個人的な調べでは「而」の字音文字は使われていませんでした。「土左日記」の原本での「テ」の字音は「天」の真仮名文字が使われています。また、秋萩帖での「テ」は「天」と「転」です。
最後にお願いであります。
国文学を志す御方で、万葉集の歌の表記を漢語と真仮名とに厳密に区分し、現在において一番正しいと思われる万葉仮名表を使って、歌を改めて原文から訓読みしていただけないでしょうか。推定ですが、現在の校本万葉集の訓読み歌は、多く、変わる可能性があると考えます。
今回は、個人的な文字への疑問をテーマにしています。
真仮名または万葉仮名に「之」や「而」と云う文字がありますが、これらの文字は万葉集の歌を解釈する時、訓仮名として「之」は「ノ」や「ガ」と訓み、「而」は「テ」と訓むことになっています。
当然、「之」や「而」の文字を音仮名として訓めば「之」は「シ」であり、「而」は「二」や「ジ」です。しかし、なぜか助詞として扱っても「之」は訓仮名として「ノ」であり「ガ」ですし、「而」は「テ」です。古代において日本人は固有の日本語を文字として表記する方法を持たず、漢字の字音を使って日本語を表記することを発明しました。そうした時、助詞として「之」や「而」の文字を日本語としての訓仮名文字として解釈する場合は、助詞であるがゆえにその字自体が意味を持たないはずですから、字音とは関係ないその発音の根拠について「なぜ」と云う疑問に答える必要があるのではないかと思います。
このためでしょうか、万葉仮名の字音表というものに於いて、研究者によりその人が説明する万葉仮名の字音表に「シ」の字音には「之」の文字は無く、同じように「テ」の字音に「而」の文字はありません。以前、ここでのブログで平安時代中期に作成された秋萩帖から、その当時には「之」の文字を「ノ」や「ガ」と訓んだ例は無いと紹介しました。そして、可能性として「之」の文字を助詞において訓仮名としたのは平安時代後期の貴族たちの癖が根拠ではないかと考えました。つまり、万葉集の歌が詠われた時代と平安時代後期以降では歌の訓読みが違うのではないかと云う疑問です。
では「而」の文字はどうでしょうか。ここに同じ疑問が生じます。やはり、「之」の文字を漢文訓読調に漢字だけで表記された万葉集の歌を読んでしまった平安後期の貴族の癖と同じなのでしょうか。なお、「而」の文字の漢音は「ジ」、呉音は「二」であり、唐音は「ルウ」です。(ウキペディア:「音読み」より) 逆に万葉仮名の研究者は、字音から研究すれば「之」の文字は「ノ」や「ガ」とは訓めませんし、「而」の文字は「テ」とは訓めませんので、彼らが紹介する万葉仮名表にはそれが無いのだと思います。一方、校本万葉集の訓読みから万葉仮名表を編纂する場合は、当たり前ですが「之」の文字に「ノ」や「ガ」の訓みがあり、「而」の文字に「テ」の訓みが存在しなければいけないことになります。常識ある社会人からみれば、漢字字音からの万葉仮名の研究者と校本万葉集の訓読み表記からの万葉仮名の研究者とは、まったく違う学問分野で万葉仮名を研究していることは明らかです。当然、万葉集の歌を原本から鑑賞するなら、この学問分野での混同は許されません。
従いまして、もしもですが、紹介した疑問に於いて漢字字音からの万葉仮名を考えて「而」の文字の訓みが平安時代後期以降とそれ以前で違うのですと、必然、万葉集の歌の解釈が変わって来る可能性があります。
そこで、試みに「而」の文字を音仮名文字として奈良時代の基本的な発音である呉音の「二」として訓んでみました。時に、集歌77の歌の句「嗣而賜流」において、「嗣ぎに賜へる」と「嗣ぎて賜へる」とでは大きく歌意が変わります。これは、文語として完了や強調の助動詞「ぬ」の連用形である「に」ではないかとの推定が可能ではないでしょうか。
試みの訓読み及び私例の紹介;
集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
試訓 春過ぐに夏来(き)けるらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天し香来山(かくやま)
試訳 もう、寒さ厳しい初春が終わったからか、夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。
集歌33 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
試訓 楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびに荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
試訳 楽浪の国を守る国つ御神の神威も衰えてしまったからこそ、その荒廃した京を見ると悲しくなる。
集歌39 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
試訓 山川も依りに仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せしかも
試訳 山や川の神々も大王の御威光に打たれたからこそご奉仕します、その現御神として、この流れの激しい川の中に船出なされるようです。
集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
試訓 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立ちそ見にかへり見すれば月西渡る
試訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立ったのが見えたからこそ、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。
集歌77 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
試訓 吾(わ)ご大王(おほきみ)物(もの)な念(おも)ほし皇神(すめかみ)の嗣ぎに賜へる吾れ無けなくに
試訳 吾らの大王よ。御心配なされるな。貴女は皇祖から日嗣としてその立場が賜られたのです。それに、吾らがいないわけではありません。
今回は、疑問であり、遊びです。そこをご了承ください。
参考に高千穂大学の経営学部教授 渋谷栄一氏が率いる渋谷栄一(国語・国文学)研究室が変体仮名表記された「土左日記」に対して、その原本で使われていた真仮名の復元作業をされています。成果としての復元された「土左日記」の原本では、個人的な調べでは「而」の字音文字は使われていませんでした。「土左日記」の原本での「テ」の字音は「天」の真仮名文字が使われています。また、秋萩帖での「テ」は「天」と「転」です。
最後にお願いであります。
国文学を志す御方で、万葉集の歌の表記を漢語と真仮名とに厳密に区分し、現在において一番正しいと思われる万葉仮名表を使って、歌を改めて原文から訓読みしていただけないでしょうか。推定ですが、現在の校本万葉集の訓読み歌は、多く、変わる可能性があると考えます。
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