万葉雑話 番外雑話 儒家と房中術
今回も直接には万葉集とは関係ありません。現在、眺めています中国古典思想史に関係する備忘録のようなものです。また、解釈はトンデモですし、眉に唾をたっぷり付けたものです。
参考として、古代中国医学は大きく四つの科目に分類され、その一つに房中と云う分類が有ります。その房中を医学生に教育する科目に関係して、大宝律令に載る医疾令では医針者の履修科目に性体位を図解する偃側等圖の研修規定が確認できます。他方、奈良時代初期までには唐初時代のポルノ小説である遊仙窟が貴族階級の男女の間で読まれており、それを踏まえた歌が大伴家持から妻である坂上大嬢に贈られたものがありますし、他にも万葉集には性行為で色々な体位を試みることを暗示する歌もありますから、状況証拠からですが房中術の医学書やそれを図解した偃側等圖は中央貴族階級には知られたものだったことは確実です。
当然、房中術は性交技術そのものですから表の歴史書には登場しません。ただ、このように日本ではこの方面について、奈良時代から現代まで各種の資料が残る特別な国の為、興味を持てば調べることが可能な幸福が有ります。
さて、1973年に前漢の馬王堆三号漢墓から多数の医学書が出土しており、その中に数種類の房中術関連の書物が含まれていました。この馬王堆漢墓は前漢時代の利蒼(不明 - 紀元前186年)とその妻子を葬る墓です。埋葬された人物から時代が特定され、馬王堆医簡書は秦王朝から前漢初頭時代の房中術関連を含む医学情報を伝える点で重要です。
秦朝から前漢時代、医学は大きく医経、経方、房中、神仙の四つに区分されています。医経は診察・診断を中心に、経方は治療・薬種を中心にするものです。房中は性行為からの滋養強壮や妊娠に係るもので、神仙は長生長寿や仙人に係るものです。馬王堆医簡書もこの四つの区分に従い、資料が残されています。今回の与太話は個人の特別の興味に合わせて、医学四分野の内、房中に絞って話を進めていきます。私のような一部の現代人もそうですが、一部の万葉人にとってもこの房中は好物です。医心方 房内の文章と万葉集の用字を丹念に比較しますと、万葉人の読書熱心が伝わって来ます。
不思議ですが、医療行為が身体に触ることや排泄物などに係ることからか、世界的に見ても近代になるまで医療者の社会的な地位は低く、伝説上の特別な医者を除いて記録に現れることもありません。日本の律令体制から点検すると、医療団を率い天皇を診察するような医博士であっても最高位は正七位下ですし、直接に施術を担当する医師でも従七位下が上限です。このように多くの律令役人の中の医務技官の立場ですから、まず、史書には記録が残りません。ただ、大陸の馬王堆、老官山、武威旱灘坡などの遺跡からの漢代初期の医簡により秦王朝時代までには中医学の基盤は整っていたことが判明し、養生・長生の観点から性戯・体位・反応などを研究する房中術は、馬王堆医簡書の内容からすると完成の域に到達していたと推定されています。
現在では性戯・体位に係るポルノ系の書籍に分類される房中術は古代では医療の中心に位置します。房中術に記載するように、中年女性の観察から、複数の若い男性と性交渉を持つ一群と男性との性交渉を持たない一群を比較すると、経験的に前者の方が若々しく長生の傾向が顕著だったようです。それで『玉房秘訣』では養生法として、伝説の女神 西王母を比喩として用い、中年女性には「好與童男交」を推薦します。同様に中年男性には養生法として彭祖の言葉「當御童女、顏色亦當如童女」を紹介します。
前漢初頭時代となる馬王堆漢墓から房中術関係の書籍の存在が確認され、その内容は現代に伝わるものとの大差はないと報告されています。すると、秦朝から前漢初頭、誰がそのような房中術を扱ったかです。ここではそれを処方した医療者・施術者に注目したいと思います。つまり、中国医療の中心の一つである房中術を誰が施術していたかです。その房中術の施術関係について、日本では奈良時代、噂話のレベルですが宮子皇太夫人と玄昉、孝謙天皇と道鏡の関係が有名です。
ここで話題とする時代を秦王朝から前漢時代初頭としますと、その当時、儒者は儒の原義である六芸:礼、楽、射、禦、書、数を扱い、前漢時代後期以降の儒家が六経:易経、書経、詩経、春秋、礼経、楽経を教授する段階ではありません。有名な『論語』もまた前漢時代中期までに編纂が終了したものですから、世には現れていません。そのため、その時代の孔子は、『墨子』、『列子』、『老子』、『荘子』、『韓非子』などの書籍に示す孔丘と云う人物として理解されています。同じように道教もまだ現代から見てその源流とされる老荘思想、黄老思想と称される時代で、荘子学派の人たちが『荘子』を編んでいる時代です。今日の人々が想う道教と道士の姿はまだありません。今日の一般人が理解する儒教、老荘思想などは話題とする時代から後となる前漢時代中期から後期に整備された書籍によります。そのゆえに秦朝成立以前の状況を示すかは不明です。このような背景があるために、秦王朝から前漢初頭の房中術関連の書物の状況を伝える馬王堆漢墓の情報は重要なのです。
今日にあっては一般に男女和合の性行為の方法論・技術論を紹介する房中術は道教道士に深く関係するものと考えられています。一方、馬王堆漢墓の発掘からするとその成熟期は前秦時代以前に遡るものと確認されましたから、道教は後漢時代以降に儒者・方術士から房中術を受け継ぎ、それを保持しただけで創作・編集の当事者ではありません。前秦時代での巫術や錬金術・不老不死の奇薬に係る方術士と漢時代以降の道教道士とは区分してください。
司馬遷が著した『史記』の「秦始皇本紀」では始皇三十五年の記事で、不老不死の奇薬の開発を行っていた侯生や盧生がその奇薬開発に失敗し始皇への罵詈雑言を吐き逃亡します。この事件を受けて咸陽宮に居住する方士を中心とする文学方術士たち諸生の言論・行動調査が行われ、始皇帝への誹謗の禁を犯した四百六十餘人を処刑しました。これが歴史で有名な「焚書坑儒」事件です。
秦王朝から前漢初頭段階では、後年の道教道士が担ったと考えられている役割を儒者が担っています。実際の事件は皇帝を誹謗した文学方術士への刑罰の「皆阬」ですが、その処罰を受けた諸生の実態から人々は「坑儒者」事件と認識したようです。そのため、「秦始皇本紀」でも始皇の長子扶蘇は「諸生皆誦法孔子」と述べたと記録します。つまり、秦王朝から前漢時代初頭の儒者という人々と方術士との区別がつかなかった実態があるようです。
およそ、孟子や荀子に代表される教育機関の研究・教育者に相当する儒学者とそれ以外の六芸の内の礼、楽を主にマナー講師のように指導する儒者とは相当に社会的な役割が違っていたようです。参考として、飛鳥・奈良時代の渡来僧侶が仏学以外にも医学・暦学・建築学などの宗教以外の専門性を持っていた姿に似たものがあります。
馬王堆医簡書に房中術関連の書物が含まれていたと紹介しましたが、『漢書』「芸文志」には房中術関連書籍として「方技略」に房中八家の書:八種類が下記のように挙げられています。これらの書名には人名を冠しており、その人名は容成や務成子を例外としますと儒教が理想とする聖人です。
容成陰道 容成(容成は黄帝の師と称し、周穆王に目通り)の陰道
務成子陰道 務成子(堯の師)の陰道
堯舜陰道 堯舜(堯・舜は聖人天子)の陰道
湯盤庚陰道 湯・盤庚(湯は殷の初代天子、盤庚は同十九代天子)の陰道
天老雑子陰道 天老(黄帝の七輔の一人)と雑子(雑多な諸子)の陰道
天一陰道 天一(天乙に同じ、湯王のこと)の陰道
黄帝三王養陽方 黄帝と三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)の養陽方
三家内房有子方 三家(三皇は天皇・地皇・人皇)の内房有子方
先に「焚書坑儒」事件で、その時代の認識では文学方術士が大きな区分では儒者と見なされたように、医療でも巫術を伴う医療者と礼や巫を扱う儒者との敷居は相当に低かったと推定されます。また、古代、識字人は限られており、同時に韓非子が指摘するように秦王朝から前漢初頭段階では学者集団は儒学と墨学とに大きく区分されていましたから、墨学が刑法・理工の実学や戦闘技術を扱うとすると礼や巫を扱う儒者がこの方面を担っていたと考えられます。このような状況があるためにネット上には医療者、特に房中術と儒者との関係を次の様に解説するものがあります。
「道徳的な印象の強い儒家において、房中術が結びつくのは儒家の「孝」の論理からである。『孟子』「離婁上篇」に「不幸に三あり。後の無きを大となす」(親不孝には三つある。そのうち子孫がないというのが最も重大な不孝である)とある。儒家は子孫が絶えることは、祖先に対する祭祀が絶えることであり、父母への孝養が尽くせなくなることを意味する。そうならないためには、子をもうけることが大切であるとされ、房中術は儒家において本来は否定されるものではないとされた。古代から現在に至る中国の人間関係と社会組織の基盤をなす宗族制においても、健全な嫡子を生むことが宗族のなお一層の繁栄につながることも房中術の存在する根拠の一つであった。
宋代になると、儒家に理学(朱子学)という新しい哲学大系が生まれ、宇宙(天)の原理と人間の本性を究明しようとした。ところがこの理学の「存天理、滅人欲」(天の理にしたがい、人の欲をなくす)の思想は、房中術を誨淫の書とみなすようになり、それまで存在した房中書の大半は散佚していった。房中術は単に快楽だけを求める淫猥な性の技巧だと誤解を受けるようになり、一般に知られる房中術は実際にそのように変化していき、世間から影を潜めた。本来の房中術は道教のいくつかの流派に秘術として受け継がれるだけになった。理学のこの思想の社会的影響は現在にまで続き、中国ではみだらな文物に対する厳しい目が存在する。」
:「房中術」(Wikipedia)抜粋
つまり、このWikipediaに寄稿した解説者は房中術の施術を儒者が行っていたと認識しています。房中術の施術はその書籍が示すように性行為の実技そのものですし、性行為の訓練方法書です。それを秦王朝から前漢初頭以前では主に儒者が巫術や滋養行為として行っていたと考えています。
春秋戦国時代、礼と楽に係る約束事について、賓客を迎えた主人は『詩経 鄭風』の「野有蔓草」の演目を宴の途中で演奏し、客はその曲が演奏されるタイミングでその夜を過ごしたい好みの女性を宴会に集う女性の中から指名すると解説します。礼と楽に係る約束事で、賓客を迎えた宴会の式次第ですから、これは儒者が扱う範疇です。儒学では厳密に儀礼を組立、それを正しく進行することを求めますし、それを礼として正しく教授します。中国医学の房中術は若い女性の愛液を薬とし、これを適切に摂取する方法を規定します。その愛液を得るため性行為を行い、その行為の中でどのような状態の女性が好ましいかを示しています。つまり、中医では性行為は滋養強壮の医療行為なのです。そのような社会理解の下、賓客を迎えての宴会が重要な外交でもあった時代、その賓客を迎える主人はそのようなことを理解した上で儒者の指導の下、夜を提供する女性を含めて、すべての事柄に対し準備万端で宴会を迎えたと考えます。
歴史から推定して、儒の六芸から儒学の六経に代わる漢時代後期までに、民衆に近い方術士・儒者は漢武帝により官学となった儒学を研究する儒学者から明確に分離され、民衆に近い関係から道教道士に吸収されていったのだろうと考えます。儒学は漢時代後期以降、古代から伝わる伝統の儒の中から雑多のものをそぎ落と、哲学・思想へと変身したと考えます。
加えて、次の時代の五胡十六国時代に仏教が道教と相互に絡み合いながら民衆に広まります。このような背景で隋・唐時代までには医療行為として仏教僧侶にも養生長生の医療行為として房中術が伝えられたと考えます。日本には玄昉・道鏡の例からすると中医 房中術は僧侶が医術として伝えています。
その後、律令体制に入ると、医疾令により医人(医生、按摩生、咒禁生、薬園生、針生)の定義と規定が出来ます。規定では医針生の技能習得科目に房中術を図解する偃側図とその体療の体得がありますから、医学治療では医針人及び医針博士が中医 房中術を担うことを規定しています。紹介した日本の律令は大唐のものを利用していますから、中国の宮廷内では医官により房中術が行われていた可能性は有ります。ただし、肝心の房中術関係書籍は唐末までには中国および半島から消滅します。
以下はおまけです。
弊ブログで紹介しましたように、唐代初頭の書物 『遊仙窟』はある種の遊郭での作法を紹介するものです。登楼、食事や遊戯、遊女を抱く時の作法などを桃仙郷での出来事かのように仮託して示します。日本にはその『遊仙窟』と時を同じくするか、それ以前に大量の房中術の書籍が医学書として到来しています。また、同時期に唐楽や高麗楽などの楽舞が伝わっています。状況証拠ですが、飛鳥・奈良時代には大陸で行われていた宴会の式次第は日本に伝わっており、それを習うように行われていたと思われます。万葉集に、大伴旅人の送別歌に見られるように大宰府に高級官僚や外国使節団に係る宴会の為の遊女が配置されていたことが確認できますから、『遊仙窟』に示す内容で賓客をもてなしていたと思われますし、大宰府や全国の国府に配置された遊女は偃側図とその体療の教育は受けていたと推定されます。
飛鳥・奈良時代の状況を確認しますと、『万葉集』の歌に大伴家持は『遊仙窟』の「少時坐睡、則夢見十娘。驚覚攬之、忽然空手」の一節からヒントを得て詠ったものがあり、貴族が詠う歌では万葉集 歌番号2949の歌の句「事計」の言葉に示すように性行為では技法を凝らして抱いて欲しいと詠う歌、万葉集 歌番号1794の歌の句「難不遇 核不所忘」のように少し逢わないと危うく貴女の女性器の形を忘れてしまうところだったと詠う歌、万葉集 歌番号2925の歌の句「乳飲哉君之 於毛求覧」は『千金方』の「陽鋒深浅、如孩兒含乳」を踏まえたような乳房への愛撫をしながらの行為を詠う歌があります。この漢字文字遊びとその背景を男女相互に贈呈歌から理解できていることからすると中央貴族にとって遊仙窟や房中術は男女共通の一定の知識だったと思われます。先に示したように律令の医療体制に房中術を習得した医針人及び医針博士が組み込まれていますし、医針人は全国国府に配置されていますから、その情報収集では困難性はなかったと思われます。
すると、日本では最初に房中術を大陸から導入し教え広めた人は誰なのかという、疑問が生まれます。『日本書紀』からすると医術の「医」の言葉が最初に現れるのが允恭天皇三年(441)の事で、次いで「医博士」の言葉が最初に現れるのは欽明天皇十四年(553)の事です。房中術の可能性を見ますと、皇極天皇の時代に体調不良であった軽皇子(後の孝徳天皇)と寵妃阿倍小足媛に房中術の施術とその実技指導を行ったと思われる中臣鎌子が相当するでしょうか。また、奈良時代中期では精神不安定や体調不良の患者とその主治医との組み合わせとして宮子皇太夫人と玄昉、孝謙天皇と道鏡の関係があります。さらに、『水鏡』によると宝亀三年に光仁天皇と井上内親王との双六遊びの懸賞品として相互に美女美男を出し、勝った懸賞品として井上内親王は山部王を得たとの記事があります。宝亀三年時点で五六歳と高齢な井上内親王が房中術に従い滋養美容の施術を行うのであれば若い男の精を摂取することは当然の処方です。
参考までに房中術では「五臟之液、要在於舌、赤松子所謂玉漿可以絶穀」と推薦するように高齢の男性は滋養のために愛液を摂取し、次いで陰茎を浸し吸収することが養陽の処方ですし、養陰に示す「西王母是養陰得道之者也」以下の解説で高齢の女性は陰に陽を迎え入れる行為と精液を摂取するのが滋養美容の要とします。このような施術法ですが実践では若い男の精液よりも若い女性の愛液を十分に得ることの方が難しい分、房中術では治療に必要な十分な愛液を得る方法を女性の体形・体質分析も含めて詳しく説明します。その説明で重要な好女判定基準に無毛または淡毛があります。中国ではすでにその関係書籍は無いはずですが、なぜか近世中国まで正妻となる女性は婚前に産毛を含めて全身脱毛術を施し、無毛とする風習があったようです。
加えて、日本では『万葉集』の柿本人麻呂と隠れ妻、『源氏物語』の光源氏と若紫、『とはず語り』の後深草院と二条の関係のように、適齢の男が女性を幼少期から手の内に置き、性的に訓練し育てる社会風習と土壌があったと思われます。その背景からか、紫式部も二条も疑問を挟むことなくそのような物語を描き、また、自身の体験を記しています。他方、日本には貴族階級の男の子には添臥という風習で射精が可能な年代になると成人扱いとし、成人式以降から熟練した年上の女性が性戯訓練を行うのが習わしです。その男の子が漢文読解に堪能なら添臥と日々、房中術に記す内容を実践的に検証することは可能です。『源氏物語』では学業優秀な光源氏と葵の上との関係、『とはず語り』では後深草院と大納言の典侍との関係が添臥に相当します。このような風習では手元に房中術の書物があり、読解できれば自己研鑽と年上の経験者による手ほどきで技能習得は可能ですので方術士のような技術指導者は不要です。こうしてみますと、奈良時代になり房中術の書籍の入手が容易になると高貴な未亡人などの特殊な状況を除き、男性貴族は添臥との自己研鑽が可能ですから房中術の術士は特段に必要なかったのでしょう。
面白ついでに、中国での日本の添臥に類似する風習を検索しましたが、現時点では確認できていません。なお、後漢時代の学者である張衡が詠う「同聲歌」を参照しますと、屋敷に部屋を与えられた女性の寝室には房中の技を解説する春宮画と思われる「列圖」があり、今、初めて屋敷の主である男性を迎えると詠います。ただ、歌で詠われる女性は、その「同聲歌」の中で「在下比匡牀」(本間)や「在上衛風霜」(茶臼のばし)などの体位を示唆し、さらに「儀態盈萬方」と語り、妾である私となら普通の形だけではない色々な行いがあると夜を誘いますから、十分に房中術の教育を受けた女性が前提となっています。中国の風習で正妻以外の妾は売買の対象ですから、ここからの類推で親が一定の年齢になった男の子にそのような訓練を受けた女性を買い与えれば日本の添臥に類似するものとなるでしょうか。
補足として、房中術に隣接するものに春画があり、この春画の歴史を調べますと、中国では唐末から宋初期までは房中術関係書籍は禁書ではなかったようです。それを反映するように漢時代に歴史を持つとされる房中術を解説する絵図である春宮画(春宮秘図)が市中にあったとされます。春宮画は春画のジャンルとなる絵図ですが、日本では明代の復刻とされる春宮秘図が残るだけで、それ以前に遡る大陸伝来の春画は無いようです。一方、平安時代初期には既に房中術の内容を反映した偃息図と称される春画の需要は有ったようで、『古今著聞集』に記事が載るように画師による互いの春画の画力についての問答記録が残ります。その後、大和絵の技術進歩に従い平安末期までに物語と春画挿絵とが融合した絵巻物『小柴垣草紙』が創作されています。それ以降、日本ではそれぞれのジャンルの絵師が技量を競い、春画を描きます。
万葉人から平安人はこのような夜の文化を前提に、万葉集を詠い、源氏物語などの文学を楽しんだと思います。
同聲歌 作者:張衡(78年 - 139年)
邂逅承際會、得充君後房。 邂逅、際會を承り、君の後房に充むを得
情好新交接、恐懍若探湯。 情好、交接は新た、恐懍は探湯の若し
不才勉自竭、賤妾職所當。 不才、自竭に勉め、賤妾、所當に職む
綢繆主中饋、奉禮助蒸嘗。 綢繆、中饋を主り、奉禮、蒸嘗を助く (主:守る)
思為莞蒻席、在下比匡牀。 思はくば莞蒻の席に為りて、下に在りては匡牀に比し
願為羅衾幬、在上衛風霜。 願はくば羅の衾幬に為りて、上に在りては風霜を衛る
灑掃清枕席、鞮芬以狄香。 灑掃して枕席を清め、鞮芬、狄香を以す
重戶結金扃、高下華燈光。 重戶して金扃を結び、高下、燈光を華す
衣解金粉御、列圖陳枕張。 衣解、金粉と御り、列圖、枕張に陳す (御:侍る、進む)
素女為我師、儀態盈萬方。 素女、我師と為り、儀態、萬方に盈つ
衆夫所希見、天老教軒皇。 衆夫、希見する所にして、天老、軒皇を教え
樂莫斯夜樂、沒齒焉可忘。 樂、斯夜の樂は莫く、沒齒にして焉ぞ忘る可し
今回も直接には万葉集とは関係ありません。現在、眺めています中国古典思想史に関係する備忘録のようなものです。また、解釈はトンデモですし、眉に唾をたっぷり付けたものです。
参考として、古代中国医学は大きく四つの科目に分類され、その一つに房中と云う分類が有ります。その房中を医学生に教育する科目に関係して、大宝律令に載る医疾令では医針者の履修科目に性体位を図解する偃側等圖の研修規定が確認できます。他方、奈良時代初期までには唐初時代のポルノ小説である遊仙窟が貴族階級の男女の間で読まれており、それを踏まえた歌が大伴家持から妻である坂上大嬢に贈られたものがありますし、他にも万葉集には性行為で色々な体位を試みることを暗示する歌もありますから、状況証拠からですが房中術の医学書やそれを図解した偃側等圖は中央貴族階級には知られたものだったことは確実です。
当然、房中術は性交技術そのものですから表の歴史書には登場しません。ただ、このように日本ではこの方面について、奈良時代から現代まで各種の資料が残る特別な国の為、興味を持てば調べることが可能な幸福が有ります。
さて、1973年に前漢の馬王堆三号漢墓から多数の医学書が出土しており、その中に数種類の房中術関連の書物が含まれていました。この馬王堆漢墓は前漢時代の利蒼(不明 - 紀元前186年)とその妻子を葬る墓です。埋葬された人物から時代が特定され、馬王堆医簡書は秦王朝から前漢初頭時代の房中術関連を含む医学情報を伝える点で重要です。
秦朝から前漢時代、医学は大きく医経、経方、房中、神仙の四つに区分されています。医経は診察・診断を中心に、経方は治療・薬種を中心にするものです。房中は性行為からの滋養強壮や妊娠に係るもので、神仙は長生長寿や仙人に係るものです。馬王堆医簡書もこの四つの区分に従い、資料が残されています。今回の与太話は個人の特別の興味に合わせて、医学四分野の内、房中に絞って話を進めていきます。私のような一部の現代人もそうですが、一部の万葉人にとってもこの房中は好物です。医心方 房内の文章と万葉集の用字を丹念に比較しますと、万葉人の読書熱心が伝わって来ます。
不思議ですが、医療行為が身体に触ることや排泄物などに係ることからか、世界的に見ても近代になるまで医療者の社会的な地位は低く、伝説上の特別な医者を除いて記録に現れることもありません。日本の律令体制から点検すると、医療団を率い天皇を診察するような医博士であっても最高位は正七位下ですし、直接に施術を担当する医師でも従七位下が上限です。このように多くの律令役人の中の医務技官の立場ですから、まず、史書には記録が残りません。ただ、大陸の馬王堆、老官山、武威旱灘坡などの遺跡からの漢代初期の医簡により秦王朝時代までには中医学の基盤は整っていたことが判明し、養生・長生の観点から性戯・体位・反応などを研究する房中術は、馬王堆医簡書の内容からすると完成の域に到達していたと推定されています。
現在では性戯・体位に係るポルノ系の書籍に分類される房中術は古代では医療の中心に位置します。房中術に記載するように、中年女性の観察から、複数の若い男性と性交渉を持つ一群と男性との性交渉を持たない一群を比較すると、経験的に前者の方が若々しく長生の傾向が顕著だったようです。それで『玉房秘訣』では養生法として、伝説の女神 西王母を比喩として用い、中年女性には「好與童男交」を推薦します。同様に中年男性には養生法として彭祖の言葉「當御童女、顏色亦當如童女」を紹介します。
前漢初頭時代となる馬王堆漢墓から房中術関係の書籍の存在が確認され、その内容は現代に伝わるものとの大差はないと報告されています。すると、秦朝から前漢初頭、誰がそのような房中術を扱ったかです。ここではそれを処方した医療者・施術者に注目したいと思います。つまり、中国医療の中心の一つである房中術を誰が施術していたかです。その房中術の施術関係について、日本では奈良時代、噂話のレベルですが宮子皇太夫人と玄昉、孝謙天皇と道鏡の関係が有名です。
ここで話題とする時代を秦王朝から前漢時代初頭としますと、その当時、儒者は儒の原義である六芸:礼、楽、射、禦、書、数を扱い、前漢時代後期以降の儒家が六経:易経、書経、詩経、春秋、礼経、楽経を教授する段階ではありません。有名な『論語』もまた前漢時代中期までに編纂が終了したものですから、世には現れていません。そのため、その時代の孔子は、『墨子』、『列子』、『老子』、『荘子』、『韓非子』などの書籍に示す孔丘と云う人物として理解されています。同じように道教もまだ現代から見てその源流とされる老荘思想、黄老思想と称される時代で、荘子学派の人たちが『荘子』を編んでいる時代です。今日の人々が想う道教と道士の姿はまだありません。今日の一般人が理解する儒教、老荘思想などは話題とする時代から後となる前漢時代中期から後期に整備された書籍によります。そのゆえに秦朝成立以前の状況を示すかは不明です。このような背景があるために、秦王朝から前漢初頭の房中術関連の書物の状況を伝える馬王堆漢墓の情報は重要なのです。
今日にあっては一般に男女和合の性行為の方法論・技術論を紹介する房中術は道教道士に深く関係するものと考えられています。一方、馬王堆漢墓の発掘からするとその成熟期は前秦時代以前に遡るものと確認されましたから、道教は後漢時代以降に儒者・方術士から房中術を受け継ぎ、それを保持しただけで創作・編集の当事者ではありません。前秦時代での巫術や錬金術・不老不死の奇薬に係る方術士と漢時代以降の道教道士とは区分してください。
司馬遷が著した『史記』の「秦始皇本紀」では始皇三十五年の記事で、不老不死の奇薬の開発を行っていた侯生や盧生がその奇薬開発に失敗し始皇への罵詈雑言を吐き逃亡します。この事件を受けて咸陽宮に居住する方士を中心とする文学方術士たち諸生の言論・行動調査が行われ、始皇帝への誹謗の禁を犯した四百六十餘人を処刑しました。これが歴史で有名な「焚書坑儒」事件です。
秦王朝から前漢初頭段階では、後年の道教道士が担ったと考えられている役割を儒者が担っています。実際の事件は皇帝を誹謗した文学方術士への刑罰の「皆阬」ですが、その処罰を受けた諸生の実態から人々は「坑儒者」事件と認識したようです。そのため、「秦始皇本紀」でも始皇の長子扶蘇は「諸生皆誦法孔子」と述べたと記録します。つまり、秦王朝から前漢時代初頭の儒者という人々と方術士との区別がつかなかった実態があるようです。
およそ、孟子や荀子に代表される教育機関の研究・教育者に相当する儒学者とそれ以外の六芸の内の礼、楽を主にマナー講師のように指導する儒者とは相当に社会的な役割が違っていたようです。参考として、飛鳥・奈良時代の渡来僧侶が仏学以外にも医学・暦学・建築学などの宗教以外の専門性を持っていた姿に似たものがあります。
馬王堆医簡書に房中術関連の書物が含まれていたと紹介しましたが、『漢書』「芸文志」には房中術関連書籍として「方技略」に房中八家の書:八種類が下記のように挙げられています。これらの書名には人名を冠しており、その人名は容成や務成子を例外としますと儒教が理想とする聖人です。
容成陰道 容成(容成は黄帝の師と称し、周穆王に目通り)の陰道
務成子陰道 務成子(堯の師)の陰道
堯舜陰道 堯舜(堯・舜は聖人天子)の陰道
湯盤庚陰道 湯・盤庚(湯は殷の初代天子、盤庚は同十九代天子)の陰道
天老雑子陰道 天老(黄帝の七輔の一人)と雑子(雑多な諸子)の陰道
天一陰道 天一(天乙に同じ、湯王のこと)の陰道
黄帝三王養陽方 黄帝と三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)の養陽方
三家内房有子方 三家(三皇は天皇・地皇・人皇)の内房有子方
先に「焚書坑儒」事件で、その時代の認識では文学方術士が大きな区分では儒者と見なされたように、医療でも巫術を伴う医療者と礼や巫を扱う儒者との敷居は相当に低かったと推定されます。また、古代、識字人は限られており、同時に韓非子が指摘するように秦王朝から前漢初頭段階では学者集団は儒学と墨学とに大きく区分されていましたから、墨学が刑法・理工の実学や戦闘技術を扱うとすると礼や巫を扱う儒者がこの方面を担っていたと考えられます。このような状況があるためにネット上には医療者、特に房中術と儒者との関係を次の様に解説するものがあります。
「道徳的な印象の強い儒家において、房中術が結びつくのは儒家の「孝」の論理からである。『孟子』「離婁上篇」に「不幸に三あり。後の無きを大となす」(親不孝には三つある。そのうち子孫がないというのが最も重大な不孝である)とある。儒家は子孫が絶えることは、祖先に対する祭祀が絶えることであり、父母への孝養が尽くせなくなることを意味する。そうならないためには、子をもうけることが大切であるとされ、房中術は儒家において本来は否定されるものではないとされた。古代から現在に至る中国の人間関係と社会組織の基盤をなす宗族制においても、健全な嫡子を生むことが宗族のなお一層の繁栄につながることも房中術の存在する根拠の一つであった。
宋代になると、儒家に理学(朱子学)という新しい哲学大系が生まれ、宇宙(天)の原理と人間の本性を究明しようとした。ところがこの理学の「存天理、滅人欲」(天の理にしたがい、人の欲をなくす)の思想は、房中術を誨淫の書とみなすようになり、それまで存在した房中書の大半は散佚していった。房中術は単に快楽だけを求める淫猥な性の技巧だと誤解を受けるようになり、一般に知られる房中術は実際にそのように変化していき、世間から影を潜めた。本来の房中術は道教のいくつかの流派に秘術として受け継がれるだけになった。理学のこの思想の社会的影響は現在にまで続き、中国ではみだらな文物に対する厳しい目が存在する。」
:「房中術」(Wikipedia)抜粋
つまり、このWikipediaに寄稿した解説者は房中術の施術を儒者が行っていたと認識しています。房中術の施術はその書籍が示すように性行為の実技そのものですし、性行為の訓練方法書です。それを秦王朝から前漢初頭以前では主に儒者が巫術や滋養行為として行っていたと考えています。
春秋戦国時代、礼と楽に係る約束事について、賓客を迎えた主人は『詩経 鄭風』の「野有蔓草」の演目を宴の途中で演奏し、客はその曲が演奏されるタイミングでその夜を過ごしたい好みの女性を宴会に集う女性の中から指名すると解説します。礼と楽に係る約束事で、賓客を迎えた宴会の式次第ですから、これは儒者が扱う範疇です。儒学では厳密に儀礼を組立、それを正しく進行することを求めますし、それを礼として正しく教授します。中国医学の房中術は若い女性の愛液を薬とし、これを適切に摂取する方法を規定します。その愛液を得るため性行為を行い、その行為の中でどのような状態の女性が好ましいかを示しています。つまり、中医では性行為は滋養強壮の医療行為なのです。そのような社会理解の下、賓客を迎えての宴会が重要な外交でもあった時代、その賓客を迎える主人はそのようなことを理解した上で儒者の指導の下、夜を提供する女性を含めて、すべての事柄に対し準備万端で宴会を迎えたと考えます。
歴史から推定して、儒の六芸から儒学の六経に代わる漢時代後期までに、民衆に近い方術士・儒者は漢武帝により官学となった儒学を研究する儒学者から明確に分離され、民衆に近い関係から道教道士に吸収されていったのだろうと考えます。儒学は漢時代後期以降、古代から伝わる伝統の儒の中から雑多のものをそぎ落と、哲学・思想へと変身したと考えます。
加えて、次の時代の五胡十六国時代に仏教が道教と相互に絡み合いながら民衆に広まります。このような背景で隋・唐時代までには医療行為として仏教僧侶にも養生長生の医療行為として房中術が伝えられたと考えます。日本には玄昉・道鏡の例からすると中医 房中術は僧侶が医術として伝えています。
その後、律令体制に入ると、医疾令により医人(医生、按摩生、咒禁生、薬園生、針生)の定義と規定が出来ます。規定では医針生の技能習得科目に房中術を図解する偃側図とその体療の体得がありますから、医学治療では医針人及び医針博士が中医 房中術を担うことを規定しています。紹介した日本の律令は大唐のものを利用していますから、中国の宮廷内では医官により房中術が行われていた可能性は有ります。ただし、肝心の房中術関係書籍は唐末までには中国および半島から消滅します。
以下はおまけです。
弊ブログで紹介しましたように、唐代初頭の書物 『遊仙窟』はある種の遊郭での作法を紹介するものです。登楼、食事や遊戯、遊女を抱く時の作法などを桃仙郷での出来事かのように仮託して示します。日本にはその『遊仙窟』と時を同じくするか、それ以前に大量の房中術の書籍が医学書として到来しています。また、同時期に唐楽や高麗楽などの楽舞が伝わっています。状況証拠ですが、飛鳥・奈良時代には大陸で行われていた宴会の式次第は日本に伝わっており、それを習うように行われていたと思われます。万葉集に、大伴旅人の送別歌に見られるように大宰府に高級官僚や外国使節団に係る宴会の為の遊女が配置されていたことが確認できますから、『遊仙窟』に示す内容で賓客をもてなしていたと思われますし、大宰府や全国の国府に配置された遊女は偃側図とその体療の教育は受けていたと推定されます。
飛鳥・奈良時代の状況を確認しますと、『万葉集』の歌に大伴家持は『遊仙窟』の「少時坐睡、則夢見十娘。驚覚攬之、忽然空手」の一節からヒントを得て詠ったものがあり、貴族が詠う歌では万葉集 歌番号2949の歌の句「事計」の言葉に示すように性行為では技法を凝らして抱いて欲しいと詠う歌、万葉集 歌番号1794の歌の句「難不遇 核不所忘」のように少し逢わないと危うく貴女の女性器の形を忘れてしまうところだったと詠う歌、万葉集 歌番号2925の歌の句「乳飲哉君之 於毛求覧」は『千金方』の「陽鋒深浅、如孩兒含乳」を踏まえたような乳房への愛撫をしながらの行為を詠う歌があります。この漢字文字遊びとその背景を男女相互に贈呈歌から理解できていることからすると中央貴族にとって遊仙窟や房中術は男女共通の一定の知識だったと思われます。先に示したように律令の医療体制に房中術を習得した医針人及び医針博士が組み込まれていますし、医針人は全国国府に配置されていますから、その情報収集では困難性はなかったと思われます。
すると、日本では最初に房中術を大陸から導入し教え広めた人は誰なのかという、疑問が生まれます。『日本書紀』からすると医術の「医」の言葉が最初に現れるのが允恭天皇三年(441)の事で、次いで「医博士」の言葉が最初に現れるのは欽明天皇十四年(553)の事です。房中術の可能性を見ますと、皇極天皇の時代に体調不良であった軽皇子(後の孝徳天皇)と寵妃阿倍小足媛に房中術の施術とその実技指導を行ったと思われる中臣鎌子が相当するでしょうか。また、奈良時代中期では精神不安定や体調不良の患者とその主治医との組み合わせとして宮子皇太夫人と玄昉、孝謙天皇と道鏡の関係があります。さらに、『水鏡』によると宝亀三年に光仁天皇と井上内親王との双六遊びの懸賞品として相互に美女美男を出し、勝った懸賞品として井上内親王は山部王を得たとの記事があります。宝亀三年時点で五六歳と高齢な井上内親王が房中術に従い滋養美容の施術を行うのであれば若い男の精を摂取することは当然の処方です。
参考までに房中術では「五臟之液、要在於舌、赤松子所謂玉漿可以絶穀」と推薦するように高齢の男性は滋養のために愛液を摂取し、次いで陰茎を浸し吸収することが養陽の処方ですし、養陰に示す「西王母是養陰得道之者也」以下の解説で高齢の女性は陰に陽を迎え入れる行為と精液を摂取するのが滋養美容の要とします。このような施術法ですが実践では若い男の精液よりも若い女性の愛液を十分に得ることの方が難しい分、房中術では治療に必要な十分な愛液を得る方法を女性の体形・体質分析も含めて詳しく説明します。その説明で重要な好女判定基準に無毛または淡毛があります。中国ではすでにその関係書籍は無いはずですが、なぜか近世中国まで正妻となる女性は婚前に産毛を含めて全身脱毛術を施し、無毛とする風習があったようです。
加えて、日本では『万葉集』の柿本人麻呂と隠れ妻、『源氏物語』の光源氏と若紫、『とはず語り』の後深草院と二条の関係のように、適齢の男が女性を幼少期から手の内に置き、性的に訓練し育てる社会風習と土壌があったと思われます。その背景からか、紫式部も二条も疑問を挟むことなくそのような物語を描き、また、自身の体験を記しています。他方、日本には貴族階級の男の子には添臥という風習で射精が可能な年代になると成人扱いとし、成人式以降から熟練した年上の女性が性戯訓練を行うのが習わしです。その男の子が漢文読解に堪能なら添臥と日々、房中術に記す内容を実践的に検証することは可能です。『源氏物語』では学業優秀な光源氏と葵の上との関係、『とはず語り』では後深草院と大納言の典侍との関係が添臥に相当します。このような風習では手元に房中術の書物があり、読解できれば自己研鑽と年上の経験者による手ほどきで技能習得は可能ですので方術士のような技術指導者は不要です。こうしてみますと、奈良時代になり房中術の書籍の入手が容易になると高貴な未亡人などの特殊な状況を除き、男性貴族は添臥との自己研鑽が可能ですから房中術の術士は特段に必要なかったのでしょう。
面白ついでに、中国での日本の添臥に類似する風習を検索しましたが、現時点では確認できていません。なお、後漢時代の学者である張衡が詠う「同聲歌」を参照しますと、屋敷に部屋を与えられた女性の寝室には房中の技を解説する春宮画と思われる「列圖」があり、今、初めて屋敷の主である男性を迎えると詠います。ただ、歌で詠われる女性は、その「同聲歌」の中で「在下比匡牀」(本間)や「在上衛風霜」(茶臼のばし)などの体位を示唆し、さらに「儀態盈萬方」と語り、妾である私となら普通の形だけではない色々な行いがあると夜を誘いますから、十分に房中術の教育を受けた女性が前提となっています。中国の風習で正妻以外の妾は売買の対象ですから、ここからの類推で親が一定の年齢になった男の子にそのような訓練を受けた女性を買い与えれば日本の添臥に類似するものとなるでしょうか。
補足として、房中術に隣接するものに春画があり、この春画の歴史を調べますと、中国では唐末から宋初期までは房中術関係書籍は禁書ではなかったようです。それを反映するように漢時代に歴史を持つとされる房中術を解説する絵図である春宮画(春宮秘図)が市中にあったとされます。春宮画は春画のジャンルとなる絵図ですが、日本では明代の復刻とされる春宮秘図が残るだけで、それ以前に遡る大陸伝来の春画は無いようです。一方、平安時代初期には既に房中術の内容を反映した偃息図と称される春画の需要は有ったようで、『古今著聞集』に記事が載るように画師による互いの春画の画力についての問答記録が残ります。その後、大和絵の技術進歩に従い平安末期までに物語と春画挿絵とが融合した絵巻物『小柴垣草紙』が創作されています。それ以降、日本ではそれぞれのジャンルの絵師が技量を競い、春画を描きます。
万葉人から平安人はこのような夜の文化を前提に、万葉集を詠い、源氏物語などの文学を楽しんだと思います。
同聲歌 作者:張衡(78年 - 139年)
邂逅承際會、得充君後房。 邂逅、際會を承り、君の後房に充むを得
情好新交接、恐懍若探湯。 情好、交接は新た、恐懍は探湯の若し
不才勉自竭、賤妾職所當。 不才、自竭に勉め、賤妾、所當に職む
綢繆主中饋、奉禮助蒸嘗。 綢繆、中饋を主り、奉禮、蒸嘗を助く (主:守る)
思為莞蒻席、在下比匡牀。 思はくば莞蒻の席に為りて、下に在りては匡牀に比し
願為羅衾幬、在上衛風霜。 願はくば羅の衾幬に為りて、上に在りては風霜を衛る
灑掃清枕席、鞮芬以狄香。 灑掃して枕席を清め、鞮芬、狄香を以す
重戶結金扃、高下華燈光。 重戶して金扃を結び、高下、燈光を華す
衣解金粉御、列圖陳枕張。 衣解、金粉と御り、列圖、枕張に陳す (御:侍る、進む)
素女為我師、儀態盈萬方。 素女、我師と為り、儀態、萬方に盈つ
衆夫所希見、天老教軒皇。 衆夫、希見する所にして、天老、軒皇を教え
樂莫斯夜樂、沒齒焉可忘。 樂、斯夜の樂は莫く、沒齒にして焉ぞ忘る可し
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