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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三三九 今週のみそひと歌を振り返る その一五九

2019年10月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三九 今週のみそひと歌を振り返る その一五九

 奈良時代 天平年間から天平勝寶年間の大伴家持の貴族社会での扱いが判る歌があります。それが次の集歌4214の長歌とその歌群です。集歌4216の短歌に添えられた左注が示すように、大伴家持の婿の南右大臣家藤原二郎とは藤原継繩を指します。
 この藤原継繩を調べますと、父親は藤原豊成で、その豊成は藤原武智麻呂の御子です。継繩の婚姻関係を調べますと判っているところで二人おり、一人が大伴旅人の娘の留女之女郎と百済王理伯の娘の百済王明信です。

集歌4214 天地之 初時従 宇都曽美能 八十伴男者 大王尓 麻都呂布物跡 定有 官尓之在者 天皇之 命恐 夷放 國乎治等 足日木 山河阻 風雲尓 言者雖通 正不遇 日之累者 思戀 氣衝居尓 玉桙之 道来人之 傳言尓 吾尓語良久 波之伎餘之 君者比来 宇良佐備弖 嘆息伊麻須 世間之 厭家口都良家苦 開花毛 時尓宇都呂布 宇都勢美毛 無常阿里家利 足千根之 御母之命 何如可毛 時之波将有乎 真鏡 見礼杼母不飽 珠緒之 惜盛尓 立霧之 失去如久 置露之 消去之如 玉藻成 靡許伊臥 逝水之 留不得常 枉言哉 人之云都流 逆言乎 人之告都流 梓弧 爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 庭多豆水 流涕 留可祢都母
訓読 天地し 初めし時ゆ 現世(うつそみ)の 八十(やそ)伴(とも)し男(を)は 大王(おほきみ)に まつろふものと 定まれる 官(つかさ)にしあれば 天皇(すめろぎ)し 命(みこと)畏(かしこ)み 鄙離る 国を治むと あしひきし 山川へだて 風雲に 言(こと)は通へど 直(ただ)に逢はず 日し重(かさな)れば 思ひ恋ひ 気衝(いきづ)き居るに 玉桙し 道来る人し 伝(つ)て言(こと)に 吾に語らく 愛(はし)きよし 君はこのころ うらさびて 嘆かひいます 世間(よのなか)し 憂けく辛(つら)けく 咲く花も 時にうつろふ 現世(うつせみ)も 常なくありけり たらちねし 御母し命 何しかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉し緒し 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく 置く露の 消ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥い伏し 行く水の 留めかねつと たはことか 人し言ひつる 逆言(およづれ)を 人し告げつる 梓弓 詰め夜音し 遠音(とほね)にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙 留めかねつも
私訳 天と地とが初めて現れた時からこの世を生きる多くの朝廷に仕える男は、大王に従うものと定まっている官人にあるので、天皇の御命令を謹んで、鄙の、都から離れた国を治めなさいと足を引く険しい山や川を都から隔てて、風や雲に乗せて話は通って来るけれど、直接にはお逢いできず、そのような日々が重なると、貴方の事を思ってお慕いし、ため息を付いて暮らしていると、立派な鉾を立てる官道を来る人が伝言として私に語るには、麗しい貴方がこのごろ気落ちして嘆いていらっしゃる、世の中に悲しいことや辛いことがあり、咲く花も時の流れに色褪せて逝き、この世の中に定まるものが無いので、心を満たしてくれる御母の命も、どうしたのでしょう、その時ではないのに、立派な鏡を眺めても飽きることが無い、美しい緒のように、惜しい命の盛りの時に、立つ霧が消え失せるように、置く露が消えるように、美しい藻のように緑の黒髪を靡かせ体を横たえ床に伏されて、流れ逝く水のように、留めることが出来なくて、狂言でしょうか、人が語ります。逆言でしょうか、人が告げます。梓弓のほのかな夜音のように、遠くに便りと聞くと悲しくて、庭を溢れるような流れる涙を留めることができません。

反謌二首
集歌4215 遠音毛 君之痛念跡 聞都礼婆 哭耳所泣 相念吾者
訓読 遠音(とほおと)も君し嘆くと聞きつれば哭(ね)のみそ泣かゆ相(あひ)念(も)ふ吾は
私訳 遠い便りに貴方が嘆いていると聞くと、声を上げて泣いてします。貴方と同じ思いを抱く私は。

集歌4216 世間之 無常事者 知良牟乎 情盡莫 大夫尓之氐
訓読 世間(よのなか)し常なきことは知るらむを情(こころ)尽くすな大夫(ますらを)にして
私訳 この世の中に定まるものが無いことはごぞんじでしょう。ひどく、お気落ちをなされるな。貴方は人の上に立つ立派な大夫なのですから。
左注 右、大伴宿祢家持、弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也。五月廿七日
注訓 右は、大伴宿祢家持の、聟(むこ)南(みなみ)右大臣(うだいじん)家(け)の藤原二郎(なかちこ)が慈母(じも)を喪(うしな)へる患(うれへ)を弔(とぶら)へり。五月廿七日

 左注の解説で、使う漢字に対する解説では「聟」は「女子之夫爲壻」と説明しますから、藤原継繩は家持の娘の夫と解釈すべきですが、家持と継繩の年齢と歌が詠われた時代を考えると「女子」は家持の娘ではないだろうとの考えがあり、そこから旅人の娘という考えが生まれて来ます。
 この女子が旅人の娘としたとき、如何に桓武天皇の時代に大伴家持が没落したかが判ります。もし、旅人の娘ですと、「留女之女郎」の肩書は親の官位からすると「留女之郎女」でなければいけませんが「女郎」です。肩書からは四位・五位級であった家持の娘扱いです。また、継繩の正妻は百済王明信とされ、留女之女郎はどこからの時点で継繩の屋敷での立場を失い実家に戻ったようです。継繩は大伴家から百済王経由の桓武天皇への伝手に乗り換えたと考えられます。
 この歌は、継繩が藤原仲麻呂時代から大伴家からそろそろ縁を切って乗り換えを始めた頃の状況を詠うもののようで、非常に気を使っているのでしょう。政治の荒波にもまれている家持の困難がこの歌に現れているのかもしれません。
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