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竹取翁と万葉集のお勉強

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持統天皇の誕生日は、延暦十六年(797)二月十三日

2009年09月23日 | 万葉集 雑記
持統天皇の誕生日は、延暦十六年(797)二月十三日

 万葉集から歴史を見ると、日本書紀や続日本紀の記事と矛盾するものがあります。それが、日本書紀では持統天皇の時代に相当する「朱鳥」の元号です。日本書紀に従った場合、天武天皇の病気平癒を祈願した朱鳥の年号は元年九月までで、朱鳥元年(686)九月に天武天皇が亡くなられて皇后である菟野皇女が称制を執ったことになっていますので、同年に持統称制元年(686)が始まります。ところが、万葉集の歌の左注に注目しますと、朱鳥の年号は万葉集 集歌50の歌の左注の「朱鳥八年十二月」まで確認できます。ここに、歴史の不思議を万葉集に見ることが出来ます。
資料:1、2、3、4、5
 一方、万葉集の左注から推測して、天武天皇の時代にはまだ元号はなかったと思われます。これは万葉集と日本書紀とで一致しますから、日本の元号は686年からの「朱鳥の元号」が公式の元号の最初のようです。そして、この朱鳥の元号の次に「天皇の謚を元号」としない元号は、701年の「大宝の元号」です。そして、この大宝の元号以降は、天皇の謚を元号としない元号が定着します。
資料:6、7、8
 つまり、万葉集や日本書紀から歴史を見ると、朱鳥九年に相当する696年頃から大宝元年の701年までの五年間に渡って、突然に元号が無くなったことになります。ところが、正式の国史である日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月に、次のような面白い記事があります。

原文
若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。除自文武天皇、訖聖武皇帝、記注不昧、余烈存焉。
訓読
若(けだ)し、夫れ襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓(注)の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。
意訳
それは瓊瓊杵尊(神武天皇)が襲山(高千穂峰)に降臨して日本国の基を開いて以降、飛鳥浄御原(天武天皇)の朝廷以前の、神代の草創の功績、過去の天皇の人民愛護の政略、それらは前史(日本紀)に著述してあり、燦然として明らかである。文武天皇より聖武皇帝までの間の歴史を記録したもの(続日本紀前編三十巻)は、不確かな記述はなく、すべての功績はここに纏まられている。

 注意事項として、続日本紀慶雲四年七月の記事からしますと持統天皇の尊称は「藤原宮御宇倭根子天皇」であって「清原御寓」ではありません。また、養老六年十二月に次のような記事があり、「浄御原宮御宇」と「藤原宮御宇」とは別な天皇であることが判ります。やはり、日本後紀巻三逸文に載る「清原御寓」を持統天皇と解釈することは出来ません。ただし、正式な学会の日本史では、正史にどのように書いてあっても日本後紀の「清原御寓」を持統天皇の尊称と解釈するのが約束です。

養老六年(722)十二月戊戌朔庚戌(13)の記事より
原文
十二月庚戌、勅奉為浄御原宮御宇天皇、造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇、釈迦像。其本願縁記、写以金泥。安置仏殿焉。
訓読
十二月の庚戌に、勅(みことのり)して浄御原宮御宇天皇(天武天皇)の為に弥勒像を造らしめ、藤原宮御宇太上天皇(持統天皇)の為に釈迦像を造らしめ、奉(たてまつ)らしめる。其の本願の縁を記し、金泥を以つて写す。仏殿に安置せしむ。

 この日本後紀巻三逸文の記事には、万葉集に示す元号が「朱鳥」から「大宝」に直接に移るように、皇位は天武天皇(清原御寓)から文武天皇へと直接に続きます。そこには、持統天皇の姿はありません。ただし、この延暦十三年の続日本紀の編纂の成果は朝廷に採用されずに、桓武天皇によって「引き続き続日本紀の編纂を行うべし」との勅命があり、その再編纂は延暦十六年二月に改定作業を完了しています。日本後紀の記事からすると、現在に繋がる日本書紀と続日本紀は、この延暦十六年二月に成った桓武天皇の改訂版続日本紀を底本とするようですから、延暦十六年二月に「持統天皇」が歴史として誕生したと考えられます。
 これらの正式の国史編纂の歴史からすると、万葉集の歌が詠われたとき、持統天皇なる天皇は存在しません。そこには懐風藻の葛野王の爵文にあるように菟野皇太后がいらっしゃるだけです。この国史の原文に従った歴史を踏まえて、専門家でない普段の私たちは万葉集を原文から楽しむ必要があると思います。

資料-1
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)けぐさ幾代までにか年の経(へ)ぬらむ
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也。

資料-2
石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄廣肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

資料-3
藤原宮之役民作謌
集歌50 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 葛原(ふぢはら)が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐(いは)走(はし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負(お)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有(な)らし
右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮

資料-4
反謌一首
集歌195 敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖交(か)へし君玉(たま)垂(たれ)の越野(をちの)を過ぎ去(ゆ)くまたも逢はめやも
右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、獻泊瀬部皇女歌也。日本紀云、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨。

資料-5
大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作謌一首
集歌416 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
訓読 百(もも)伝(づた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲(くも)隠(かく)りなむ
右、藤原宮、朱鳥元年冬十月

資料-6
明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛真人天皇 謚曰天武天皇
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草生(む)さず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて
吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。

資料-7
麻續王聞之感傷和謌
集歌24 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
訓読 現世(うつせみ)の命を惜しみ浪に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(は)む
右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。

資料-8
天皇、幸于吉野宮時御製謌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見つ
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。

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