竹取翁と万葉集のお勉強

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「額田王」は「ぬかだのきし」と読むのか

2009年09月26日 | 万葉集 雑記
「額田王」は「ぬかだのきし」と読むのか

 万葉集初期を彩る女流歌人に額田王がいます。この額田王の万葉集の歌を鑑賞する前に、額田王自身について考えてみたいと思います。
 さて、漢字表記の「額田王」は、普段の解説では「ぬかだのおほきみ」と訓読みします。ただし、本当に当時、そのように呼ばれていたかは確かではありません。また、この額田王は万葉集での表記ですが、日本書紀では十市皇女を産んだ「鏡王女額田姫王」がいて、この額田姫王が万葉集での額田王と同一人物ではないかと推定されています。参考に、万葉集の巻一 集歌7の歌では、標の「額田王歌」に対して「未詳」の注記が行われていて、普段の解説では「額田王の歌に関して、未だ明らかではない」と解釈することになっていて、「未詳」の意味合いは額田王自身に対してではないことになっています。このように額田王自身について正式に考えると、色々と不確定の問題があります。

額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳(つまびら)かならず
集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野の御草(みくさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(ほ)し念(おも)ほゆ

右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。

注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむ)がふるに曰はく「一(ある)書(ふみ)に戊申の年に比良の宮に幸(いでま)しし大御歌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯朔辛巳に、天皇、紀温湯に至る。三月戊寅朔、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日に、天皇の近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。

 ここで、以前から日本紀と日本書紀との話題を取り上げて、平安初期の桓武天皇の時代以前では朝廷の正式な正史は日本紀であって、日本書紀ではないことを続日本紀、日本後紀、万葉集の原文から説明しました。一方、万葉集での額田王を「ぬかだのおほきみ」と訓読みする重要な根拠は、日本書紀が正史であることに拠っています。日本書紀では、「○○王」と表記される人物で、明らかに新羅国王や百済国王ではない人物は、すべて皇族の後胤の関係にあります。そこから、類推して「王」の表記を皇族の尊称として「おほきみ」と読むことになります。では、「日本書紀」が正史ではなく、江戸時代以前の評価と同じような「先代舊事本紀」と同じ意味合いの私家史書であった場合は、どうなるのでしょうか。この場合は、続日本紀の記事などから「鏡王女額田姫王」は「かがみのきしのむすめのぬかだのひめきし」、「額田王」は「ぬかだのきし」と読む可能性があります。日本後紀の記事からは平安初期の段階では日本書紀が存在したかどうかは不明ですから、万葉集の目録が整備された紀貫之の時代に集歌7の歌の標の「額田王歌」に対して、その出身が不明としての「未詳」の注記が付されても不思議ではありません。
 さて、大宝律令の成立以降、皇族の敬称は宮中において皇子や皇女から、親王・内親王・王への変更がありました。では、生活レベルにおいては、飛鳥・奈良時代の人々にとっての「○○王」の呼称には、どのような意味合いがあったのでしょうか。六世の王のような皇族から離籍する「王」の立場や亡命百済王族の子孫の立場からの「○○王」の呼称の意味合いを、奈良時代末期の様子を続日本紀の記事から下記に紹介します。

 下記の確認して頂いたこれらの記事にあるように、当時、「百済王」は国王の身分を表す呼称ではなく、姓名を表す姓(かばね)と思われます。また、登美真人藤津の事例では、皇族の後胤とは関係ない「○○王」の呼称を有する「八色の姓(やくさのかばね)」の制度の外の氏族がいたために、「王」の表記だけでは単純に皇胤を意味しませんし、大和氏族の尊敬を得られないことが推定できます。そのための、藤津王たちの「登美真人」への改姓の願いです。つまり、日本の正史では「王」と表記するから「おほきみ」と一義に訓読みすることは出来ません。もし、「王」を「おほきみ」や「きみ」と訓読みする場合は、その皇族の後胤関係を明らかにしなければいけないようです。
 さらに、韓国連源の例にあるように、延暦九年二月二十七日の桓武天皇の百済王(くだらのこきし)一族を皇族に組み入れる詔の発布以降、大和氏族で由緒ある古風の姓を捨て、直接の姓の呼称で朝鮮半島出身者と氏素性を区分し明らかにする動きが出てきます。一方、百済王仁貞・元信・忠信・津連真道の例のように、同時に渡来の百済人達に対しても改姓や姓(かばね)の区分の変更が行われています。
 日本の姓の区分の根源は神話や皇統に由来しますから、延暦九年から始まり延暦十六年二月まで続く桓武天皇の国史編纂事業で、百済系の母親をもつ桓武天皇の延暦九年二月二十七日の百済王を皇族に組み入れる詔は、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。このようなとき、「額田王」をどのように訓読みを行うかは、難しい問題です。さらに、発展して日本書紀から大海人皇子の最初に娶した女性は、「鏡王女額田姫王」です。古代の男子の成人式には母方の姪や叔母の中で適齢の経験者の女性が添臥に就くことになっていますから、古代の風習からは大海人皇子の母親は百済系の渡来人である可能性が出てきます。そして、続日本紀と日本後紀からの史観から見るとき日本書紀の記事が正しいのならば、百済系の渡来人かもしれないその母親は第三十五代及び三十七代天皇です。これは、水戸藩の国文・神学者が最も嫌う姿です。
 万葉集は歴史書ではありませんが、万葉集の歌を鑑賞するのに、その万葉集と国史の原文が示す歴史は、水戸藩が監修し文部科学省が検定した、教えられている訓読みの万葉集や歴史とは違うことを踏まえて、本来の飛鳥・奈良時代を理解する必要があると思います。


続日本紀より引用資料
延暦十年(791)七月己卯(20)の記事
原文
己卯。故少納言従五位下正月王男藤津王等言、亡父存日、作請姓之表。未及上聞、奄赴泉途。其表称、臣正月、源流已遠、属籍将尽。臣男四人・女四人、雖蒙王姓、以世言之、不殊疋庶。伏望、蒙賜登美真人姓。以従諸臣之例者、請従父志、欲蒙願姓。
有勅許焉。

訓読 己卯。故少納言従五位下正月王(むつきのきみ)の男(こ)の藤津王(ふじつのきみ)等の言ひて「亡き父の存るときに日はく『姓(かばね)を請ふ表を作らむ』といへり。未だ上聞に及ばざるに、奄(にわ)かに泉途に赴(おもむ)きぬ。其の表に称して『臣(しん)正月(むつき)、源流は已(すで)に遠し。籍に属(つ)くは将に尽きなむ。臣の男(をのこ)の四人(よたり)と女(をみな)の四人(よたり)の、ただ蒙(こうむ)る王(きみ)の姓(かばね)を以つて世に之を言ふは、疋(そ)の庶(しょ)に殊(こと)ならず。伏して望む。登美真人(とみのまひと)の姓(かばね)を蒙(こうむ)りて賜(たま)はらむ』といへり。以つて諸臣(もろもろのおみ)の例(たぐひ)に従ふは、父の志に従うを請ひ、願ふ姓を蒙(こうむ)るを欲す」と申す。
勅(みことのり)有りて許す。

延暦九年(790)七月乙丑朔辛巳(17)の記事
原文
秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工頭百済王仁貞・治部少輔従五位下百済王元信・中衛少将従五位下百済王忠信・図書頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連真道等上表言、真道等本系出自百済国貴須王、貴須王者百済始興第十六世王也。夫、百済太祖都慕大王者、日神降霊、奄扶余而開国、天帝授婁惣諸韓、而称王。降及近肖古王、遥慕聖化、始聘貴国。是則神功皇后摂政之年也。其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇、命上毛野氏遠祖荒田別、使於百済捜聘有識者。国主貴須王恭奉使旨、択採宗族、遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉随使入朝。天皇嘉焉、特加寵命、以為皇太子之師矣。於是、始伝書籍。大闡儒風、文教之興、誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子亥陽君、亥陽君子午定君。午定君生三男、長子味沙・仲子辰爾・季子麻呂。従此而別始為三姓。各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。逮于他田朝御宇敏達天皇御世。高麗国遣使上鳥羽之表。群臣諸史莫之能読。而辰爾進取其表。能読巧写。詳奏表文。天皇嘉其篤学。深加賞歎。詔曰。勤乎懿哉。汝若不愛学。誰能解読。宜従今始近侍殿中。既而又詔東西諸史曰。汝等雖衆。不及辰爾。斯並国史家牒、詳載其事矣。伏惟、皇朝則天布化、稽古垂風、弘沢浹乎群方、叡政覃於品彙、故能修廃継絶。万姓仰而頼慶、正名弁物、四海帰而得宜。凡有懐生、莫不抃躍。真道等先祖、委質聖朝、年代深遠。家伝文雅之業、族掌西庠之職。真道等生逢昌運、預沐天恩。伏望。改換連姓、蒙賜朝臣。
於是、勅因居賜姓菅野朝臣。

訓読 秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工(もく)頭(かしら)百済王(くだらのこきし)仁貞・治部少輔従五位下百済王元信・中衛少将従五位下百済王忠信・図書(ずしょ)頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連(つのむらじ)真道(まみち)等が上表して言はく「真道等の本系は百済国の貴須(きす)王より出でぬ。貴須王は百済を始めて興して第十六世の王(こきし)なり。夫れ、百済の太祖都慕(つも)大王は日神の霊が降(あまも)り、扶余を奄(おほ)ひ国を開く。天帝は婁に惣く諸(もろもろ)の韓を授け王と称す。近肖古(きんしょうこ)王に降るに及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴き国を聘(と)ふ。是れ則ち神功皇后摂政の年なり。其の後に軽嶋豊明朝御宇応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命(みことのり)して、百済に使ひして識有ある者を捜し聘(と)ふ。国主貴須王の使ひの旨(おもむき)を恭(うやま)ひ奉(たてまつ)りて、宗族を択び採り、其の孫の辰孫(しんそん)王(一(あるいは)、智宗(ちそ)王と名(な)のる)を使ひの入朝に随(したが)ひて遣りぬ。天皇のこれを嘉(よみ)したまひ、特に寵命を加へ、以つて皇太子の師と為す。是より、始めて書籍を伝ふ。大いに闡(ひら)く儒の風・文教の興は、誠に此に在る。難波高津朝御宇仁徳天皇、辰孫王の長子太阿郎(たあら)王を以つて近侍と為す。太阿郎王の子亥陽君(がいようくん)、亥陽君の子午定君(ごじょうくん)。午定君は三(みつたり)の男(をのこ)を生(な)す。長子味沙(みさ)・仲子辰爾(しんに)・季子麻呂(まろ)なり。此より別れ、始めて三姓を為す。各の職の所に因りて以つて氏の命(な)となす。葛井(ふぢい)・船(ふね)・津(つ)連等は、即ち是なり。他田朝御宇敏達天皇御世に逮(およ)びて、高麗国の使ひを遣りて鳥羽の表を上(のぼ)らす。群(つど)ふ臣(まえつきみ)・諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)の之を能く読むことなし。而して辰爾の進みて其の表を取り、巧みに写し能く読みて、詳らかに表文を奏す。天皇の其の篤学を嘉(よみ)したまひて、深く賞歎を加ふ。詔(みことのり)して曰はく『勤(いそ)しむや、懿(よ)し。汝の若し学を愛(めで)ることなかりせば、誰か能く読み解かむ。宜しく今より始めて殿の中に近侍せしめむ』とのたまふ。既にしてまた詔して東西の諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)に曰はく『汝等の衆(やから)は、辰爾に及ばざる』とのたまふ。斯(ここ)に並びて国史と家牒の詳びらかに其の事を載す。伏して惟(おも)ふに、皇朝の天を則(のっと)り化を布し、稽古の風を垂れ、沢浹(たくしょう)を群方に弘め、叡政は品彙(ひんい)に覃(およ)ぶ。故(ゆえ)に能く廃を修(ととの)へ絶を継ぐ。万姓の仰ぎて慶(のり)を頼むに、弁物の名を正(ただ)し、四海は帰して宜(のり)を得む。凡そ生るを懐(おも)ふる有るは、抃躍(べんやく)せざるはなし。真道(まみち)等の先祖の、聖朝の質(もと)を委(まか)されて、年代は深遠なり。家の伝ふる文雅の業、族(うらから)の掌(つかさど)る西庠(せいしょう)の職。真道等は生きて昌運に逢ひて、天恩を沐するを預(あずか)らむ。伏して望む、連(むらじ)の姓(かばね)を改め換へて、朝臣(あそみ)を賜はることを蒙(こほむ)らん」と申す。
是において、勅(みことのり)して居るところに因りて菅野(すがの)朝臣の姓(かばね)を賜はる。

延暦九年(790)十一月癸亥朔壬申(10)の記事
原文
壬申。外従五位下韓国連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等、各因居地行事、別為百八十氏。是以、源等先祖塩児、以父祖奉使国名、故改物部連、為韓国連。然則大連苗裔。是日本旧民。今号韓国。還似三韓之新来。至於唱姓。毎驚人聴。因地賜姓、古今通典。伏望。改韓国二字。蒙賜高原。
依請許之。

訓読 壬申。外従五位下韓国連(からくのむらじ)源(みなもと)等の言はく「源等は是れ物部(もののべの)大連(おほむらじ)等の苗裔なり。夫れ物部連等は、各(おのおの)の事を行ふ居る地に因りて、百八十氏に別つ。是を以つて、源等の先祖の塩児(しおこ)、父祖の使ひし国の名を奉(たてまつ)るを以つて、故に物部連を韓国連に改めむ。然らば則ち大連の苗裔なり。是れ日本の旧(ふる)き民(たみ)なり。今、韓国と号(なず)くは、還つて三韓の新来(いまき)に似る。至りて名を唱ふるに、毎に聴く人を驚(おどろか)す。地に因りて姓(かばね)を賜はらむは、古今の典(のり)に通ず。伏して望まむ。韓国の二字を改めて、高原(たかはら)を賜(たま)はらむことを蒙(こうむ)らむ」と申す。
請ふに依り、之を許す。

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