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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百五七 歌の標題はかりそめ 山部赤人を鑑賞する。

2016年02月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五七 歌の標題はかりそめ 山部赤人を鑑賞する。

 万葉集巻六に山部赤人が詠う歌が載せられています。今回は集歌917の長歌とそれに付随する短歌を鑑賞します。
 さて、今回の題目に「歌の標題はかりそめ」とキャプションを付けました。つまり、万葉集の標題は絶対的には信用してはいけない代物であって、参考には出来るが信用は出来ないと云うことを理解しておく必要があることを説明したいからです。
 最初に歌三首を紹介しますので、鑑賞からお願い致します。

神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月五日に、紀伊國に幸(いでま)しし時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
集歌917 安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背上尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻
訓読 やすみしし 吾(わ)ご大王(おほきみ)し 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀(そひが)野(の)ゆ 背上(そがひ)に見ゆる 奥つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮(しほ)干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代(かむよ)より 然(しか)ぞ貴き 玉津島(たまつしま)山(やま)
私訳 八方を遍く承知なられる吾等の大王の永遠の宮殿として、この宮殿に土地をお仕え申し上げる雑賀野。その雑賀野の背景に見える湾奥の島(=半島)。その清き渚に風が吹くと白浪が立ち騒ぎ、潮は引くと美しい藻を刈っている。神代からこのようにこの地は貴いことです。この玉津の島山の地は。

注意 原文の「背上尓所見」は、一般に「背匕尓所見」と記し「背向(そがひ)に見ゆる」と訓みます。

反謌二首
集歌918 奥嶋 荒礒之玉藻 潮干満 伊隠去者 所念武香聞
訓読 奥つ島荒礒(ありそ)し玉藻潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば念(おも)ほえむかも
私訳 湾奥にある半島の、その荒磯の美しい藻が潮干が満ちて潮に姿を隠していくと、その潮に揺れる姿を想像するでしょう。

集歌919 若浦尓 塩満来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
訓読 若浦(わかうら)に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
私訳 若の浦に潮が満ちて来たら、干潟は姿を消し、岸辺の葦原を目指して鶴が鳴きながら飛んで行く。
右、年月不記。但、称従駕玉津嶋也。因今檢注行幸年月以載之焉。
注訓 右は、年月を記さず。但し、玉津嶋に従駕(おほみとも)すと称(い)へり。因りて、今、行幸(いでまし)の年月を檢(かむが)へ注(しる)して以ちて之を載す。


 集歌919の歌の左注にこの長短歌三首に対しての解説が載せられ、「右、年月不記」とあります。つまり、山部赤人の歌は万葉集の編纂時には記録され残されていますが、いつの作品かは不明でした。ただ、歌に「安見知之和期大王」と「玉津嶋夜麻」と詠うから、歌は山部赤人が紀伊国行幸従駕の時のものであろうと推定しています。
 山部赤人は神亀年間から天平年間初期に歌を残した人となっていますから、集歌919の歌の左注を付けた人は、そこを頼りに続日本紀の記録を辿り、神龜元年(724)甲子冬十月と云うものを得たようです。その続日本紀には次のように記します。また、この時の目的は紀伊国名草及び海部郡を訪れるのが目的であったような行幸でした。従来ですと、吉野川・紀ノ川と下り、若浦で大船に乗り換え牟婁へ向かうのが通例でした。およそ、玉津嶋または雑賀野(雑賀崎)と云う場所は旅の途中の通過地点だったのです。

神亀元年十月辛卯(5)、辛卯、天皇幸紀伊国。
神亀元年十月癸巳(7)、癸巳、行至紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮。
神亀元年十月甲午(8)、甲午、至海部郡玉津嶋頓宮。留十有余日。

 このような背景から山部赤人の歌を研究した人物は「神亀元年十月辛卯、天皇幸紀伊国」の記事から標題の「神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國」と云うものを割り出しています。ただし、問題は山部赤人が神亀元年十月以降に紀伊国を訪れていたら、この推定は崩壊します。それは標題を付けた人物も承知しており、そこで集歌919の歌の左注に「因今檢注行幸年月以載之焉」と付記します。標題は歴史書からの推定だけであって、これを信用してはいけないとしています。
 どうです、面白いでしょう。

 次に紹介する車持朝臣千年の歌は「養老七年癸亥夏五月、幸于芳野離宮」と云う標題を持つ笠朝臣金村が詠う集歌907の長歌とそれに付属する短歌五首と先に紹介した「神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國」と云う標題を持つ山部赤人が詠う集歌917の長歌とそれに付随する短歌に挟まれた作品です。また、吉野の景色を詠う歌と云うこと。車持千年は行幸従駕での作品を多く残すことから、吉野行幸への従駕でのものと目されています。ここから、この集歌913の長歌とそれに付属する短歌三首は吉野行幸への従駕のものであるとされ、さらに歌の「霧」から三月ではないだろうこと、車持千年の活躍した年代から養老七年五月の吉野行幸の時であろうと推定されています。「味凍」は「身凍」も意味するとし、吉野の三月でも「霧」と云う言葉に違和感が無ければ、神亀元年三月と云う可能性はあります。

車持朝臣千年作謌一首并短謌
標訓 車持朝臣(くるまもちのあそみ)千年(ちとし)の作れる謌一首并せて短謌
集歌913 味凍 綾丹乏敷 鳴神乃 音耳聞師 三芳野之 真木立山湯 見降者 川之瀬毎 開来者 朝霧立 夕去者 川津鳴奈辦詳 紐不解 客尓之有者 吾耳為而 清川原乎 見良久之惜蒙
訓読 身(み)凍(こほ)り あやに乏(とも)しく 鳴神(なるかみ)の 音(おと)のみ聞きし み吉野し 真木(まき)立つ山ゆ 見(み)降(お)ろせば 川し瀬ごとに 明け来れば 朝霧(あさぎり)立ち 夕(ゆふ)されば かはづ鳴くなべし 紐(ひも)解(と)かぬ 旅にしあれば 吾(あ)のみせに 清き川原を 見らくし惜しも
私訳 身を凍らせるにわか雨のおもむきの、そのモノトーンの情景に何とも云えず心がひかれる、その雷神の鳴らす雷鳴を聞くように有名な評判を聞く、その吉野の立派な木々が茂る山から見下ろすと、川の瀬毎に朝が開けてくると朝霧が立ち、夕べになるとカジカ蛙が鳴くでしょう。上着の紐を解きくつろぐこともない御幸の旅路の途中なので、(貴方がいなくて)私独りでこの清らかな川原を見るのが、残念なことです。
注意 原文の「川津鳴奈辦詳」は、一般に「川津鳴奈拜」と記し「かはづ鳴くなへ」と訓みます。

反謌一首
集歌914 瀧上乃 三船之山者 雖 思忘 時毛日毛無
訓読 瀧(たぎ)し上(へ)の三船し山は雖(しかれ)ども思ひ忘るる時も日もなし
私訳 激流の上流にある三船の山は、趣があり心を惹かれますが、私は貴方を思い忘れる時も日々もありません。

或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌915 千鳥鳴 三吉野川之 音成 止時梨二 所思君
訓読 千鳥鳴くみ吉野川し音(おと)成(な)りの止(や)む時無しに思ほゆる君
私訳 多くの鳥が鳴く美しい吉野川の轟きが止む時がないように、常に慕っている貴方です。
注意 原文の「音成」は、一般に「川音成」と記し「川音なす」と訓みます。

集歌916 茜刺 日不並二 吾戀 吉野之河乃 霧丹立乍
訓読 茜(あかね)さす日(け)並(なら)べなくに吾が恋は吉野し川の霧(きり)に立ちつつ
私訳 茜に染まる夕べの日々を重ねたわけでもないが、私の貴方への恋は、吉野の川に霧が立っている(ように行方が見えません)。
右、年月不審。但、以歌類載於此次焉。或本云、養老七年五月幸于芳野離宮之時作。
注訓 右は、年月は審(つばび)かならず。但し、歌の類(たぐひ)を以つて此の次(しだい)に載す。或る本に云はく「養老七年五月に芳野の離宮に幸(いでま)しし時に作れり」といへり。


 この歌も集歌916の歌の左注にありますように「右、年月不審」の歌です。紹介しましたように万葉集の編纂をした人物は、あくまでも、歌の内容と車持千年から「養老七年五月幸于芳野離宮」を割り出しています。当然、「或本」の編集者も同じような思考で歌は行幸でのものであり、それは養老七年五月であると推定したのではないかと云う考え方もできます。万葉集の編纂をした人物は「右、年月不審」と最初に明記しますから、行幸従駕の時のものでない可能性、神亀元年三月の可能性を否定している訳ではありません。
 ただし、車持千年の歌人としての作品は皇室に寄り添うものですから行幸従駕の作品であろうと推定することは正しいと考えます。すると、大宝元年二月から天平八年六月の間に吉野行幸は六回を数えますが、車持千年の歌人としての活躍時期から養老七年五月か、神亀元年三月のどちらかに絞られます。そこで、万葉集の編纂者は養老七年五月の笠朝臣金村が詠う歌と神龜元年十月と推定した山部赤人との歌で挟むことで、養老七年五月か神亀元年三月のどちらかであろうとして、「但、以歌類載於此次焉」と記している訳です。万葉集の編纂をした人物もまた可能性から、決めきれないということを示しています。
 なお、この思考回路は山部赤人の詠う歌を神龜元年十月の作品と推定したことが出発点ですから、これが神龜元年十月以降の歌としますと、車持千年の歌自体も不確かになる可能性はあります。さらに、車持千年の作品は皇室に寄り添うものであったとしても、次に紹介する続日本紀の旱魃時の降雨祈願のような朝廷御用のために派遣されて吉野(芳野)を訪れた可能性は否定できません。この場合、まったくに制作した時期は不明になります。

<続日本紀 降雨祈願の資料>
文武二年四月戊午、奉馬于芳野水分峰神。祈雨也。
養老元年四月丙戌、祈雨于畿内。
天平四年五月甲子、遣使者于五畿内。祈雨焉。

 参考としまして、万葉集巻六に載る笠朝臣金村の作品に付けられた標題に対して、車持千年や山部赤人の作品の左注として付けられた「右、年月不審」や「右、年月不記」と云うような注記はありません。つまり、万葉集の編纂をした人物は笠金村の作品については、その制作年月と歌が詠われた場面については確認を持っていたと思われます。つまり、今は失われた笠朝臣金村歌集はそのような記載を持って編集されていたか、または朝廷内に置かれた歌舞所などに収蔵され、確かな記録と残っていたと推定されます。制作年月を持たない車持千年や山部赤人の作品が万葉集に取られていることから、可能性としては笠金村の作品は車持千年や山部赤人の作品と同様に歌舞所などに収蔵保管されていましたが、同時に笠金村自身が編んだ笠朝臣金村歌集にも載っていたと考えるのが自然なのでしょう。このような背景が推定されるため、笠金村の作品については制作年月に揺るぎがないのでしょう。
 しかしながら、万葉集の鑑賞や万葉集の載るものから年譜を再構成する場合、笠金村の作品のものは資料に使えるであろうが、車持千年や山部赤人の作品はそのような資料には使えないであろうことを基礎的知識として認識する必要があります。

 今回は、ただ、いちゃもんだけを付けたようなものになりました。反省する次第です。

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