万葉雑記 色眼鏡 丗七 中上りの歌を鑑賞する
今回は、ブログの副題として付けてある「色眼鏡」に、少し、関係する話です。
以前に難訓歌をテーマに取り上げました。そこでは「藤原定家好み」を抜きにすれば、難訓歌なるものは無くなると極論を提示しました。その背景を思うに、鎌倉時代の有名な歌論争である判者藤原俊成の『六百番歌合』と顕昭によるその反論書である『六百番歌合陳状』を眺めると、『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本系と藤原定家の流布本系とに異同が生じている原因の一端が想像されます。鎌倉時代の歌論争の背景を眺め、藤原俊成や定家の和歌に対する態度を確認した上では、彼らや彼らの時代に関わる『万葉集』の新点を伝統の訓みとして良いのかと云う疑問と危惧を持たざるを得ません。つまり、『古今和歌集』に見られるように伝統の訓みや表記よりも調べの美しさを優先する人々と時代に新たに付けられた『万葉集』の訓みを、伝承されたものとして受け止めて良いのでしょうか。また、そのような彼らへの疑惑の目を現在の研究者は持っているのでしょうか。難訓歌でも紹介しましたが原文よりも歌を詠う時の調べの美しさを優先する姿では、本来の『万葉集』を鑑賞しているとは思えませんし、さらに彼らの好みにより姿を変えた訓読み万葉集歌をそのままに受け止めているのでは、何を鑑賞しているのかが不明になるのではないでしょうか。
さて、従来の柿本人麻呂論では注目をされてはいませんが、重要な歌があります。それが柿本人麻呂歌集に載る次の歌です。何が重要かと云うと、『万葉集』の中でただ一首だけなのですが、紹介する集歌1782の歌の中に「中上」と云う言葉が使われていることです。
与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京しても私のところへは来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
『万葉集』においても特別な「中上」と云う言葉は、『今昔物語集』に「彼、陸奥の守の中上りと云ふ事にして、北の方、娘など上せけるが」と云う文章にもあるように国守(地方官)が任期途中において上京し、業務報告を行うことを意味します。従いまして、この歌二首は柿本人麻呂研究では非常に重要な意味を持つ歌となります。
そうした時、中西進氏や伊藤博氏は共に集歌1783の歌で詠われるこの「麻呂」と呼ばれる人物について、歌が柿本人麻呂歌集に載せられていること、また、歌の詠い様などから柿本人麻呂とその恋人の間での歌ではないかと推定しています。つまり、中西進氏や伊藤博氏は、意識する、しないは別にして、歌を純粋に鑑賞すると、その帰結において柿本人麻呂は国守の立場で地方に赴任していたと考えていることになります。ここに人麻呂の身分に対する有力な仮定、国守級の官人と云うものが現れて来ます。それも集歌1782の歌から、その土地は奈良の都人にとっては冬の間は雪が積もるのが約束の地域ですから、人麻呂が赴任している場所は、九州、四国、山陽などの地域ではありません。
追加して、集歌1782の歌は晩春から初夏の季節に詠われたのであろうと想像されますが、何時とは特定できません。一方、集歌1783の歌は「貴方は中上で上京しているのに一向に私の許にやって来ない」と詠いますから、集歌1782の歌が詠われてから上京までの時間差がありますので初夏と決めつけることが出来ず、集歌1783の歌が詠われたのが何時の時期とは特定出来ません。
そこで、『万葉集』の中で国守の中上りに関係すると思われる歌を探してみました。それが次の歌二首抜粋です。
秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへて吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり
集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへて吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方が、千年と五百年を迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、巨勢部の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌
天平十年八月二十日(西暦738年10月11日)に長門守である巨曽倍對馬が右大臣橘諸兄の屋敷での宴会に参加しています。この時、巨曽倍對馬の肩書は「長門守」ですから現役の地方官と考えて良いと思います。現役の地方官である長門守巨曽倍對馬が奈良の都にいると云うことは、これは「中上」での上京ではないでしょうか。
これを前提としますと、「中上」は現在の九月下旬頃に奈良の都に上って来て、重要な農業の収穫祭である新嘗祭(旧暦十一月の卯の日)以前には任官地に帰って行ったのではないかと云う推定が現れて来ます。
状況証拠ですが、
– 集歌1782の歌の標に示す「麻呂」は柿本人麻呂であろう
– 麻呂なる人物は冬に雪が積もる地方に赴任し、中上りをした
– 中上りは現在の九月下旬頃に行われた
の三点から、柿本人麻呂は冬、雪の積もる地方から現在の九月下旬頃に飛鳥の都に上京して来たと推定が可能ではないでしょうか。
この推定条件の下、『万葉集』の中で有名な柿本人麻呂の歌を次に紹介します。
柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國より妻に別れ上り来し時の歌二首并せて短歌
集歌131 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 (一云 礒無登) 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 (一云 礒者) 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 (一云 波之伎余思 妹之手本乎) 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山
訓読 石見(いはみ)の海(み) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと (一は云はく、礒なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にぎたつ)の 荒礒(ありそ)の上に か青むす 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝(ね)し妹を (一は云はく、愛(は)しきよし 妹し手本(たもと)を) 露霜の 置きにし来れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草し 思ひ萎(しな)へに 偲(しの)ふらむ 妹し門(かど)見む 靡(ま)けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。夏草が萎えるように、私を思うと気持ちが萎なえているでしょう、その恋人の家の辺りを眺めよう。恋人への私の気持ちのように靡け、この山の木々の葉よ。
反謌二首
集歌132 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)し木(こ)し際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高い津野の山の木々の葉の間から、私が振る袖を恋人は見ただろうか。
集歌133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)し葉はみ山も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。別れて来たから。
紹介しました集歌131の長歌に「夏草之 念思奈要而(夏草が萎れるように、私を想うと気持ちが萎れて)」と詠いますから、歌が詠われた季節は夏の終わりでしょう。また、歌の句に「露霜乃 置而之来者(露や霜のようにこの地に置いてくると)」とありますから、季節としては二十四節季の内の白露以降のことと思われます。つまり、現在での九月上旬頃となります。紹介を省略しますが集歌135の長歌では「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」と詠いますから、二回目となる任期を終えての帰京では「大夫=殿上人(=従五位下以上)」に昇叙される見込みであったことが判ります。つまり、人麻呂がこれらの歌を詠った時、「大夫」より少し下の官位の地方官であったことが推測されます。一方、飛鳥浄御原令の時代ですと『日本書紀』の記事からすると国守の位は「大山=六位級」です。どうです、面白いと思いませんか。
これらの状況証拠を積み上げていきますと、柿本人麻呂はある時期に石見国守に任官し、石見国から中上りをしたと推定されます。では、いつ頃に石見国守に赴任して来たかと云うと「人丸秘密抄」に天武三年八月三日と云う伝承があります。一方、人麻呂は天武八年七月七日の宮中での七夕の宴で七夕の歌を残しています。天武三年春に石見国守に任命され、後任が天武八年春に任命されと通知が石見国にあったとしますと任期は七年~七年半となり、当時の任官期間に相当します。そうすると、行政の規定と『万葉集』の歌からの推定との辻褄は合います。
ここまでの推定をまとめますと、柿本人麻呂は天武三年春、石見国守に任命され、同年八月に石見国美濃郡小野郷に赴任しています。そして、天武五年または六年の秋に任期半ばの業務報告で上京し、雪で交通が遮断される前の天武七年初冬に石見国守の任期を終えて奈良へと帰って行ったものと思われます。その帰京に際しては大夫格の身分の内示がありましたから、何か重要ポストが用意されていたと考えられます。
『万葉集』の歌に載る言葉、律令上の規定、伝承を組み合わせると、このように天武から持統年間での柿本人麻呂の官位・官職や任官地の推定を行うことが無理なく出来ます。ところが、今なお、一般の解説では柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物となっています。そこには、ずいぶん、ギャップがあります。なぜ、このようなギャップが生じるのでしょうか。
推定しますのに一つには、一番の前提条件である集歌1782の歌の標に示す「麻呂」とは柿本人麻呂のことであろうと推定することが、従来は認められていませんでした。旧来、「古文書などの文書で確認できないものは、推論であるとしても認められない」と云うのが国学の態度でした。そのため、柿本人麻呂歌集の歌には作歌者の名前が記載されていないことから柿本人麻呂が作歌した歌ではなく、「柿本人麻呂歌集」と表記されるように「人麻呂が集めた歌の歌集」と解釈していました。今日では欧米からの文学や芸術研究方法の導入からの署名が無い作品の鑑定方法論が確立し、「古文書などの文書で確認できないものは、推論としても認められない」と云う研究態度は科学的な学問の分野からは排除されつつあります。その結果、署名が無い作品の鑑定方法論などを用いて柿本人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂本人の歌であり、一部は彼の恋人の歌であろうと推定されるようになりました。およそ、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物であると云うものの背景には、古典研究の根底を為すはずのものであり、欧米では十九世紀には既に提案されていた署名が無い作品の鑑定方法論が、日本ではなぜか、学問的に未発達・未熟であったと云うことに起因するのでしょう。
さらにギャップの一因には使用する資料の質が影響すると考えられます。以前、テクスト・テキスト論で提議しましたが、『万葉集』とは何かと云う時、ある人はテクストを使用し、ある人はテキストを使用します。当然、使う資料や基準が違えば、仮定からの帰結は違って来ます。
そこで本来なら人麻呂の身分検討のベースとなるべき集歌135の長歌の「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」の句を、色々な書籍から比べてみました。なお、ここでの比較紹介は、書籍に載せる文字の大きさ、その記事の掲載する位置などから、その扱いや編纂時の態度を個人的に判断したものです。
日本古典文学全集 小学館
ますらをと 思える我も ますらを;人並すぐれて強い男子の意。しばしば自虐的表現
新日本古典文学大系 岩波書店
ますらをと 思える我も ますらを;立派な男子
大夫跡 念有吾毛
新潮日本古典集成 新潮社
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子
伊藤博 萬葉集釋注 集英社文庫
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子
中西進 万葉集 全訳注原文付 講談社文庫
大夫と 思へるわれも 大夫;勇敢な男子のこと、後に一般的にすぐれた男子
大夫跡 念有吾毛
『万葉集』の評釈では権威のあるもの、有名なものを紹介しましたが、これらの共通する点として「大夫」の原文表記の言葉に対してそれが身分を表す言葉であるとは扱っていません。時にそれは、ある種、枕詞的な扱いなのかもしれません。
こうした時、『万葉集』には「ますらを」と発音する言葉が「大夫」の表記以外にもあります。それが「武士(集歌443など)」や「健男(集歌2354など)」と表記されるものです。言葉の意味では「勇敢な男子のこと」ですと「大夫」よりも「健男」の方が、また、「人並すぐれて強い男子の意」では「武士」の方が相応しいのではないでしょうか。しかしながら、貴族階級と指導者とを同時に意味する「大夫」の表記に対する意味合いとしては、どうでしょうか。
先の人麻呂の身分の推定の根拠に戻りますが、結局、使われるテクスト・テキストに問題があるのではないでしょうか。万葉歌の紹介で「大夫」を「大夫」と表記するものが一つ、「大夫」と「ますらを」の両表記が一つだけですから、それ以外では解釈に於いては「大夫」、「武士」、「健男」との間には区別は無いのではないでしょうか。その時、『万葉集』の歌を解釈した人には「ますらを」と発音する言葉の漢字表記には各種、別表記があると云う事実に興味が無かったと想像されますし、平安末期以降での伝統で付けられた訓み方だけに興味があったと思われます。ここにテクストとテキストの差が表れて来るのでしょう。
もし、貴方が律令体制の研究をされている人に、ある男の情報として「朝臣」、「中上り」、「石見」、「大夫」のキーワードを与えて身分と官職を想定して下さいと依頼すれば、およそ、「男は五位格の石見国守であり、倭の古豪氏族に属する」と答えると思います。そうした時、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物とは云えなくなってきます。そして、困ったことにこのキーワードは全てテキストとしての『万葉集』に柿本人麻呂に関わるものとして載るものですので、『万葉集』をテキストとして使う場合、柿本人麻呂の職業と身分は確定することになります。一方、テクストとして訓読み万葉集を万葉集の研究に使う場合は、現況が示す状態となります。
『万葉集』の時代、歌を詠う人々はその身分や立場に合わせて「大夫」、「武士」、「健男」の言葉を選定したとしますと、逆にそこに生活や社会があります。当然、『古今和歌集』や『新古今和歌集』の時代、和歌を詠う者は殿上人か、特別に許された者だけが「歌会」と云う場に登り、歌を詠うことを許されます。地下(じげ)では個人的に歌を詠ってとしても、社会的には存在しません。それが、『万葉集』以外の社会です。そこには暗黙の身分の制限があり、歌の対象となる人物の身分を歌に表す必要はありません。ところが、『万葉集』の時代は違います。上は天皇から、下は庶民までに渡っており、時にその身分を歌に表す必要がありますし、「大夫」は官職での身分であって生来与えられた身分ではありません。良民に所属する人ならば能力さえあれば獲得できる官職階級です。平安時代とは違います。この違いを鑑賞の前提にする必要があります。当然、「大夫」、「武士」、「健男」の言葉に込められた職分や階級、所属する氏族、身分や年齢などは違います。これらの言葉は、発音は同じですが表記が違うように意味合いは同じではありません。それが『万葉集』の歌の特徴です。
『万葉集』、『古今和歌集』や『新古今和歌集』では、それぞれテキスト原文での歌の表記方法は違います。一方、今日のアカデミーで使うテクストにおいては、それぞれは統一された「漢字ひらかな交じり」の文体で歌を紹介し、それを研究・鑑賞のベースとします。
以前に紹介しましたが「吾妹子」と「吾妹兒」とにおいて意味するものが違うのですと、柿本人麻呂の家族構成を推定することが可能です。しかし、もしテクストとしてすべて統一して「わぎもこ」と解釈するのですと、『万葉集』はなにも語りません。御存知のように、「言」や「事」は「こと」に統一し、「吾妹子」や「吾妹兒」は「わぎもこ」に統一して解釈します。それが近代文学での「訓読み万葉集」の成果です。そして、柿本人麻呂は永遠の謎の人物となります。
今回は、ブログの副題として付けてある「色眼鏡」に、少し、関係する話です。
以前に難訓歌をテーマに取り上げました。そこでは「藤原定家好み」を抜きにすれば、難訓歌なるものは無くなると極論を提示しました。その背景を思うに、鎌倉時代の有名な歌論争である判者藤原俊成の『六百番歌合』と顕昭によるその反論書である『六百番歌合陳状』を眺めると、『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本系と藤原定家の流布本系とに異同が生じている原因の一端が想像されます。鎌倉時代の歌論争の背景を眺め、藤原俊成や定家の和歌に対する態度を確認した上では、彼らや彼らの時代に関わる『万葉集』の新点を伝統の訓みとして良いのかと云う疑問と危惧を持たざるを得ません。つまり、『古今和歌集』に見られるように伝統の訓みや表記よりも調べの美しさを優先する人々と時代に新たに付けられた『万葉集』の訓みを、伝承されたものとして受け止めて良いのでしょうか。また、そのような彼らへの疑惑の目を現在の研究者は持っているのでしょうか。難訓歌でも紹介しましたが原文よりも歌を詠う時の調べの美しさを優先する姿では、本来の『万葉集』を鑑賞しているとは思えませんし、さらに彼らの好みにより姿を変えた訓読み万葉集歌をそのままに受け止めているのでは、何を鑑賞しているのかが不明になるのではないでしょうか。
さて、従来の柿本人麻呂論では注目をされてはいませんが、重要な歌があります。それが柿本人麻呂歌集に載る次の歌です。何が重要かと云うと、『万葉集』の中でただ一首だけなのですが、紹介する集歌1782の歌の中に「中上」と云う言葉が使われていることです。
与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京しても私のところへは来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
『万葉集』においても特別な「中上」と云う言葉は、『今昔物語集』に「彼、陸奥の守の中上りと云ふ事にして、北の方、娘など上せけるが」と云う文章にもあるように国守(地方官)が任期途中において上京し、業務報告を行うことを意味します。従いまして、この歌二首は柿本人麻呂研究では非常に重要な意味を持つ歌となります。
そうした時、中西進氏や伊藤博氏は共に集歌1783の歌で詠われるこの「麻呂」と呼ばれる人物について、歌が柿本人麻呂歌集に載せられていること、また、歌の詠い様などから柿本人麻呂とその恋人の間での歌ではないかと推定しています。つまり、中西進氏や伊藤博氏は、意識する、しないは別にして、歌を純粋に鑑賞すると、その帰結において柿本人麻呂は国守の立場で地方に赴任していたと考えていることになります。ここに人麻呂の身分に対する有力な仮定、国守級の官人と云うものが現れて来ます。それも集歌1782の歌から、その土地は奈良の都人にとっては冬の間は雪が積もるのが約束の地域ですから、人麻呂が赴任している場所は、九州、四国、山陽などの地域ではありません。
追加して、集歌1782の歌は晩春から初夏の季節に詠われたのであろうと想像されますが、何時とは特定できません。一方、集歌1783の歌は「貴方は中上で上京しているのに一向に私の許にやって来ない」と詠いますから、集歌1782の歌が詠われてから上京までの時間差がありますので初夏と決めつけることが出来ず、集歌1783の歌が詠われたのが何時の時期とは特定出来ません。
そこで、『万葉集』の中で国守の中上りに関係すると思われる歌を探してみました。それが次の歌二首抜粋です。
秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへて吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり
集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへて吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方が、千年と五百年を迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、巨勢部の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌
天平十年八月二十日(西暦738年10月11日)に長門守である巨曽倍對馬が右大臣橘諸兄の屋敷での宴会に参加しています。この時、巨曽倍對馬の肩書は「長門守」ですから現役の地方官と考えて良いと思います。現役の地方官である長門守巨曽倍對馬が奈良の都にいると云うことは、これは「中上」での上京ではないでしょうか。
これを前提としますと、「中上」は現在の九月下旬頃に奈良の都に上って来て、重要な農業の収穫祭である新嘗祭(旧暦十一月の卯の日)以前には任官地に帰って行ったのではないかと云う推定が現れて来ます。
状況証拠ですが、
– 集歌1782の歌の標に示す「麻呂」は柿本人麻呂であろう
– 麻呂なる人物は冬に雪が積もる地方に赴任し、中上りをした
– 中上りは現在の九月下旬頃に行われた
の三点から、柿本人麻呂は冬、雪の積もる地方から現在の九月下旬頃に飛鳥の都に上京して来たと推定が可能ではないでしょうか。
この推定条件の下、『万葉集』の中で有名な柿本人麻呂の歌を次に紹介します。
柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國より妻に別れ上り来し時の歌二首并せて短歌
集歌131 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 (一云 礒無登) 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 (一云 礒者) 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 (一云 波之伎余思 妹之手本乎) 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山
訓読 石見(いはみ)の海(み) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと (一は云はく、礒なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にぎたつ)の 荒礒(ありそ)の上に か青むす 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝(ね)し妹を (一は云はく、愛(は)しきよし 妹し手本(たもと)を) 露霜の 置きにし来れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草し 思ひ萎(しな)へに 偲(しの)ふらむ 妹し門(かど)見む 靡(ま)けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。夏草が萎えるように、私を思うと気持ちが萎なえているでしょう、その恋人の家の辺りを眺めよう。恋人への私の気持ちのように靡け、この山の木々の葉よ。
反謌二首
集歌132 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)し木(こ)し際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高い津野の山の木々の葉の間から、私が振る袖を恋人は見ただろうか。
集歌133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)し葉はみ山も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。別れて来たから。
紹介しました集歌131の長歌に「夏草之 念思奈要而(夏草が萎れるように、私を想うと気持ちが萎れて)」と詠いますから、歌が詠われた季節は夏の終わりでしょう。また、歌の句に「露霜乃 置而之来者(露や霜のようにこの地に置いてくると)」とありますから、季節としては二十四節季の内の白露以降のことと思われます。つまり、現在での九月上旬頃となります。紹介を省略しますが集歌135の長歌では「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」と詠いますから、二回目となる任期を終えての帰京では「大夫=殿上人(=従五位下以上)」に昇叙される見込みであったことが判ります。つまり、人麻呂がこれらの歌を詠った時、「大夫」より少し下の官位の地方官であったことが推測されます。一方、飛鳥浄御原令の時代ですと『日本書紀』の記事からすると国守の位は「大山=六位級」です。どうです、面白いと思いませんか。
これらの状況証拠を積み上げていきますと、柿本人麻呂はある時期に石見国守に任官し、石見国から中上りをしたと推定されます。では、いつ頃に石見国守に赴任して来たかと云うと「人丸秘密抄」に天武三年八月三日と云う伝承があります。一方、人麻呂は天武八年七月七日の宮中での七夕の宴で七夕の歌を残しています。天武三年春に石見国守に任命され、後任が天武八年春に任命されと通知が石見国にあったとしますと任期は七年~七年半となり、当時の任官期間に相当します。そうすると、行政の規定と『万葉集』の歌からの推定との辻褄は合います。
ここまでの推定をまとめますと、柿本人麻呂は天武三年春、石見国守に任命され、同年八月に石見国美濃郡小野郷に赴任しています。そして、天武五年または六年の秋に任期半ばの業務報告で上京し、雪で交通が遮断される前の天武七年初冬に石見国守の任期を終えて奈良へと帰って行ったものと思われます。その帰京に際しては大夫格の身分の内示がありましたから、何か重要ポストが用意されていたと考えられます。
『万葉集』の歌に載る言葉、律令上の規定、伝承を組み合わせると、このように天武から持統年間での柿本人麻呂の官位・官職や任官地の推定を行うことが無理なく出来ます。ところが、今なお、一般の解説では柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物となっています。そこには、ずいぶん、ギャップがあります。なぜ、このようなギャップが生じるのでしょうか。
推定しますのに一つには、一番の前提条件である集歌1782の歌の標に示す「麻呂」とは柿本人麻呂のことであろうと推定することが、従来は認められていませんでした。旧来、「古文書などの文書で確認できないものは、推論であるとしても認められない」と云うのが国学の態度でした。そのため、柿本人麻呂歌集の歌には作歌者の名前が記載されていないことから柿本人麻呂が作歌した歌ではなく、「柿本人麻呂歌集」と表記されるように「人麻呂が集めた歌の歌集」と解釈していました。今日では欧米からの文学や芸術研究方法の導入からの署名が無い作品の鑑定方法論が確立し、「古文書などの文書で確認できないものは、推論としても認められない」と云う研究態度は科学的な学問の分野からは排除されつつあります。その結果、署名が無い作品の鑑定方法論などを用いて柿本人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂本人の歌であり、一部は彼の恋人の歌であろうと推定されるようになりました。およそ、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物であると云うものの背景には、古典研究の根底を為すはずのものであり、欧米では十九世紀には既に提案されていた署名が無い作品の鑑定方法論が、日本ではなぜか、学問的に未発達・未熟であったと云うことに起因するのでしょう。
さらにギャップの一因には使用する資料の質が影響すると考えられます。以前、テクスト・テキスト論で提議しましたが、『万葉集』とは何かと云う時、ある人はテクストを使用し、ある人はテキストを使用します。当然、使う資料や基準が違えば、仮定からの帰結は違って来ます。
そこで本来なら人麻呂の身分検討のベースとなるべき集歌135の長歌の「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」の句を、色々な書籍から比べてみました。なお、ここでの比較紹介は、書籍に載せる文字の大きさ、その記事の掲載する位置などから、その扱いや編纂時の態度を個人的に判断したものです。
日本古典文学全集 小学館
ますらをと 思える我も ますらを;人並すぐれて強い男子の意。しばしば自虐的表現
新日本古典文学大系 岩波書店
ますらをと 思える我も ますらを;立派な男子
大夫跡 念有吾毛
新潮日本古典集成 新潮社
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子
伊藤博 萬葉集釋注 集英社文庫
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子
中西進 万葉集 全訳注原文付 講談社文庫
大夫と 思へるわれも 大夫;勇敢な男子のこと、後に一般的にすぐれた男子
大夫跡 念有吾毛
『万葉集』の評釈では権威のあるもの、有名なものを紹介しましたが、これらの共通する点として「大夫」の原文表記の言葉に対してそれが身分を表す言葉であるとは扱っていません。時にそれは、ある種、枕詞的な扱いなのかもしれません。
こうした時、『万葉集』には「ますらを」と発音する言葉が「大夫」の表記以外にもあります。それが「武士(集歌443など)」や「健男(集歌2354など)」と表記されるものです。言葉の意味では「勇敢な男子のこと」ですと「大夫」よりも「健男」の方が、また、「人並すぐれて強い男子の意」では「武士」の方が相応しいのではないでしょうか。しかしながら、貴族階級と指導者とを同時に意味する「大夫」の表記に対する意味合いとしては、どうでしょうか。
先の人麻呂の身分の推定の根拠に戻りますが、結局、使われるテクスト・テキストに問題があるのではないでしょうか。万葉歌の紹介で「大夫」を「大夫」と表記するものが一つ、「大夫」と「ますらを」の両表記が一つだけですから、それ以外では解釈に於いては「大夫」、「武士」、「健男」との間には区別は無いのではないでしょうか。その時、『万葉集』の歌を解釈した人には「ますらを」と発音する言葉の漢字表記には各種、別表記があると云う事実に興味が無かったと想像されますし、平安末期以降での伝統で付けられた訓み方だけに興味があったと思われます。ここにテクストとテキストの差が表れて来るのでしょう。
もし、貴方が律令体制の研究をされている人に、ある男の情報として「朝臣」、「中上り」、「石見」、「大夫」のキーワードを与えて身分と官職を想定して下さいと依頼すれば、およそ、「男は五位格の石見国守であり、倭の古豪氏族に属する」と答えると思います。そうした時、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物とは云えなくなってきます。そして、困ったことにこのキーワードは全てテキストとしての『万葉集』に柿本人麻呂に関わるものとして載るものですので、『万葉集』をテキストとして使う場合、柿本人麻呂の職業と身分は確定することになります。一方、テクストとして訓読み万葉集を万葉集の研究に使う場合は、現況が示す状態となります。
『万葉集』の時代、歌を詠う人々はその身分や立場に合わせて「大夫」、「武士」、「健男」の言葉を選定したとしますと、逆にそこに生活や社会があります。当然、『古今和歌集』や『新古今和歌集』の時代、和歌を詠う者は殿上人か、特別に許された者だけが「歌会」と云う場に登り、歌を詠うことを許されます。地下(じげ)では個人的に歌を詠ってとしても、社会的には存在しません。それが、『万葉集』以外の社会です。そこには暗黙の身分の制限があり、歌の対象となる人物の身分を歌に表す必要はありません。ところが、『万葉集』の時代は違います。上は天皇から、下は庶民までに渡っており、時にその身分を歌に表す必要がありますし、「大夫」は官職での身分であって生来与えられた身分ではありません。良民に所属する人ならば能力さえあれば獲得できる官職階級です。平安時代とは違います。この違いを鑑賞の前提にする必要があります。当然、「大夫」、「武士」、「健男」の言葉に込められた職分や階級、所属する氏族、身分や年齢などは違います。これらの言葉は、発音は同じですが表記が違うように意味合いは同じではありません。それが『万葉集』の歌の特徴です。
『万葉集』、『古今和歌集』や『新古今和歌集』では、それぞれテキスト原文での歌の表記方法は違います。一方、今日のアカデミーで使うテクストにおいては、それぞれは統一された「漢字ひらかな交じり」の文体で歌を紹介し、それを研究・鑑賞のベースとします。
以前に紹介しましたが「吾妹子」と「吾妹兒」とにおいて意味するものが違うのですと、柿本人麻呂の家族構成を推定することが可能です。しかし、もしテクストとしてすべて統一して「わぎもこ」と解釈するのですと、『万葉集』はなにも語りません。御存知のように、「言」や「事」は「こと」に統一し、「吾妹子」や「吾妹兒」は「わぎもこ」に統一して解釈します。それが近代文学での「訓読み万葉集」の成果です。そして、柿本人麻呂は永遠の謎の人物となります。
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