7日に関根名人記念館で指された第47期女流名人戦五番勝負第三局。
加藤桃子女流三段の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。手順は異なりましたが①-Aで4筋に銀が向い合う形になりました。
第1図が大きな分岐になったようです。
先手は☗4六銀と引いて角筋を通しました。後手は☖5五歩で阻止。そこから☗2四飛☖同歩と飛車角交換をして☗4二角。後手は☖5二飛と角に当てて逃げ☗3一角成に☖4四歩。☗2一馬☖4五歩の桂交換に進展。
第2図は先手は馬を作り後手は銀取りで手番を握っているのが主張。ただ玉の安全度が後手の方が格段に高いため,この分かれは後手に分がありました。
第1図ではすぐに☗2四飛☖同歩☗4二角と進め,☖5二飛なら角を逃げずに☗6四銀として,☖4二飛と角を取ったら☗6三銀成☖同銀☗5三桂成と強襲するのがよかったようです。
里見名人が3連勝で防衛。第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期,46期に続き12連覇となる通算12期目の女流名人です。
神Deusの広大無辺性がこの上なく積極的であるとデカルトRené Descartesがいうとき,おそらくデカルトは,神の広大無辺性が最高に積極的であるということをいおうとしていると僕は思います。ただデカルトが第四答弁の中でこのことをいっていることの主旨は異なります。デカルトは第一答弁の中で,自己由来性を積極的に解してはならず.単に起成原因causa efficiensを有さないという消極的な意味に解さなければならないとカテルスJohannes Caterusが主張したのに対し,自己原因causa suiという語句を使ってまで,自己由来性を積極的に解してもよいといっていました。デカルトはここでその理由を示したいのです。要するに,デカルトにとって神の広大無辺性は,神が起成原因を有さずに存在する理由であったのですが,その広大無辺性は最高に積極的なものであるがゆえに,自己由来性も積極的に解するべきなのだとデカルトはいいたいのです。つまり,神は起成原因を有さないがゆえに消極的であるわけではなく,神が起成原因を有さない理由は積極的であるといってるのです。たぶんこの部分が,自己原因論争といわれる論争の中心となっているのですが,これについては後で説明することとして,第四答弁の続きを先に検討します。
次にデカルトは,この積極的なものがどのようなものであるのかということは,人間には認識するcognoscereことができないという意味のことをいっています。どういうことかというと,神の広大無辺性が積極的なものであるというのは,神のうちで積極的であるのであって,そのゆえにこの積極的なものは,神以外のいかなる事物にとっても認識することが不可能だということです。要はこの積極性は神だけが認識することができる積極性なのですから,人間には認識することができない積極性だとデカルトはいっているのです。そしてこのことをアルノーAntoine Amauldも否定することはないだろうといっています。これにアルノーが同意するのかどうかは分かりませんが,アルノーにとって自己原因論争そのものの中では些細な事柄であったのではないかと僕は推測します。
最後にデカルトは,アルノーが主張している別個性条件,とくに原因と結果effectusの間に要請されるとアルノーが考える,時間の制約について言及しています。
加藤桃子女流三段の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。手順は異なりましたが①-Aで4筋に銀が向い合う形になりました。
第1図が大きな分岐になったようです。
先手は☗4六銀と引いて角筋を通しました。後手は☖5五歩で阻止。そこから☗2四飛☖同歩と飛車角交換をして☗4二角。後手は☖5二飛と角に当てて逃げ☗3一角成に☖4四歩。☗2一馬☖4五歩の桂交換に進展。
第2図は先手は馬を作り後手は銀取りで手番を握っているのが主張。ただ玉の安全度が後手の方が格段に高いため,この分かれは後手に分がありました。
第1図ではすぐに☗2四飛☖同歩☗4二角と進め,☖5二飛なら角を逃げずに☗6四銀として,☖4二飛と角を取ったら☗6三銀成☖同銀☗5三桂成と強襲するのがよかったようです。
里見名人が3連勝で防衛。第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期,46期に続き12連覇となる通算12期目の女流名人です。
神Deusの広大無辺性がこの上なく積極的であるとデカルトRené Descartesがいうとき,おそらくデカルトは,神の広大無辺性が最高に積極的であるということをいおうとしていると僕は思います。ただデカルトが第四答弁の中でこのことをいっていることの主旨は異なります。デカルトは第一答弁の中で,自己由来性を積極的に解してはならず.単に起成原因causa efficiensを有さないという消極的な意味に解さなければならないとカテルスJohannes Caterusが主張したのに対し,自己原因causa suiという語句を使ってまで,自己由来性を積極的に解してもよいといっていました。デカルトはここでその理由を示したいのです。要するに,デカルトにとって神の広大無辺性は,神が起成原因を有さずに存在する理由であったのですが,その広大無辺性は最高に積極的なものであるがゆえに,自己由来性も積極的に解するべきなのだとデカルトはいいたいのです。つまり,神は起成原因を有さないがゆえに消極的であるわけではなく,神が起成原因を有さない理由は積極的であるといってるのです。たぶんこの部分が,自己原因論争といわれる論争の中心となっているのですが,これについては後で説明することとして,第四答弁の続きを先に検討します。
次にデカルトは,この積極的なものがどのようなものであるのかということは,人間には認識するcognoscereことができないという意味のことをいっています。どういうことかというと,神の広大無辺性が積極的なものであるというのは,神のうちで積極的であるのであって,そのゆえにこの積極的なものは,神以外のいかなる事物にとっても認識することが不可能だということです。要はこの積極性は神だけが認識することができる積極性なのですから,人間には認識することができない積極性だとデカルトはいっているのです。そしてこのことをアルノーAntoine Amauldも否定することはないだろうといっています。これにアルノーが同意するのかどうかは分かりませんが,アルノーにとって自己原因論争そのものの中では些細な事柄であったのではないかと僕は推測します。
最後にデカルトは,アルノーが主張している別個性条件,とくに原因と結果effectusの間に要請されるとアルノーが考える,時間の制約について言及しています。
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