スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

身体の統御&第三部定理一七

2018-03-24 19:00:06 | 哲学
 人間の能動と受動が,精神mensにあっても身体corpusにおいても一律であるということ,すなわち精神が能動的であるときには身体も能動的であり,逆に身体が能動的であるなら精神も能動的なのであり,精神が受動的であるときには身体も受動的で,身体が受動的であるときには精神も受動的であるということは,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつと直結します。それは,人間の精神mens humanaは自分の身体を何らかの運動motusや静止quiesに決定することはできないし,人間の身体が自分の精神を何らかの思惟作用に決定することはできないということです。これは第三部定理二でいわれていることです。
                                
 これを知性の失敗と絡めて考える場合には,身体が精神を思惟作用に決定できないということはあまり考える必要はありません。理性と感情の関係についてみたように,知性が犯す失敗は,デカルトの哲学と関連付けられた,理性ratioによって感情affectusを統御することが可能であるとする見解opinioが誤りであるという点と関連するのですが,これは身体が精神を統御するという側面からいわれるのではなく,精神による身体の統御という面から語られる事柄であるからです。つまり端的にいうと,デカルトの哲学では精神が身体を統御することが可能であるということが前提としてあり,そのことが道徳律の基本となっているのですが,スピノザの哲学ではそもそもその前提が成立しないのですから,デカルトが示しているような道徳律は,人間に対して不可能なことを求めているということになるのです。ですからデカルトの道徳律を人間に対して要求する知性があるなら,この知性はすでに失敗を犯していることになります。
 精神が身体を統御することが可能であるなら,精神が能動的に身体に対して働きかけ,身体は精神に命ぜられるままに働きを受けるpatiのでなければなりません。すなわち精神が能動actio状態にあるときに身体は受動passio状態にあるのでなければなりません。ところが精神の能動actio Mentisは身体の能動でもあるのですから,これは不条理です。つまり精神は身体を統御することはできません。このことを前提とした別の道徳律が求められなければならないのです。

 また本題から逸れますが,この部分の考察は,なぜ僕が岩波文庫版の訳語に従わず,自己嫌悪humilitasという訳を与えているのかを説明する絶好の例になりますので,このことについて詳しい説明を付与します。
 まず,僕が反対感情相反する感情を厳密に使い分けているという点に注意してください。すなわち,僕は反対感情を概念notioの上で反対である感情affectusとみなします。第三部諸感情の定義二の喜びlaetitiaと第三部諸感情の定義三の悲しみtristitia,第三部諸感情の定義六の愛amorと第三部諸感情の定義七の憎しみodium,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaと第三部諸感情の定義二九の自卑abjectioなどは,各々の定義Definitioから明らかなように,僕がいう反対感情を構成します。
 これに対して僕が相反する感情という場合は,同一の人間のうちで両立することが不可能な感情を意味します。これは反対感情の場合にも成立します。たとえばAに対する愛とAに対する憎しみは同じ人間のうちでは両立し得ません。
 ただしこのことについては注意も必要です。第三部定理一七では次のようにいわれるからです。
 「我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が,等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合,我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう」。
 この定理Propositioによれば,XがAという人間に一定量の悲しみを与え,YがAにそれと同量の喜びを与えるとき,XとYに類似点があるとAが表象するimaginariなら,AはXを憎みかつ愛することになります。したがってこの限りにおいて,Aの中でXに対する愛とXに対する憎しみが両立しているということになるでしょう。しかし実際にはそれらは両立しているということはできません。この状態は心情の動揺animi fluctuatioといわれる状態であるからです。よって逆にいえば,Aのうちで心情の動揺を発生させるふたつの感情は,相反する感情であるといえます。ですからXに対する愛とXに対する憎しみは,すべての人間にとって相反する感情であることになります。
 しかし,相反する感情は,必ずしも反対感情の間でのみ生じるとは限りませんし,反対感情が必ず相反する感情であるわけでもありません。

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