昨日の第12期女流王座戦五番勝負第三局。
里見香奈女流王座の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流三段が居飛車穴熊にして,その間に先手が4筋に飛車を回って仕掛ける展開になりました。一方的に攻められるような形でどうなのかとも思いますが,固く組むことはできましたので,悪いわけではないでしょう。
5筋の歩を突き捨てた先手はここで☗4四歩と打ちました。そこで☖3三金寄と逃げましたが,これが悪手だったようです。先手は☗2五桂と打ち☖2三金寄に☗4五飛と浮きます。
☖3三金寄としたところで,おそらく後手はここまでは読んでいて,この手は☗8五飛の狙いでそれは☖8二歩で大丈夫とみていたのでしょう。☖7九角成としました。
ところがここでは飛車を回るのではなく☗5三歩と打つ手がありました。
これが☗5二歩成から☗4三歩成を狙う厳しい手で,どうしても後手の駒損が確定することになりました。以下は先手が一方的に押し切りましたので,☖3三金寄のところでは☖5三金と逃げるほかなかったようです。。
里見女流王座が勝って2勝1敗。第四局は20日に指される予定です。
僕たちはデカルトのオペレーションシステムによって考えることを習わしとしています。スピノザのオペレーションシステムは,デカルトのオペレーションシステムの下にあるわけではなく,またそれをアップデートしたもの,つまりその上にあるものでもありません。そしてスピノザの思想は,スピノザのオペレーションシステム,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムに支えられています。僕たちはそうしたオペレーションシステムの下で物事を考えることを習慣としていません。ですから,スピノザの何らかの思想を対象として考察するというときに,そのオペレーションシステムの基幹部分に回帰するということは,デカルトのオペレーションシステムの下で考えるということ,考えてしまうということを回避するために重要なのです。このために,スピノザの思想の形而上学的部分を重視する僕は,その部分の復習をする機会が多くなるという一面があります。すなわちこれは,スピノザの形而上学的部分を重視するがゆえのことであって,一般に基礎部分を復習するということが重要であるということとは別の理由です。なので,確かに僕はそうした復習をする機会が多くなっていますが,それはスピノザの哲学を考察の対象としているがゆえの,特殊的な事情であるという側面もあります。
こうしたことはスピノザの形而上学的部分を考察の対象とする場合には往々にして生じることです。たとえば『スピノザの形而上学』は,文字通りにスピノザの形而上学を対象とした探求です。この論文集には本論のほかに付論も含まれていて,その付論の中には,単にスピノザの形而上学を探求するというよりも,スピノザの形而上学をアップグレードしていくような,きわめて難解な論考も含まれています。しかしそうした論考の中でも,著者である松田は,スピノザの形而上学的部分に関しては,その基礎的な部分から考察しています。これはたぶん松田もスピノザの形而上学を探求する場合の特殊的な事情を十分に理解しているからだと推測されます。異なったオペレーションシステムの下で考えるということは,簡単なことではないのです。
里見香奈女流王座の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流三段が居飛車穴熊にして,その間に先手が4筋に飛車を回って仕掛ける展開になりました。一方的に攻められるような形でどうなのかとも思いますが,固く組むことはできましたので,悪いわけではないでしょう。
5筋の歩を突き捨てた先手はここで☗4四歩と打ちました。そこで☖3三金寄と逃げましたが,これが悪手だったようです。先手は☗2五桂と打ち☖2三金寄に☗4五飛と浮きます。
☖3三金寄としたところで,おそらく後手はここまでは読んでいて,この手は☗8五飛の狙いでそれは☖8二歩で大丈夫とみていたのでしょう。☖7九角成としました。
ところがここでは飛車を回るのではなく☗5三歩と打つ手がありました。
これが☗5二歩成から☗4三歩成を狙う厳しい手で,どうしても後手の駒損が確定することになりました。以下は先手が一方的に押し切りましたので,☖3三金寄のところでは☖5三金と逃げるほかなかったようです。。
里見女流王座が勝って2勝1敗。第四局は20日に指される予定です。
僕たちはデカルトのオペレーションシステムによって考えることを習わしとしています。スピノザのオペレーションシステムは,デカルトのオペレーションシステムの下にあるわけではなく,またそれをアップデートしたもの,つまりその上にあるものでもありません。そしてスピノザの思想は,スピノザのオペレーションシステム,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムに支えられています。僕たちはそうしたオペレーションシステムの下で物事を考えることを習慣としていません。ですから,スピノザの何らかの思想を対象として考察するというときに,そのオペレーションシステムの基幹部分に回帰するということは,デカルトのオペレーションシステムの下で考えるということ,考えてしまうということを回避するために重要なのです。このために,スピノザの思想の形而上学的部分を重視する僕は,その部分の復習をする機会が多くなるという一面があります。すなわちこれは,スピノザの形而上学的部分を重視するがゆえのことであって,一般に基礎部分を復習するということが重要であるということとは別の理由です。なので,確かに僕はそうした復習をする機会が多くなっていますが,それはスピノザの哲学を考察の対象としているがゆえの,特殊的な事情であるという側面もあります。
こうしたことはスピノザの形而上学的部分を考察の対象とする場合には往々にして生じることです。たとえば『スピノザの形而上学』は,文字通りにスピノザの形而上学を対象とした探求です。この論文集には本論のほかに付論も含まれていて,その付論の中には,単にスピノザの形而上学を探求するというよりも,スピノザの形而上学をアップグレードしていくような,きわめて難解な論考も含まれています。しかしそうした論考の中でも,著者である松田は,スピノザの形而上学的部分に関しては,その基礎的な部分から考察しています。これはたぶん松田もスピノザの形而上学を探求する場合の特殊的な事情を十分に理解しているからだと推測されます。異なったオペレーションシステムの下で考えるということは,簡単なことではないのです。
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