スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

忘れてはいけない&限界点

2015-01-16 19:21:44 | 歌・小説
 「吹雪」を改めて聞いていたときに,ふと思い出した別の歌がありました。「忘れてはいけない」です。
                         

   忘れてはいけないことが必ずある
   口に出すことができない人生でも

 曲の冒頭もそうですし,曲中でも何度か歌われる印象的なリフレインです。

   泥だらけのクエッションマーク心の中にひとつ
   なまぬるい指でなだめられて消える


 たぶんこのあたりが「予定通りに雪が降る」とリンクしたのだと思います。だから想起したのでしょう。それは続く部分も同様だったかもしれません。

   争わないように嫌われないように
   歌う歌はキャンディソングだけどだけどだけど


 ここで三連発する「だけど」が,僕がこの歌の中で最も好む部分であり,またこの歌の真骨頂であるように思います。
 何かを忘れるためには,その忘れる何かを事前に知っていなければなりません。僕は無知であるということが,それ自体では悪であるとは考えません。でも,知るべきことがあると理解していながら,それを知ろうと努めないことは,それ自体で悪であるといっていいのかもしれません。知らなければ,忘れることさえできないのですから。静かになる日は,忘れてしまうから訪れるのではなく,知ろうとしないうちにも訪れるのです。

 スピノザの実体と属性の形而上学に,実在的観点の導入を果たしたこの地点が,ライプニッツの規定をスピノザの形而上学に置き換えるための限界点であると僕は考えます。いい換えれば,両者の形而上学は,これ以上の折合いをつけることは不可能だと僕は考えるのです。
 ここで一致しているのは,スピノザの場合には何らかの属性の観念が知性のうちにあるとき,神の観念も必然的にその知性のうちにあるということであり,ライプニッツの場合には,モナドの観念が知性のうちにあるためには,本性の上で「先立つ」観念として,神の観念が必要であるということです。ライプニッツ自身はモナドを形而上学的には実体であるといい,属性であるとはいっていません。しかしスピノザの形而上学では,実体と属性の区別を理性的区別とみなすことが可能なので,この部分の相違には僕は目を瞑ります。一方,スピノザの形而上学に実在的観点を導入したとき,神の観念は属性の観念に対して本性の上で「先立つ」観念ではなく,むしろ理性的に区別される観念でなければなりませんが,僕はこの部分の相違についても,それは重大な相違であるということは認めますが,目を瞑っても構わないと考えるのです。
 したがって,スピノザもライプニッツも,何らかの実体の観念が知性のうちにあるとき,神の観念も同時にその知性のうちにあるということ,永遠な知性を想定した場合には,同時にという表現はあまりよろしくありませんが,それに十分に注意して,同時に神の観念がその知性のうちにあるという点では,一致できることになります。他面からいえばこれは,実体の観念が神の観念なしに知性のうちに実在することはあり得ないという意味ですから,重要な一致点であるといっていいのではないかと思います。
 しかし先述したように,この一致点が僕が考える限界点でもあるのです。いくつかの相違に目を瞑って帰結させた一致点ですが,逆にいうならそれは,これ以上に何らかの相違があるのなら,僕ももう目を瞑ることはできない地点であるということです。そして確かにこれ以上の,目を瞑ることが許されない相違があると僕は考えているのです。

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