7日に指された第25期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が6勝,伊藤沙恵女流二段が3勝。
倉敷市長による振駒で伊藤二段の先手。里見倉敷藤花の三間飛車に伊藤二段が向飛車の相振飛車に。中盤の戦いから先手が桂馬を取りつつ馬を作り,後手は飛車を成り込むという分かれになりましたが,そのあたりは先手の方がよかったものと思います。ただ先手が決定打を放つことができず,長手順の泥仕合になりました。
先手が8一にいた龍を攻めに使おうとした局面で,感想戦によればここが先手にとって最後のチャンスだったようです。正着は☗8四歩だったようですが☗7六桂と打ちました。ただ,このまま☖5六金と打たれてよいようには思いにくく,これを逃したのは仕方がないような気が個人的にはします。
☖3九銀は棋譜コメントでは心配とされていますがこれが好手だったのではないかと思えます。先手は☗5三桂成として上部脱出に望みを託しました。後手は☖6九龍ともう1枚の龍を使いにいきます。これは☗5四馬と王手で寄って☖8三王に☗5六玉と逃げ出せるようですが☖4四金とただのところに打ったのが最終的な決め手になりました。
これはさすがに☗同馬しかありませんが☖6五竜と引く手が実現。先手玉を押し返すことに成功した後手の勝ちになりました。
里見倉敷藤花が先勝。第二局は26日です。
それでは『ゲーテとスピノザ主義』の中から,僕が気になった最後の事柄を紹介します。これは,本文中にスピノザの名前が出てきているけれども,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの考え方の中に,本文中には詳しく触れられていない形でスピノザの哲学と親和的なものが含まれていると僕には思えた部分です。
最初に紹介した第3章の第1節で,ゲーテがシラーとの会話において,植物のメタモルフォーゼについて語り,象徴的植物をスケッチしてみせたということをいいました。そこではこの象徴的植物が植物の原型で,これが第三種の認識cognitio tertii generisとの関係でスピノザの哲学と関連を有するかもしれないと僕はいいました。この原型とメタモルフォーゼについて,再び第5章の第2節で触れられています。そしてそこでは,この考え方が,第三種の認識とは別の形でスピノザの哲学との関連性があるように僕には思えました。
大槻によれば,ゲーテはヘルダーから影響を受け,自然と神Deusと芸術に自身の関心を向けるようになったそうです。このとき,ゲーテにとっての自然というのは,スピノザ主義を根底とする神即自然としての自然であったと大槻は指摘しています。神即自然は第四部序言が最も有名です。そしてこの部分は,おそらく神学者からは非難の対象となるでしょう。ただ,大槻の記述にはそのような否定的なニュアンスはまったく含まれていません。したがってこの部分に関しては,ゲーテはスピノザの汎神論を肯定的に受容したと大槻は解していると考えておくのがよいように僕には思えます。ただ,ゲーテが実際にそういう受容をしたかは定かであるといえず,この部分の大槻の見解自体が正しいかどうかの判断は僕は留保します。
さらに大槻は,ゲーテは神即自然をそのように受け止めた上で,物理学的に自然の根源を認識しようとしたといっています。ここでいう物理学が何を意味するのかは僕には分かりませんでした。でもこの部分はさして重要ではありません。ゲーテがこうした認識を基本に,原型とメタモルフォーゼという概念notioに到達し,自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則に従って生命ある諸々の形象を無限に産出していくと考えたという部分に注目します。
倉敷市長による振駒で伊藤二段の先手。里見倉敷藤花の三間飛車に伊藤二段が向飛車の相振飛車に。中盤の戦いから先手が桂馬を取りつつ馬を作り,後手は飛車を成り込むという分かれになりましたが,そのあたりは先手の方がよかったものと思います。ただ先手が決定打を放つことができず,長手順の泥仕合になりました。
先手が8一にいた龍を攻めに使おうとした局面で,感想戦によればここが先手にとって最後のチャンスだったようです。正着は☗8四歩だったようですが☗7六桂と打ちました。ただ,このまま☖5六金と打たれてよいようには思いにくく,これを逃したのは仕方がないような気が個人的にはします。
☖3九銀は棋譜コメントでは心配とされていますがこれが好手だったのではないかと思えます。先手は☗5三桂成として上部脱出に望みを託しました。後手は☖6九龍ともう1枚の龍を使いにいきます。これは☗5四馬と王手で寄って☖8三王に☗5六玉と逃げ出せるようですが☖4四金とただのところに打ったのが最終的な決め手になりました。
これはさすがに☗同馬しかありませんが☖6五竜と引く手が実現。先手玉を押し返すことに成功した後手の勝ちになりました。
里見倉敷藤花が先勝。第二局は26日です。
それでは『ゲーテとスピノザ主義』の中から,僕が気になった最後の事柄を紹介します。これは,本文中にスピノザの名前が出てきているけれども,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの考え方の中に,本文中には詳しく触れられていない形でスピノザの哲学と親和的なものが含まれていると僕には思えた部分です。
最初に紹介した第3章の第1節で,ゲーテがシラーとの会話において,植物のメタモルフォーゼについて語り,象徴的植物をスケッチしてみせたということをいいました。そこではこの象徴的植物が植物の原型で,これが第三種の認識cognitio tertii generisとの関係でスピノザの哲学と関連を有するかもしれないと僕はいいました。この原型とメタモルフォーゼについて,再び第5章の第2節で触れられています。そしてそこでは,この考え方が,第三種の認識とは別の形でスピノザの哲学との関連性があるように僕には思えました。
大槻によれば,ゲーテはヘルダーから影響を受け,自然と神Deusと芸術に自身の関心を向けるようになったそうです。このとき,ゲーテにとっての自然というのは,スピノザ主義を根底とする神即自然としての自然であったと大槻は指摘しています。神即自然は第四部序言が最も有名です。そしてこの部分は,おそらく神学者からは非難の対象となるでしょう。ただ,大槻の記述にはそのような否定的なニュアンスはまったく含まれていません。したがってこの部分に関しては,ゲーテはスピノザの汎神論を肯定的に受容したと大槻は解していると考えておくのがよいように僕には思えます。ただ,ゲーテが実際にそういう受容をしたかは定かであるといえず,この部分の大槻の見解自体が正しいかどうかの判断は僕は留保します。
さらに大槻は,ゲーテは神即自然をそのように受け止めた上で,物理学的に自然の根源を認識しようとしたといっています。ここでいう物理学が何を意味するのかは僕には分かりませんでした。でもこの部分はさして重要ではありません。ゲーテがこうした認識を基本に,原型とメタモルフォーゼという概念notioに到達し,自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則に従って生命ある諸々の形象を無限に産出していくと考えたという部分に注目します。
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