14日の鎌倉記念を勝った北海道のリーチの父はグランプリボスです。父はサクラバクシンオー。
2歳8月にデビューし新馬を勝利。デイリー杯2歳ステークスは7着でしたが京王杯2歳ステークスで重賞初制覇。さらに朝日杯フューチュリティステークスを勝って大レースを制覇。JRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されました。この連勝のときの2着はともにリアルインパクト。
クラシックも視野に入れてスプリングステークスに出走するとオルフェーヴルの4着。血統面からマイル戦にシフトチェンジしてニュージーランドトロフィーは3着でしたがNHKマイルカップで大レース2勝目をあげました。その後,イギリスに遠征してセントジェームズパレスステークスに挑戦。これは8着でした。
帰国して秋初戦のスワンステークスは8着。マイルチャンピオンシップも13着と連続の大敗になりましたが阪神カップは2着。
4歳初戦はフェブラリーステークスで12着。さらにマイラーズカップが13着で京王杯スプリングカップが7着と大敗が続きましたが安田記念は2着になりました。
秋は毎日王冠で復帰して6着、スワンステークスで重賞4勝目。マイルチャンピオンシップは2着で遠征した香港マイルは12着でした。
5歳初戦のマイラーズカップで重賞5勝目。安田記念はロードカナロアの10着。秋はスプリンターズステークスがロードカナロアの7着,スワンステークスが7着,マイルチャンピオンシップが9着と結果を残せませんでした。
6歳初戦は安田記念でジャスタウェイとハナ差の2着。秋はスプリンターズステークスが4着,マイルチャンピオンシップが6着,香港マイルが3着で競走生活を終えました。
浮き沈みの激しい競走生活でしたが,2歳から6歳まで,マイルの大レースで活躍し続けました。こういう傾向が種牡馬としても発揮できれば,汎用性はあるように思います。
入院中の従妹を見舞った叔父の話の中で,僕にとって最も驚きが大きかったのは,彼女の意識が朦朧としている時間が長く,十分にコミュニケーションが計れる状況にはないという点でした。12月10日に彼女から僕に電話があったとき,僕たちは小一時間に渡って話をしたのですが,その間の会話には不自然なところはまったくなかったからです。別のいい方をすれば,話をするということに対する不自由さの欠片も彼女にはなかったからです。2週間か3週間の後に,そこまで彼女の症状が悪化してしまうということは,単純にいっても信じられないことでしたし,まして彼女が僕に語った内容を加味すれば,僕にはなおさらそのように思えたのです。
彼女は脳腫瘍だったわけで,この意識の混濁あるいは朦朧というのは,その病気それ自体が原因で引き起こされたのかもしれません。脳腫瘍の末期に人間が一般的にどのような症状を示すのかということは僕には分かりませんが,病気の部位が脳にあるのであれば,そういう事態が発生するとしても,僕には不思議ではないように思えます。しかし一方でこのことは,治療の副作用として生じたということも考えられるでしょう。僕の父と母は大腸の癌であって,脳腫瘍とは異なりますが,ふたりとも癌に由来する痛みを緩和するために,麻薬を処方され,実際に使用していました。脳腫瘍の場合にも,同じような処方があり得るように思えます。僕の母は麻薬を使用しても,それによって意識が朦朧として会話が成立しなくなってしまうというような事態はほとんど生じませんでしたが,父の場合にはまったくなかったわけではありません。もちろんそれには,使用した麻薬の強度の違いがあったからでしょうし,個人的な体質の差異というものも影響したに違いありません。僕は従妹がどのような治療を受けていたのかを詳しく知りませんが,その後の状況から勘案すると,もし脳腫瘍に由来する痛みというのがあったのだとすれば,その痛みを緩和するための薬を使っていたことは間違いないと思います。ですからそうしたものの影響によって,彼女は叔父と十全にコミュニケーションをとることができなくなっていたのかもしれません。
2歳8月にデビューし新馬を勝利。デイリー杯2歳ステークスは7着でしたが京王杯2歳ステークスで重賞初制覇。さらに朝日杯フューチュリティステークスを勝って大レースを制覇。JRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されました。この連勝のときの2着はともにリアルインパクト。
クラシックも視野に入れてスプリングステークスに出走するとオルフェーヴルの4着。血統面からマイル戦にシフトチェンジしてニュージーランドトロフィーは3着でしたがNHKマイルカップで大レース2勝目をあげました。その後,イギリスに遠征してセントジェームズパレスステークスに挑戦。これは8着でした。
帰国して秋初戦のスワンステークスは8着。マイルチャンピオンシップも13着と連続の大敗になりましたが阪神カップは2着。
4歳初戦はフェブラリーステークスで12着。さらにマイラーズカップが13着で京王杯スプリングカップが7着と大敗が続きましたが安田記念は2着になりました。
秋は毎日王冠で復帰して6着、スワンステークスで重賞4勝目。マイルチャンピオンシップは2着で遠征した香港マイルは12着でした。
5歳初戦のマイラーズカップで重賞5勝目。安田記念はロードカナロアの10着。秋はスプリンターズステークスがロードカナロアの7着,スワンステークスが7着,マイルチャンピオンシップが9着と結果を残せませんでした。
6歳初戦は安田記念でジャスタウェイとハナ差の2着。秋はスプリンターズステークスが4着,マイルチャンピオンシップが6着,香港マイルが3着で競走生活を終えました。
浮き沈みの激しい競走生活でしたが,2歳から6歳まで,マイルの大レースで活躍し続けました。こういう傾向が種牡馬としても発揮できれば,汎用性はあるように思います。
入院中の従妹を見舞った叔父の話の中で,僕にとって最も驚きが大きかったのは,彼女の意識が朦朧としている時間が長く,十分にコミュニケーションが計れる状況にはないという点でした。12月10日に彼女から僕に電話があったとき,僕たちは小一時間に渡って話をしたのですが,その間の会話には不自然なところはまったくなかったからです。別のいい方をすれば,話をするということに対する不自由さの欠片も彼女にはなかったからです。2週間か3週間の後に,そこまで彼女の症状が悪化してしまうということは,単純にいっても信じられないことでしたし,まして彼女が僕に語った内容を加味すれば,僕にはなおさらそのように思えたのです。
彼女は脳腫瘍だったわけで,この意識の混濁あるいは朦朧というのは,その病気それ自体が原因で引き起こされたのかもしれません。脳腫瘍の末期に人間が一般的にどのような症状を示すのかということは僕には分かりませんが,病気の部位が脳にあるのであれば,そういう事態が発生するとしても,僕には不思議ではないように思えます。しかし一方でこのことは,治療の副作用として生じたということも考えられるでしょう。僕の父と母は大腸の癌であって,脳腫瘍とは異なりますが,ふたりとも癌に由来する痛みを緩和するために,麻薬を処方され,実際に使用していました。脳腫瘍の場合にも,同じような処方があり得るように思えます。僕の母は麻薬を使用しても,それによって意識が朦朧として会話が成立しなくなってしまうというような事態はほとんど生じませんでしたが,父の場合にはまったくなかったわけではありません。もちろんそれには,使用した麻薬の強度の違いがあったからでしょうし,個人的な体質の差異というものも影響したに違いありません。僕は従妹がどのような治療を受けていたのかを詳しく知りませんが,その後の状況から勘案すると,もし脳腫瘍に由来する痛みというのがあったのだとすれば,その痛みを緩和するための薬を使っていたことは間違いないと思います。ですからそうしたものの影響によって,彼女は叔父と十全にコミュニケーションをとることができなくなっていたのかもしれません。
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