スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&中間結論

2024-02-06 19:06:17 | 将棋
 4日に関根名人記念館で指された第50期女流名人戦五番勝負第三局。
 西山朋佳女流名人の先手で角道オープン三間飛車。後手の福間香奈女流名人は居飛車にして居玉のまま仕掛けていきました
                              
 ここで後手は銀を逃げずに☖8六歩と垂らしました。先手は構わず☗7五歩と銀を取りました。これは☖8七歩成で飛車角両取り。これで後手が良さそうなのですが☗7九飛と逃げられたときに,☖7七とと角を取ると☗同桂で飛車を使うことができません。後手はそれを避けて☖8五飛と取ったので先手は☗6六角と逃げました。
 と金ができているとはいえ銀損ですから後手は代償が必要です。☖8八とで8筋の突破を目指しました。先手が☗7六飛と浮いたところで☖8七飛成。先手は☗7七銀と上がりました。
                              
 これで受かっているようです。この後,先手も7筋を突破する攻め合いに進んで勝っています。後手は居玉のままの仕掛けが無理だったということでしょう。
 西山女流名人が勝って1勝2敗。第四局は25日に指される予定です。

 Aの観念ideaとは,Aが観念対象ideatumとなっている観念という意味です。観念対象というのは知性intellectusの外にあるとは限らないのであって,観念自体が観念対象となる場合もあります。それはスピノザの哲学では観念の観念idea ideaeといわれます。デカルトRené Descartesがこういうケースも想定していたかどうかは分かりません。ただ,神Deusが欺瞞者として人間の知性を騙すということが疑いdubitatioとして成立すると主張するのであれば,それは観念対象が知性の外にある事物であろうと知性の中にある観念であろうと同様であるといわなければなりません。したがって方法論的懐疑doute méthodiqueの中間結論としてデカルトが到達することができた地点は,この様式で人間の知性が何らかの事物を認識するcognoscereということのうちに,疑い得ない事柄は何もないということ,すなわち絶対的に正しいといえることは何もないということだったと解することができます。それは別のいい方をすれば,もし絶対的に正しいといえること,デカルト自身がそのことを疑い得ないといえるようなことが何かあるのだとすれば,そうしたことはこの様式とは別の様式のうちにあるということです。つまり,知性が事物を認識するという作用とは,別の思惟作用のうちにしか,絶対的に正しいと判断することができることはないのです。
 スピノザの哲学では,第二部公理三によって,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であるとされています。知性が観念を形成するということは,その知性が何らかの事物を認識するというのと同じ意味です。つまりこれは,思惟作用のうちの第一のものは認識cognitioであるということを意味します。したがって,この第一の作用のうちに疑い得ないことが何もないのであるとしたら,疑い得ないことは何もないということが直ちに結論されます。これはデカルトも従ったといえる第二部定理四〇で示されている公準から明らかなのであって,もしも知性の第一作用である認識のうちに,何か疑うことができない確実なものがあるのでないとしたら,それ以外のいかなる思惟作用もこの認識作用を原因causaとして生じなければならないのですから,疑い得ない確実なことはそこからは生じ得ないからです。ただしデカルトはそうは考えていません。

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