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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

AJSOK杯王将戦&表現の阻害

2025-02-18 10:14:12 | 将棋
 15日と16日に摂津峡花の里温泉で指された第74期王将戦七番勝負第四局。
 藤井聡太王将の先手で角換わり相腰掛銀。後手の永瀬拓矢九段が序盤の段階で新手を出し,中盤以降は先手が駒損で攻める展開。先手の攻めが繋がるかどうかが勝敗の最大のポイントとなりました。
                           
 ここで先手は☗3四銀と打っていきました。☖3三歩と打たれれば☗2五銀と逃げるわけにはいかないでしょうから,思い切った一手。
 ☗5三香☖6二金☗4二銀☖3二玉☗5一銀不成☖4一香☗4二歩成☖同香☗4三歩と攻めを続けました。
                           
 ここで☖同香だと先手の攻めが繋がるのですが,☖5一飛と銀を取るのが絶妙の受け。これで☖6九銀と反撃する手が生じたため後手の勝ちになりました。上図以降の手順の中で,先手に誤算があったということでしょう。上図では☗4六香ないしは☗4七香と指すのがよく,それは先手に分がある戦いだったようです。
 永瀬九段が勝って1勝3敗。第五局は来月8日と9日に指される予定です。

 Deusが個物res singularisを現実的に存在させざるを得ないのは,そこに神の思惟作用が介在するからではありません。神は自己原因causa suiですから,第一部定理一にあるように,その本性essentiaに存在existentiamが含まれています。これは,存在するpotentiaを本性に含んでいると読み替えることができます。実際にスピノザは第一部定理三四で,神の力と神の本性を等置しています。そしてこの力が現実的に表現されるときは,個物が現実的に存在するという様式で表現されることになるのです。つまり画家が絵画を表現しないわけにはいかないというのと同じ意味で,神は個物を現実的に存在させないわけにはいかないのです。他面からいえば,第一部定理一六にあるように,神は無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものを生じさせないわけにはいかないのです。
 表現という観点からさらに注意を促しておけば,画家は絵画を描かないわけにはいかないとしても,物理的な面から描くことができなくなってしまうということはあり得ます。たとえば事故で腕をケガしてしまい,物理的に描くことができなくなるということはあり得るからです。しかし神にはそのような障害が生じることはありません。いい換えれば,画家には表現を阻害するような外的原因が発生する場合を否定するnegareことはできないのですが,神の場合はその表現を阻害するような外的原因が発生するということを考えなくてよいのであって,この表現が中断されるとか停止されるといったことを考えるconcipere必要はないのです。したがって存在する力の源泉としての神は,永遠aeternumから永遠にわたって表現するexprimereのであって,個物という様態modi,吉田の表現に倣えば個物モードの神を永遠から永遠にわたって表現するということになり,それは何らかの思惟作用によって表現する,つまり表現してもいいししなくてもいいが表現するとか,表現することもできるし表現しないこともできる中で表現するというわけではなく,表現せざるを得ないというような様式で表現するのです。
 ドゥルーズは『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』の中で,スピノザの哲学における表現という概念notioの特殊性および重要性を説いていますが,この部分の吉田の指摘はそれと同一のものと解してよいでしょう。
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