スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&強い意味の中の弱い意味

2014-01-09 19:13:54 | 将棋
 7日に指された第39期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
 振駒で永瀬拓矢六段の先手。三浦弘行九段の誘導で横歩取りとなり,戦いの開始から終局まで,二転三転する激戦の将棋になりました。
                         
 △5五桂打の王手に4七から玉が寄った局面。後手は△7七歩と叩きました。
 受ける手もあり得ますが,この局面では先手玉が安全なので,攻める方が普通だと思いますし,先手の勝ちになっているようにも思えます。▲4三銀不成と取り,△同金▲同香成△同王と露出させ,▲4六香の追撃。△4四香と受けたところで▲5五馬と迫りました。一手の余裕を得た後手は△7八歩成。これは先手に下駄を預けた手ともいえそうです。
 先手はこの手順で進めたからには,この局面で後手玉が詰むか,先手玉が逃れていると判断していたと理解するのが妥当だと思います。どちらにしても▲4四香は取るところかもしれませんが△同飛に対してどうするか。
                         
 先手の指し手は▲同馬で,これは詰ましにいったとしか考えられない手。しかし後手玉は詰まず,後手の勝ちになりました。先手の感想と実際の指し手の整合性が合わないような印象が残りましたが,いずれにしても最後で先手が読みの制度を欠いていたというべきなのでしょう。
 三浦九段が挑戦者に。棋王戦は初挑戦。タイトル戦は2010年春の名人戦挑戦以来です。

 前回の考察では触れませんでしたが,現在の僕は,強い意味のうちにも,弱い意味が公理的性格をそれ自体で有すると結論したのと同一の論理が,少なくとも部分的には貫かれているという考え方を認めます。
 結果が原因とは異なるものであるがゆえに結果であるといわれるのであれば,それと同じように,原因もまた結果とは異なるものであるからこそ原因と認識し得るということになります。実際にこのことは,一般的な意味において原因といわれるものが知性によって十全に認識されるという場合について考えてみても明らかです。もしもあるものXが認識されて,しかしそのものが何の結果も生じさせないようなものとして知性のうちにあると仮定してみたならば,Xの認識は原因の認識であるとはいえません。Xが原因として認識されるということは,Xの本性から,もちろんこの場合にはXの本性が十全な原因であるという必要はなく,部分的原因であっても構いませんが,そのXの本性からXではないようなあるもの,たとえばYが生じると認識されているという意味でなければなりません。そしてこのことは,どんなものが原因として認識される場合にも妥当しなくてはなりません。いい換えれば,Xにはどんなものでも代入可能ですし,また代入可能なものだけが原因と認識されていることになります。よってこれを一般的にいうならば,原因は結果とは別のものであり,結果を生じさせるものであるがゆえに原因であるといわれ得るということになります。いい換えれば,原因はそれが結果を生じさせる,結果とは別のものであるということが,一般的な意味における原因の認識には含まれているとみなすことができます。
 ただし,このことは第一部公理三の前半部分でいわれていることの全部であるとは僕は考えません。よって,上述の事柄がそれ自体で公理的性格を有するのだとしても,強い意味の全体がそれで公理的性格を有するという結論にはならないと僕は考えます。なのでここでは,この部分のことを,強い意味の中の弱い意味と命名し,この部分に関しても,弱い意味と同様に,問題とはしないことにします。

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