スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

成功と失敗&共通概念の評価

2016-03-08 19:29:56 | 歌・小説
 お嬢さんへの恋心を先生に話した日の晩のKの赤面は,テクスト上はKの内面に変化が生じたと解するのが妥当だというのが僕の考え方です。そしてこの内面の変化というのは,先生の遺書のテクストのそれ以前の部分との関係で,さらに別の意味を有していると僕は考えます。この赤面は先生の成功と失敗を同時に示していると思うのです。
                                    
 先生がKとの同居を決断したとき,先生の優越感がその根底にはあったと考えられます。これは先生の方がKよりも世の中の事理というものについてはよく弁えているというものでした。おそらくその中には,男女の交際の事理というものも含まれていたと想定されます。この意味においては,このときKが赤面したことは,Kもその事理を知ったということを明らかに意味すると思います。つまり先生はKと同居する目的として立てていたことを達成したということになります。なのでこの赤面は先生の成功を意味するのです。
 ですが,たぶん先生はこのような仕方でKが自分の誤りに気付くということは想定していなかったし,望んでいなかったと思います。Kとの同居を決定する以前の先生の認識のうちには,自分がゆくゆくはお嬢さんと結婚することになるという確信があったと思われ,まさかKが恋敵になるとはまったく想定していなかったでしょう。お嬢さんの美貌からして,たとえKのような男でも同居するようになれば三角関係が生じかねないと考えていた奥さんの拒絶の意味を少しも理解できなかったということは,先生がそれを想定できていなかったことの証明であるといえます。だからこの意味においては,このKの赤面は,先生にとって失敗であった,それも取り返しがつかないほどの大きな失敗であったといえます。
 Kの自殺の理由は,恋の争いに敗れたからではないと僕は考えます。遺書のテクストは,先生もそれに気付いていたことを示していると思います。それでも先生が後に人間の罪を感じたのも理解できます。もし先生がKとの同居を選ばなければ,この自殺はなかった筈だからです。よかれと思ってなしたことが最悪の結果を産んだことに先生が罪悪感をもっても,何の不思議もないでしょう。

 スピノザが哲学史的には一般的な思惟の様態を示す概念notioを混乱したものとみなし,個別的な思惟の様態を示す観念の方に十全性を付与したということは間違いありません。ですがこのことは,スピノザが一般的なるものを否定し,個別的なものを肯定しようとしたがために生じたのではないと僕は考えます。「観念と表象」は,あたかもスピノザがそれを意図していたという視点から考察されているように思われ,もしもそうであるなら僕は適切さを欠く一面があるのではないかと考えます。僕の考えでいえば,スピノザが肯定しようとしたのは十全性すなわち真理であり,否定しようとしたのは混乱性すなわち虚偽です。このとき,個別性が十全性を示すのに対して一般性は混乱性を示すので,結果的にスピノザは個別的なものを評価し,一般的なものを斥けるに至ったのだというのが僕の見解です。いい換えれば一般的なものを否定して個別的なものを肯定するのは,そのこと自体がスピノザにとっての目的であったというようには僕は考えません。
 第二部定理三八第二部定理三九も,共通概念が思惟の様態としては十全であるということを意味します。なのでたとえそれが一般的な概念notioであったとしても,そのことをもってスピノザがそれを否定するとは僕は考えません。スピノザが一般的なものを否定するのはそれ自体が目的ではなく,混乱したものを否定するという目的の結果として生じると考えるなら,むしろ十全性を示す共通概念については,スピノザはそれを積極的に評価すると解するのが妥当であると考えるからです。
 柄谷はこの部分の文脈において,ドゥルーズが『スピノザと表現の問題』で共通概念を高く評価したことに対して,否定的なニュアンスのことを述べています。これなども僕には不適切なのではないかと思えます。とくにドゥルーズの場合,共通概念を評価するときに,一般性の低い共通概念の方に高い価値を置いています。一般性が低ければ低いほど有益であるというのがドゥルーズの考え方だと僕は解します。ドゥルーズがそう考えた理由は別に,これはより個別的なものを高く評価しようとしていると僕には思えるのです。
コメント
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