スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&レヴィウスの解釈

2021-02-15 19:27:33 | 将棋
 一昨日と昨日,立川で指された第70期王将戦七番勝負第四局。
 永瀬拓矢王座の先手で,先手が工夫を凝らした手順の末に,後手の渡辺明王将の雁木に先手の矢倉という戦型になりました。この将棋は中盤で先手が十字飛車で攻める筋を後手が見落としていたためにその手が決まり,差が開いてそのまま決着するということに。本人が代案をふたつ示していますので,ここでは60手目が☖7五角だった場合を考えてみます。
                                        
 これでも先手は十字飛車を狙うことはできます。☗2四歩は☖同歩の一手でしょう。そこで☗4四桂。ここで攻め合いを狙うのもありそうですが仮に☖同銀と取ってしまい☗2四飛の十字飛車が実現したとします。この場合はたぶん☖2三歩より☖3一王の方がよさそうなのでそう指したとして☗4四飛と進みます。
                                        
 第2図は後手が角を成ることもできますし,☖5三桂を狙った指し方もありそう。また先手から実戦のような後手の飛車を攻めていく指し方もありませんから,これは後手が互角以上に戦えるでしょう。なので先手は第2図に進めるのはあまりよくなさそうで,第1図では☗6六歩と受けておくのが穏当でしょう。それに対してはまた☖4二角ないしは☖5三角と引くことによって十字飛車を防ぐことができますので,まだまだこれからの将棋ということになりそうです。
 永瀬王座が勝って1勝3敗。第五局は来月1日と2日に指される予定です。

 デカルトRené DescartesとレヴィウスJacobus Reviusuの論争において,デカルトが神Deusを自己原因causa suiであると規定しているか否かという点に限れば,デカルトは神を自己原因であるとは規定していません。同時にデカルトは自己原因が起成原因causa efficiensであるということも認めていません。ですからこの部分が論争の焦点であるとみる限り,デカルトがいっていることが正しいといわざるを得ません。ですが,デカルトは神が自己原因であると規定しているとレヴィウスがいうとき,その解釈が絶対的に誤っているかといえば,必ずしもそうではないと僕は考えます。そしてこのことは,スピノザの哲学からみたとき,デカルトは詭弁を弄しているようにみえるということと関係するのです。
 デカルトは,神の本性essentiaの広大無辺性が,神が存在するための起成原因をもたない理由であるといっています。いい換えれば,神の本性と神の存在existentiaは分けて理解することはできないといっています。そしてこのとき,神が存在する理由であるとされている神の本性の広大無辺性は,たとえ人間には認識するcognoscereことができないものであるにしても,この上なく積極的なものといっています。つまり神の存在の自己由来性になっている神の本性の広大無辺性は,積極的なものなのです。したがって人間にはそれが何かは不明だとしても,それが積極的であると解することは許されるのです。つまり神の自己由来性を積極的に解釈することは肯定されます。
 このことから何が帰結するかといえば,本来は神の本性の広大無辺性が,神の存在の起成原因であるということでなければならない筈です。少なくともスピノザはそのように主張していて,そのゆえにスピノザの立場からすると,デカルトが神の存在の自己由来性について積極的な解釈を採用しているにも関わらず,神が自己原因であること,そして自己原因が起成原因であるということをデカルトが頑なに認めようとしない主張をすることに対して,デカルトはいかにも詭弁を弄しているようにみえるのです。
 しかし,このことは逆の立場,つまりスピノザからは正反対の立場からも,同じようにみえることになると僕は考えます。つまりレヴィウスからもそのようにみえると思うのです。

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