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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑭&主権と民衆

2022-08-20 19:27:31 | NOAH
 ジャンボ・鶴田は無尽蔵のスタミナを指摘されることが多いのですが,天龍はそれは否定しています。鶴田は身体が大きかったので,自身よりも小さな相手と対戦する機会が多く,そのゆえに試合で全力を出さなくてもよかったためにそのように見えたのだというのが天龍の言い分です。身体の大きさまで含めてスタミナというなら天龍の主張は成立しませんが,身体の大きさから比較してのスタミナという意味であれば,天龍の主張にも理があるでしょう。
 プロレスでは身体が大きいというのはそれだけで有利な材料で,天龍自身がそのことは実感しているようです。天龍は鶴田よりは小さかったですが,自分よりも小さい相手と戦うときには楽だったといっています。そして鶴田はいつもそのような感覚で試合をしていたのだろうと推測しています。こうしたことは三沢光晴も証言していて,三沢は身体が小さかったですが自身よりも小さい選手,たとえば小川良成あたりと戦うときにはとても楽だったようです。
 で天龍がいっている1989年6月5日の鶴田と天龍のシングルマッチがベストだと天龍に思えるのは,身体が大きかった鶴田がこの試合では感情をむき出しにして天龍と相対したからです。とくに鶴田は単に身体が大きかったというだけでなく,自分には余裕があるというところをみせようという意識があったと天龍はみていて,そのためになおさらこの試合はベストマッチだと思えるのでしょう。
 ファンに対して余裕があるところをみせようとするのは,自身の強さをみせようとする意図としてなら,僕は必ずしも否定的には考えません。それもまたギミックのひとつと考えられるからです。しかし鶴田はそのことを必ずしもファンに対してだけみせようとしていたわけではなく,対戦相手にも誇示しようとしていたようです。必死に向かってくる相手をいなすときに,「はい,はい」と声を出すこと,対戦相手にだけ聞こえるような声を出すことがあったそうです。阿修羅・原は涼しい顔で鶴田がそのようにいうので,対戦していて闘志が萎えてしまうことがあったようです。天龍は鶴田のこのような態度は選手間で顰蹙を買っていたと証言していますが,このような態度をとっていればそう思われても仕方がないでしょう。

 人間の精神mens humanaと人間の身体humanum corpusの能動actioと受動passioの秩序ordoが一致するとは,人間の精神が能動状態にあるときにはその人間の身体も能動状態にあり,人間の精神が受動状態にある場合には人間の身体も受動状態にあるということです。もちろんこれは逆も真verumで,人間の身体が受動状態であるときにはその人間の精神も受動状態にあり,人間の身体が能動状態にあるときにはその人間の精神も能動状態にあるということです。したがって,人間の精神の観念対象ideatumがその人間の身体であるということ,あるいは同じことですが,ある人間の精神とその人間の身体が同一個体であるということに注意すれば,第三部定理二はやはりスピノザの哲学の形而上学的論理から帰結することになります。同一個体は連結と秩序が一致しますが,もしも同一個体間で一方が原因causaで他方が結果effectusという関係が成立するなら,原因である方が能動で結果である方が受動ということになり,それを同一個体間でいうのは不条理だということになるからです。
                                   
 デカルトRené Descartesの哲学では人間の精神と人間の身体との間で因果関係が成立することになっていたので,精神の能動が身体の受動であり,逆に精神の受動は身体の能動を意味していたのです。そしてこのうち,精神が能動状態にあり身体が受動状態にあることが,デカルトの哲学では倫理的に推奨されていました。ホッブズThomas Hobbesが政治学に利用したのはその点であったといわなければなりません。しかしスピノザの哲学を援用するなら,その種の主客二元論は援用することができません。主権と民衆を分けて,主権が精神で民衆が身体に該当させることは可能ですが,その場合は主権の能動とは民衆の能動を意味し,民衆の受動が主権の受動を意味することになるからです。これは主客二元論に対抗させていえば平行論ですが,平行論を政治論の形而上学的基礎として援用すると,ホッブズが示したのとは異なったタイプの政治論が帰結するということはこれで理解できると思います。
 余談になりますが,ネグリAntonio Negriが目指そうとした政治体制の形而上学的基礎は,基本的に主権と民衆の間に成立する平行論にあったということができると僕は思っています。とくに能動の平行論です。

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