3歳ダート女王決定戦,第50回関東オークス。
先手を奪ったのはエスメラルディーナ。1周目の向正面で先頭に立つとペースを落とし,短い隊列でのレース。押したイエスアイキャン,内にトーコーニーケ,ローブデソワ,好発だったクロスオーバー,クライリング,アムールブリエと続きました。
2周目の向正面に入るところでローブデソワとディルガが動き,エスメラルディーナ,イエスアイキャンと4頭が雁行に。しかしエスメラルディーナは先頭を譲らず,むしろついていった馬たちが苦しくなり,直線の入口ではまたエスメラルディーナが単独で先頭へ。そこからはワンサイドで後ろを離していき,7馬身差をつけての逃げ切りで圧勝。終始インを離さなかったので,一旦は位置取りを下げた兵庫のトーコーニーケが2着。レースが動いたところではじっとしていたアムールブリエが,直線は大外から脚を伸ばして2馬身半差の3着。
優勝したエスメラルディーナは重賞初勝利。とはいえ芝でオープンを勝ち重賞3着,ダートでも重賞3着があり,ここでは実績上位。こんなに差をつけることができるとは思っていませんでしたが,勝利自体は順当といえるものでしょう。差がついたのはペースと能力,さらに馬場状態によるものであり,本質的にはもう少し短い距離に適性があるのではないかと推測します。この勝ち方ですから今後も楽しみです。Esmeraldinaは人名です。
騎乗したオーストラリアのクレイグ・ウィリアムズ騎手,管理している斎藤誠調教師は関東オークス初勝利。斎藤調教師はオークスと関東オークスの同年制覇となりました。
もしもある個物res singularisを,永遠の相と持続の相の両方の相で認識する知性があるとしたら,それは現実的に存在している知性である。いい換えれば持続の相の下に実在している知性だけである。このことが第五部定理二九備考の前提にはあると僕は考えています。こういう前提があるということは,『エチカ』の別の箇所のテクストによって論証できます。ここでは第五部定理二三備考のテクストを用いることにします。
「我々の精神は,身体の現実的存在を含む限りにおいてのみ持続すると言われうるし,またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によって規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決定する能力,物を持続のもとに把握する能力を有するのである」。
第五部定理二九備考もそうなのですが,『エチカ』のこの近辺のテクストは,人間の精神の永遠性を証明するという観点から書かれています。ただ僕の現在の論考においては,これは主要な観点を構成しません。よって少し別の説明が必要でしょう。
このテクストの前半部分は,第二部定理一三から明白です。人間の精神とその人間の身体は同一個体です。よって身体が持続する限り,その精神も持続しますが,身体が持続していない場合は,精神も持続し得ないからです。念のためにいっておけば,ここには平行論における秩序の一致が示されているのであり,何らかの因果関係が含まれているのではありません。
重要なのは後半部分です。ここでは明らかに,人間の精神はその精神が持続するといわれ得る間だけ,res singularisを現実的に存在すると認識する力を有するということが示されています。逆にいうなら,もしも人間の精神が持続していないなら,この精神がres singularisを,あるいはres singularisに限らずすべてのものを,持続の相の下に観念対象ideatumとすることは不可能であるといわれているのです。
このことからして,第五部定理二九備考の我々というのが,現実的に存在する人間の精神であるということは,明白です。
先手を奪ったのはエスメラルディーナ。1周目の向正面で先頭に立つとペースを落とし,短い隊列でのレース。押したイエスアイキャン,内にトーコーニーケ,ローブデソワ,好発だったクロスオーバー,クライリング,アムールブリエと続きました。
2周目の向正面に入るところでローブデソワとディルガが動き,エスメラルディーナ,イエスアイキャンと4頭が雁行に。しかしエスメラルディーナは先頭を譲らず,むしろついていった馬たちが苦しくなり,直線の入口ではまたエスメラルディーナが単独で先頭へ。そこからはワンサイドで後ろを離していき,7馬身差をつけての逃げ切りで圧勝。終始インを離さなかったので,一旦は位置取りを下げた兵庫のトーコーニーケが2着。レースが動いたところではじっとしていたアムールブリエが,直線は大外から脚を伸ばして2馬身半差の3着。
優勝したエスメラルディーナは重賞初勝利。とはいえ芝でオープンを勝ち重賞3着,ダートでも重賞3着があり,ここでは実績上位。こんなに差をつけることができるとは思っていませんでしたが,勝利自体は順当といえるものでしょう。差がついたのはペースと能力,さらに馬場状態によるものであり,本質的にはもう少し短い距離に適性があるのではないかと推測します。この勝ち方ですから今後も楽しみです。Esmeraldinaは人名です。
騎乗したオーストラリアのクレイグ・ウィリアムズ騎手,管理している斎藤誠調教師は関東オークス初勝利。斎藤調教師はオークスと関東オークスの同年制覇となりました。
もしもある個物res singularisを,永遠の相と持続の相の両方の相で認識する知性があるとしたら,それは現実的に存在している知性である。いい換えれば持続の相の下に実在している知性だけである。このことが第五部定理二九備考の前提にはあると僕は考えています。こういう前提があるということは,『エチカ』の別の箇所のテクストによって論証できます。ここでは第五部定理二三備考のテクストを用いることにします。
「我々の精神は,身体の現実的存在を含む限りにおいてのみ持続すると言われうるし,またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によって規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決定する能力,物を持続のもとに把握する能力を有するのである」。
第五部定理二九備考もそうなのですが,『エチカ』のこの近辺のテクストは,人間の精神の永遠性を証明するという観点から書かれています。ただ僕の現在の論考においては,これは主要な観点を構成しません。よって少し別の説明が必要でしょう。
このテクストの前半部分は,第二部定理一三から明白です。人間の精神とその人間の身体は同一個体です。よって身体が持続する限り,その精神も持続しますが,身体が持続していない場合は,精神も持続し得ないからです。念のためにいっておけば,ここには平行論における秩序の一致が示されているのであり,何らかの因果関係が含まれているのではありません。
重要なのは後半部分です。ここでは明らかに,人間の精神はその精神が持続するといわれ得る間だけ,res singularisを現実的に存在すると認識する力を有するということが示されています。逆にいうなら,もしも人間の精神が持続していないなら,この精神がres singularisを,あるいはres singularisに限らずすべてのものを,持続の相の下に観念対象ideatumとすることは不可能であるといわれているのです。
このことからして,第五部定理二九備考の我々というのが,現実的に存在する人間の精神であるということは,明白です。