昨日の川崎記念の決勝。並びは郡司-五十嵐-勝瀬-川崎の神奈川,浅井-林の中部,岩津-荒井の西国で稲川は単騎。
浅井と荒井がスタートを取りにいきました。インが有利で浅井が取りきり,そのまま前受け。岩津が3番手,郡司が5番手となり,稲川は最後尾での周回に。このまま残り2周まで動きがなく,岩津は林との車間を開け始めました。それから郡司が発進。岩津は純粋な自力タイプではありませんから,飛び付きは考えられましたが,狙ったのは3番手。ホームの入口付近で奪い,勝瀬は荒井は極めて岩津の後ろに。後方に置かれた浅井はこの後で発進。バックである程度のところまでいったのですが,郡司の後ろから五十嵐が出ていくと,マークの形になった岩津の後ろがもつれ,あおりで外に浮いて万事休す。五十嵐マークを奪った岩津が差して優勝。五十嵐が1車身半差で2着。浅井は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した岡山の岩津裕介選手は3月の玉野記念以来の記念競輪5勝目。川崎記念は初優勝。地元分断策に出るのは想定できましたが,番手ではなく3番手を狙ったのがうまかったと思います。五十嵐はまず二段駆けすることになるので,その後ろの方が勝機は高いとみたものでしょう。あまり競り合わずに奪えたのも勝因のひとつ。中国は有力な先行選手が少ないため,展開に恵まれないケースが多いのですが,末脚のシャープさは確かであり,今日のような捌くレースが増えてくれば,もっと優勝回数を増やしていくことができると思います。
第二部定理四四系二の前提には,有限であろうと無限であろうと,すべての事物に永遠性が含まれているということがあると僕は考えます。もしもそうでないなら,理性によっては認識され得ない事物が存在することになります。しかしそれは第二部定理三二に反します。理性による認識とは第二種の認識であり,事物の真の認識であるからです。
僕は個物res singularisの本性には,それが持続するものであるということが含まれているという考えです。つまり僕がここで主張していることは,その本性のうちに持続性が含まれているものに,永遠性が含まれているということです。これは矛盾に満ちているといわれて仕方ありません。ただ,僕自身はこのような主張は必ずしも不条理には陥らないと考えています。
なぜ僕がそう考えるのかを説明しますが,その前に,ひとつだけ注意しておいてほしい点があります。たとえばあるres singularisを具体的に抽出して,それが客観的にすなわち観念として把握されるとき,その観念のうちに永遠性が含まれるということと,現実的に存在するある知性,僕が視野に入れているのは人間の知性のことですが,実際にそのような仕方,永遠性を含むような仕方でその観念を形成するということを,僕は別の事柄であると理解します。一般的にいえば,ある事柄ができるということと,実際にその事柄をするということは別のことなのであって,それとパラレルな関係にある差異が,この部分に発生しているというように考えてください。僕がこれから示そうとすることは,どのような仕方である知性がres singularisを認識すれば,そのres singularisに永遠性が含まれると認識するのかということではありません。あるres singularisを知性が認識した際に,その認識のうちに永遠性が含まれるということは論理的に可能であるということです。いわば僕は論理的可能性のみを示すのであって,ある種の方法論を示すのではありませんし,永遠性を含むres singularisの観念が,知性のうちに必然的に生起しなければならないということを示すのでもありません。
浅井と荒井がスタートを取りにいきました。インが有利で浅井が取りきり,そのまま前受け。岩津が3番手,郡司が5番手となり,稲川は最後尾での周回に。このまま残り2周まで動きがなく,岩津は林との車間を開け始めました。それから郡司が発進。岩津は純粋な自力タイプではありませんから,飛び付きは考えられましたが,狙ったのは3番手。ホームの入口付近で奪い,勝瀬は荒井は極めて岩津の後ろに。後方に置かれた浅井はこの後で発進。バックである程度のところまでいったのですが,郡司の後ろから五十嵐が出ていくと,マークの形になった岩津の後ろがもつれ,あおりで外に浮いて万事休す。五十嵐マークを奪った岩津が差して優勝。五十嵐が1車身半差で2着。浅井は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した岡山の岩津裕介選手は3月の玉野記念以来の記念競輪5勝目。川崎記念は初優勝。地元分断策に出るのは想定できましたが,番手ではなく3番手を狙ったのがうまかったと思います。五十嵐はまず二段駆けすることになるので,その後ろの方が勝機は高いとみたものでしょう。あまり競り合わずに奪えたのも勝因のひとつ。中国は有力な先行選手が少ないため,展開に恵まれないケースが多いのですが,末脚のシャープさは確かであり,今日のような捌くレースが増えてくれば,もっと優勝回数を増やしていくことができると思います。
第二部定理四四系二の前提には,有限であろうと無限であろうと,すべての事物に永遠性が含まれているということがあると僕は考えます。もしもそうでないなら,理性によっては認識され得ない事物が存在することになります。しかしそれは第二部定理三二に反します。理性による認識とは第二種の認識であり,事物の真の認識であるからです。
僕は個物res singularisの本性には,それが持続するものであるということが含まれているという考えです。つまり僕がここで主張していることは,その本性のうちに持続性が含まれているものに,永遠性が含まれているということです。これは矛盾に満ちているといわれて仕方ありません。ただ,僕自身はこのような主張は必ずしも不条理には陥らないと考えています。
なぜ僕がそう考えるのかを説明しますが,その前に,ひとつだけ注意しておいてほしい点があります。たとえばあるres singularisを具体的に抽出して,それが客観的にすなわち観念として把握されるとき,その観念のうちに永遠性が含まれるということと,現実的に存在するある知性,僕が視野に入れているのは人間の知性のことですが,実際にそのような仕方,永遠性を含むような仕方でその観念を形成するということを,僕は別の事柄であると理解します。一般的にいえば,ある事柄ができるということと,実際にその事柄をするということは別のことなのであって,それとパラレルな関係にある差異が,この部分に発生しているというように考えてください。僕がこれから示そうとすることは,どのような仕方である知性がres singularisを認識すれば,そのres singularisに永遠性が含まれると認識するのかということではありません。あるres singularisを知性が認識した際に,その認識のうちに永遠性が含まれるということは論理的に可能であるということです。いわば僕は論理的可能性のみを示すのであって,ある種の方法論を示すのではありませんし,永遠性を含むres singularisの観念が,知性のうちに必然的に生起しなければならないということを示すのでもありません。