スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援向日町記念&僕の見解

2012-01-29 18:43:52 | 競輪
 S級S班4人が顔を揃えた向日町記念の決勝。並びは海老根ー中村の東日本,柴崎ー星島で西日本,藤木ー村上義弘ー村上博幸の京都,北津留-小川で西国。
 海老根の前受け,3番手に北津留,5番手に柴崎で7番手から藤木という周回になったようです。残り2周のホームで藤木が動きを見せると,柴崎と北津留も上昇していき,1コーナーでは柴崎が先頭に。これを外から藤木がバックで叩ききって先行。柴崎が4番手を確保し,6番手に北津留,8番手が海老根となって一列棒状。藤木は緩めることなく駆け続け,村上義弘がバックから番手発進したので後ろはまっったく動くことができず,村上兄弟のマッチレースに。接戦となりましたが差した村上博幸の優勝で村上義弘が2着。3着も柴崎の流れ込み。
 優勝した京都の村上博幸選手は昨年の西王座戦以来のグレードレース優勝で,記念競輪はその直前の向日町記念以来の4勝目。当地は連覇となります。ここは藤木がいましたので,このようなレース展開となることが十分に予想され,差せるか差せないかの勝負。兄もいつものように後ろの動きと関係なく動いてくれましたので,少しばかり恵まれたかもしれません。昨年は好発進したもののその後は落ち込んでしまいましたので,今年は再上昇に賭ける1年となりそうです。
                         

 スピノザによる第二部定理九系証明に対する僕の見解は概ね次の通りです。
 まず,この証明Demonstratioが成功しているか失敗しているかと問われれば,僕は成功していると解答します。よって第二部定理九系において示されている内容に関しては,それが真理veritasであるということを僕は肯定します。これが最も基本的な立場ですから,これ以降はこのことを踏まえた上でご理解ください。
 僕はこの証明の訴訟過程にはいくらかの疑問があります。そしてそれは第二過程に関係します。単純にいって,観念の対象ideatumというとき,その対象というのを個物res singularisに限定しなければならない理由は,このこと自体のうちには含まれていないのではないかと僕は考えるのです。そもそもスピノザ自身,第二部定理三では,神Deusのうちには神の本性essentiaの観念があるということを認めています。スピノザの哲学では第二部定義二によって,事物の本性とその事物自身は同等のものであるということになっています。いい換えれば,神の本性を十全に認識するということは,神を十全に認識するということにほかなりません。つまり神の本性の観念があるということは,神の観念idea Deiがあるということに等しいのです。
 次に,第一部定理一六が示していることは,神のうちには無限に多くのinfinita事柄が無限に多くの仕方で生じるということだと理解することが可能です。いい換えれば第一部定理一八により,神はそうした無限に多くの事柄に対して内在的原因causa immanensなのです。したがって自然のうちに生じるあらゆる事柄は,神のうちに生じているということになるでしょう。つまり,観念の対象というのをこのように神,個物ではなくて神であると考えた場合にも,その対象のうちには確実に何事かが,というよりも無限に多くの事柄が生じるということになります。よってこのことからも観念の対象というのを,個物に限定しなければならない理由というのを,少なくとも積極的には見出すことができないのではないかと僕は考えるのです。
 したがって,僕はスピノザの訴訟過程の第二過程というのは,この手続きには不要なのであって,むしろ第一過程から第三過程にダイレクトに進むことによって証明するべきではないかと思います。
コメント
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