今後のシリーズの行方を占う意味で大きな一番となった第59期王将戦七番勝負第四局。
羽生善治王将の先手で久保利明棋王のごきげん中飛車。3Bの変化で持久戦でしたが,初日の午後に突如として戦いに入りました。
それが第1図からの▲2四歩。△同歩▲同飛に△3三桂はこのまま収めて構わないという意図が感じられる手ですが,さらに▲8五歩といきました。一見したところ,第1図の先手陣は,攻めてもよい陣型には見受けられませんから,この攻撃には後手も面食らうところがあったのではないかと推測します。
この将棋は終盤に入ってからも驚くような手が出ました。
それが第2図からの▲3三馬。しかしここは後手が冷静に対応しました。以下,△7七歩成と攻め合い,▲8四桂の王手にあっさり△同銀。▲同金に取った桂馬で△8七桂の王手。▲同銀△同とで後手勝勢。これはいかにも急転直下で,おそらくは先手に大きな誤算があったのでしょう。
久保棋王が勝って3勝1敗と王将奪取に王手。ごきげん中飛車で羽生王将に勝ったのはこれが初めてだそうで,このエース戦法で1勝を上げたのは,ただの1勝以上に大きな価値があるものと思います。
今回の考察の主旨というのは,あくまでも第二部定理四九系に関する経験論からの補完であって,当該する系に関して何らかの疑問を呈するとかそれを解明していくとかいうものではありません。しかしながら,哲学というものは,とくにスピノザの哲学というものは,きわめて論理的なものです。したがって,これは今回の考察に限ったことではなく,どんな事柄であったとしても,それをいくら経験論的な観点から詳細に記述することによって主張したとしても,もしもそれを論理的な仕方によって証明するということができないのであれば,その記述は無効であると僕は考えます。すなわち経験論的観点からの主張というのは,あくまでも論理的な観点から同じことが証明された上で,初めて意味をもってくるのだと思います。つまり,経験論的な主張は,あくまでも論理展開の補完にすぎないということです。
このこと自体は,たとえば第二部定理四〇から明らかだといえます。もしもある事柄が論理的に証明されるならば,それは十全な観念から十全な観念が生じるということであり,すなわち真理から真理が生じるということです。ところが,第四部定理四により,人間は受動から免れ得ないのですから,経験というものは常に,少なくともいくらかは,人間の受動状態を含みます。したがって第三部定理一により,経験論的な主張は,混乱した観念による主張,すなわち虚偽による主張である可能性を否定しきれるものではないのです。
第三部定理二とか,あるいはゼノンの逆説について考察した内容は,確かに僕たちが普通はそのように確信していること,すなわち経験的にそう思い込んでいるようなことの中には,虚偽が含まれているということを明らかにしていると僕は思います。よって今回の考察の主旨は,あくまでも経験論的な事柄ですが,それを始める前に,少なくとも第二部定理四九系が,論理的に正しいということを証明しておく必要があるでしょう。
羽生善治王将の先手で久保利明棋王のごきげん中飛車。3Bの変化で持久戦でしたが,初日の午後に突如として戦いに入りました。
それが第1図からの▲2四歩。△同歩▲同飛に△3三桂はこのまま収めて構わないという意図が感じられる手ですが,さらに▲8五歩といきました。一見したところ,第1図の先手陣は,攻めてもよい陣型には見受けられませんから,この攻撃には後手も面食らうところがあったのではないかと推測します。
この将棋は終盤に入ってからも驚くような手が出ました。
それが第2図からの▲3三馬。しかしここは後手が冷静に対応しました。以下,△7七歩成と攻め合い,▲8四桂の王手にあっさり△同銀。▲同金に取った桂馬で△8七桂の王手。▲同銀△同とで後手勝勢。これはいかにも急転直下で,おそらくは先手に大きな誤算があったのでしょう。
久保棋王が勝って3勝1敗と王将奪取に王手。ごきげん中飛車で羽生王将に勝ったのはこれが初めてだそうで,このエース戦法で1勝を上げたのは,ただの1勝以上に大きな価値があるものと思います。
今回の考察の主旨というのは,あくまでも第二部定理四九系に関する経験論からの補完であって,当該する系に関して何らかの疑問を呈するとかそれを解明していくとかいうものではありません。しかしながら,哲学というものは,とくにスピノザの哲学というものは,きわめて論理的なものです。したがって,これは今回の考察に限ったことではなく,どんな事柄であったとしても,それをいくら経験論的な観点から詳細に記述することによって主張したとしても,もしもそれを論理的な仕方によって証明するということができないのであれば,その記述は無効であると僕は考えます。すなわち経験論的観点からの主張というのは,あくまでも論理的な観点から同じことが証明された上で,初めて意味をもってくるのだと思います。つまり,経験論的な主張は,あくまでも論理展開の補完にすぎないということです。
このこと自体は,たとえば第二部定理四〇から明らかだといえます。もしもある事柄が論理的に証明されるならば,それは十全な観念から十全な観念が生じるということであり,すなわち真理から真理が生じるということです。ところが,第四部定理四により,人間は受動から免れ得ないのですから,経験というものは常に,少なくともいくらかは,人間の受動状態を含みます。したがって第三部定理一により,経験論的な主張は,混乱した観念による主張,すなわち虚偽による主張である可能性を否定しきれるものではないのです。
第三部定理二とか,あるいはゼノンの逆説について考察した内容は,確かに僕たちが普通はそのように確信していること,すなわち経験的にそう思い込んでいるようなことの中には,虚偽が含まれているということを明らかにしていると僕は思います。よって今回の考察の主旨は,あくまでも経験論的な事柄ですが,それを始める前に,少なくとも第二部定理四九系が,論理的に正しいということを証明しておく必要があるでしょう。