スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

競輪祭&不可能の場合

2009-01-26 19:12:55 | 競輪
 開催時期の変更のため,今年は2度行われることになっている競輪祭。25日の決勝は2008年度のものです。
 並びは山崎ー伏見の福島,山田ー山内ー坂上の中部,北津留ー井上ー小野の九州で,飯嶋が初手から井上と競り。中部が前で受け,中団に福島,後方から九州という周回になりました。
 残り2周のホームではすでに北津留選手が上昇を開始。バックではそのまま前を叩いて先行態勢。井上選手が引いていたので番手は飯嶋選手でしたが,打鐘から北津留選手の山おろし気味の先行に合わせて井上選手がインを突いてあっさりと番手を死守。5番手になった山田選手がバックから捲り,これに合わせて井上選手も発進。しかし8番手の山崎選手がさらにその上を捲りきって優勝。山崎選手の内に行った伏見選手がきわどく迫って2着。山田選手に勢いをもらった山内選手が3着でした。
 優勝した福島の山崎芳仁選手は昨年の寛仁親王牌以来のGⅠ5勝目。競輪祭は一昨年に優勝していてこれが2勝目。現役最強の選手はだれかといわれれば間違いなくこの選手であり,ここはその実力を遺憾なく発揮しました。それにしても室内バンクで8番手から捲ってしまうのですから口をあんぐりです。
 そう考えるとこの捲りに付いていってあわや差すというところまでいった伏見選手も相当な強さ。今年も北日本中心に競輪界は動いていきそうです。

 スピノザの哲学においては,不可能であるということは,必然的であるということの反対の意味で用いられるわけです。したがって,僕たちがある事柄についてそれを不可能であると正しく,つまり真の観念として認識している場合には,そうした事柄についての表象は,真理と表象の関係と同一でなければなりません。なぜなら,ある事柄については,それが必然的であると認識されようと,あるいは不可能であると認識されるのであっても,それが真の観念としてある限りにおいては,どちらも真理であることには違いないからです。たとえば,平面上の三角形の内角の和は必然的に180度であると認識しようと,逆にそうした三角形の内角の和が180度でないことは不可能であると認識しようと,これはどちらも真の観念です。もちろんこの場合の三角形に関する認識は,因果関係の連鎖でなく,事物の本性についての認識ですから,やや異なった意味合いもあるでしょうが,これらの観念いずれかのそれ自体から,三角形の内角の和が180度であることを否定するような表象像というのは生じようがありません。もしも人間の精神のうちにそうした観念が生じてくるのであれば,それは別の原因から生じてくると考えるべきだと思います。
 なお,このことからも分かるように,ここでは不可能であるということに関しても,必然的であるということと同様に,観念としてはそれを真の観念として考えます。したがって,もしもある人間が,自分の精神のうちにある混乱した観念に依拠することによってそれを不可能であると判断するような場合については,こうした考察の限りではありません。ただしこのような誤謬は,ある事柄を必然的であると思い込むような誤謬に比べるなら,現実的に人間の精神のうちに生じることは少ないのではないかと思います。
コメント
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