新年最初の記念競輪となった立川記念(動画)は,7日に決勝が争われました。
並びは新田ー佐藤の北日本,木暮ー兵藤の群馬,柴崎ー加藤の中部,渡部ー梶応の愛媛で,村上が単騎。群馬,中部,愛媛,北日本で村上が最後尾という周回。
新田選手の上昇に合わせて柴崎選手がバックから上がり,打鐘から先行態勢に。3番手を木暮選手と争いながら取りきったのが渡部選手,5番手も取り合った末に木暮選手となり,北日本勢は圏外に。バックから立て直した木暮選手が捲っていきましたが渡部選手が合わせて発進。直線は番手から出た加藤選手とのマッチレースになりましたがこれを捕えて優勝。加藤選手が2着で,バック7番手の村上選手が3着に食い込みました。
優勝した愛媛の渡部哲男選手は昨年7月の小松島記念以来となる記念競輪制覇。ここは何といっても3番手を取りきれたことが最大の勝因でしょう。年始からいい成績を収めましたので,ヤンググランプリは勝っている選手ですが,今年は2度目のビッグ制覇に向けて邁進してほしいです。それだけの力はあるものと思います。
レース全体でいえば,新田選手の動向が少し消極的だったかなと思います。佐藤選手にしてみれば残念な共倒れだったのではないでしょうか。
これで人間の精神が事物を想像するということがいかにして可能であるのかということを,スピノザの哲学に対して忠実に,思惟の属性という観点からも,延長の属性という観点からも証明することがほぼできたといえると思います。そういう意味では,このテーマの考察をする契機となった,『エチカ』における表象に関する説明の不備というのは,解消されたといっていいのでしょう。しかし僕自身には,もうひとつ,積み残した問題が想像という表象に関連してあると思われますので,万全を期するために,それについて最後に考えていこうではないかと思います。
想像がいかにして可能になるのかということを証明し得たと僕はいいました。しかしこれは,人間の精神がいかなる事柄について想像するのかということを見つめてみた場合には,部分的,全体に対してはかなり広い範囲を占めているといえるかもしれませんが,それでもなお部分的なものにとどまっているように思えます。いい換えれば,僕のここまでの説明によって可能とされる人間の精神による事物の想像は,ある限定された範囲の中でのみ成立していて,人間が実際になす想像という思惟作用のうちにはなおそこからこぼれ落ちるようなものがあるという反論を許す余地があるようにも思うのです。したがって,人間の精神が何らかの事物を想像し得るということについては,ここまでの考察ではっきりと明らかにすることができましたので,考えられるそうした反論に対しても弁明しておきます。
並びは新田ー佐藤の北日本,木暮ー兵藤の群馬,柴崎ー加藤の中部,渡部ー梶応の愛媛で,村上が単騎。群馬,中部,愛媛,北日本で村上が最後尾という周回。
新田選手の上昇に合わせて柴崎選手がバックから上がり,打鐘から先行態勢に。3番手を木暮選手と争いながら取りきったのが渡部選手,5番手も取り合った末に木暮選手となり,北日本勢は圏外に。バックから立て直した木暮選手が捲っていきましたが渡部選手が合わせて発進。直線は番手から出た加藤選手とのマッチレースになりましたがこれを捕えて優勝。加藤選手が2着で,バック7番手の村上選手が3着に食い込みました。
優勝した愛媛の渡部哲男選手は昨年7月の小松島記念以来となる記念競輪制覇。ここは何といっても3番手を取りきれたことが最大の勝因でしょう。年始からいい成績を収めましたので,ヤンググランプリは勝っている選手ですが,今年は2度目のビッグ制覇に向けて邁進してほしいです。それだけの力はあるものと思います。
レース全体でいえば,新田選手の動向が少し消極的だったかなと思います。佐藤選手にしてみれば残念な共倒れだったのではないでしょうか。
これで人間の精神が事物を想像するということがいかにして可能であるのかということを,スピノザの哲学に対して忠実に,思惟の属性という観点からも,延長の属性という観点からも証明することがほぼできたといえると思います。そういう意味では,このテーマの考察をする契機となった,『エチカ』における表象に関する説明の不備というのは,解消されたといっていいのでしょう。しかし僕自身には,もうひとつ,積み残した問題が想像という表象に関連してあると思われますので,万全を期するために,それについて最後に考えていこうではないかと思います。
想像がいかにして可能になるのかということを証明し得たと僕はいいました。しかしこれは,人間の精神がいかなる事柄について想像するのかということを見つめてみた場合には,部分的,全体に対してはかなり広い範囲を占めているといえるかもしれませんが,それでもなお部分的なものにとどまっているように思えます。いい換えれば,僕のここまでの説明によって可能とされる人間の精神による事物の想像は,ある限定された範囲の中でのみ成立していて,人間が実際になす想像という思惟作用のうちにはなおそこからこぼれ落ちるようなものがあるという反論を許す余地があるようにも思うのです。したがって,人間の精神が何らかの事物を想像し得るということについては,ここまでの考察ではっきりと明らかにすることができましたので,考えられるそうした反論に対しても弁明しておきます。