スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&様態の必然性

2007-01-25 22:23:59 | 将棋
 王将戦第三局。今日は昼のうちにネットにアクセスできず、開いたのが6時半頃。98手目の△8九飛成の局面でした。ここでは先手の玉が穴熊から引きずり出されているのに対し、後手玉は遠くに竜を作られてはいるものの金銀3枚に守られていて、羽生王将の勝勢でした。この局面からも理解できるように、中盤では先手は馬を作りはしたものの、ほぼ羽生王将が攻める展開で、佐藤棋聖は防戦一方。どうやら9筋から雀刺しという構想自体に問題があったようで、羽生王将の完勝というより佐藤棋聖が完敗したといった方が正しいかもしれません。時間がありましたので、一旦開いてからは終局までずっと(とはいえ30分ほど)見ていたのですが、すぐ終わると思っていたわりには手数としては意外に長く続きました。最近は佐藤棋聖の将棋を見る機会が自然と多くなってきているわけですが、第二局のときにはわりと早い段階で諦めていたのではないかといいましたが、全体の印象として、佐藤棋聖は局面を楽観的に考えているという印象があり、苦しいとは感じていても傍で見ているほどではないのだと思います。勝ち目がないと思えるような局面でも延々と粘り続けられるのは、たぶんそういった面が影響しているのではないでしょうか。苦戦の局面でも周囲を驚かせるほどに平然と指し続けられるというのは、将棋に限らず、勝負師としてひとつの才能なのではないかと感じます。
 明日は競輪祭2日目。メーンはダイヤモンドレースです。金成が単騎、関東6人は平原-神山-飯嶋と手島-兵藤-阿部の2ライン、村上-浜口の近畿中部という並び。ここは後続がもつれそうで平原選手◎に期待。神山選手○か手島選手▲を相手に考えます。

 第一部定理一六により、神の本性から無限に多くの様態が必然的に生じるわけです。これが、個々の様態の直接的な原因が神であるということを帰結します。一方、第一部公理三によれば、原因が与えられさえすれば必然的に結果が生じるわけですから、必然性ということばの置き換えのときにもいったように、結果であるものの必然性というのは原因であるものの必然性に完全に依存するのです。このことから、無限に多くある様態のどの様態をとってみても、その様態自身の必然性は神の必然性に依存し、あるいは、様態の必然性について考えることは神の必然性について考えることと同じことである、すなわち、様態の必然性とは神の必然性そのものであるということになります。つまり、定理一六にはそういった意味が含まれているのです。この解釈は、第二部定理四四系二の証明の中でスピノザも示していますから問題ないところだと思います。そこでこのことを今度は第一部定理一五に訴えれば、さらに神と様態との関係が明らかになってくるのではないかと思うのです。
コメント
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