戦争のささやかな体験の一例・・・江嵜企画代表
神戸大空襲は1945年3月17日というから60年前の話である。
神戸市内から東約8キロ離れた阪神電車青木駅そばの
祖母の自宅の中庭から真っ赤に焦げた夜景を見た。
東の窓からは青白い色の夜景が記憶に残っているが
それは大阪空襲だった。
近くは赤く、遠くは青く目に映るらしい。当時6歳の子供心にも
不思議な光景であり、いまもって記憶から消えない。
祖母に連れられて神戸三宮の神戸の自宅の焼け跡を
見た。そのときの情景が今も鮮明に脳裡に焼き付いている。
祖母が、あそこが台所、ひょろひょろと立っている管は
水道管だと教えてくれた。
祖母が孫の私を戦争体験させてくれたお蔭で
こうしてかすかながら戦争を知ることが出来る。
可愛がってくれたという叔父は当時ビルマ戦線で
戦死した。頭部貫通銃創という名前を覚えている。
ところで、10年前神戸は大地震に見舞われた。
阪神青木駅は、空襲はまぬかれたが地震では
築大正8(1919)年の家は全壊した。
震災のあと青木の知人は、震災より空襲の方が
はるかに怖かったと話した。
青木には現新明和工業、当時の川西航空機深江工場で
ゼロ式戦闘機の部品を生産していたが、米軍の標的にされて
壊滅した。
神戸は記録によれば、3月17日と5月11日、
6月5日と3回空襲を経験している。
川西航空機が空爆を受けたのは亡父の
話では5月11日である。
母校本庄小学校は川西航空機と道一つ隔てて
建っており当然の事のように米機の標的にされた
ようだ。
三宮空襲のあと父を青木に残してわが家族は
姫路市の北10キロの奥の過疎村に縁故疎開した。
当時は学童疎開と縁故疎開があった。
終戦の年(1945年)の12月に1年生のクラスに
戻ったが、小学校が修復したのは3年生の秋だったと
記憶している。
当時校庭には焼夷弾の残骸がまだ積み上げられていた
ことを憶えている。
青木の家の周りには「爆弾池」と子供仲間が呼んでいた
池がそこここにあった。はだしで池に飛び込んでガラスの
破片で足の裏を切ったあとがいまも残っている。
青木の家の防空豪の記憶もかすかに残っている。
しかし、親戚の家族だけでなく、防空豪の中で命を落とした
人が多かったと聞く。
焼夷弾も怖いが、1トン爆弾による被害の方が
はるかに大きかったことは十分想像出きる。
阪神電車の踏み切り警手が爆弾でふっ飛ばされて
なくなられたとあとで聞いた。空襲警報が発令されても
電車は止められなかったのであろう。
本庄小学校は震災でも被害を受けたが建てかえられ
当時の面影はない。
新明和工業は、今は飛行艇を生産しているが
軍需工場の面影はない。
青木の浜には時々潜水艦が出入りしているらしいが
表面的にはいまは平和そのものに見える。
神戸が米軍の空爆の標的にされたのは、
神戸製鋼所、川崎製鉄、川崎重工業、三菱重工など
巨大な軍需工場が密集していたためである。
川崎製鉄は戦後、千葉へ工場を移転して成功した。
現在は日本鋼管と統合してJFEHGとして高収益企業に
豹変した。
神戸製鋼所は地震で壊滅的被害を受け、
神戸工場は閉鎖に追い込まれたが、幸いにも
降って沸いたような鉄鋼市況好転で会社としては
息を吹き返したのは神戸の人間としても喜ばしい
限りである。
先の青木の知人は震災のあとなくなったが、
生前、彼は空襲の時は、頭の上から焼夷弾が降って
きた。爆弾が炸裂した。あのときのことを思い出すが
空襲は本当に怖かったと話していた。
60年の歳月が流れていま日本という国は平和を
満喫している。(了)
Kenさんのスケッチは、ブログ容量の関係で削除させて頂きましたが、11月1日に、「かんぽう」さんから『ユニークに乾杯』というタイトルで出版予定です。定価2.000円。
ISBN978-4-904021-03-3 C0071 1905E
株式会社 かんぽうサービス ℡06-6443-2173
大阪市西区江戸堀1-2-14 肥後橋官報ビル6F(〒550-0002)
神戸大空襲は1945年3月17日というから60年前の話である。
神戸市内から東約8キロ離れた阪神電車青木駅そばの
祖母の自宅の中庭から真っ赤に焦げた夜景を見た。
東の窓からは青白い色の夜景が記憶に残っているが
それは大阪空襲だった。
近くは赤く、遠くは青く目に映るらしい。当時6歳の子供心にも
不思議な光景であり、いまもって記憶から消えない。
祖母に連れられて神戸三宮の神戸の自宅の焼け跡を
見た。そのときの情景が今も鮮明に脳裡に焼き付いている。
祖母が、あそこが台所、ひょろひょろと立っている管は
水道管だと教えてくれた。
祖母が孫の私を戦争体験させてくれたお蔭で
こうしてかすかながら戦争を知ることが出来る。
可愛がってくれたという叔父は当時ビルマ戦線で
戦死した。頭部貫通銃創という名前を覚えている。
ところで、10年前神戸は大地震に見舞われた。
阪神青木駅は、空襲はまぬかれたが地震では
築大正8(1919)年の家は全壊した。
震災のあと青木の知人は、震災より空襲の方が
はるかに怖かったと話した。
青木には現新明和工業、当時の川西航空機深江工場で
ゼロ式戦闘機の部品を生産していたが、米軍の標的にされて
壊滅した。
神戸は記録によれば、3月17日と5月11日、
6月5日と3回空襲を経験している。
川西航空機が空爆を受けたのは亡父の
話では5月11日である。
母校本庄小学校は川西航空機と道一つ隔てて
建っており当然の事のように米機の標的にされた
ようだ。
三宮空襲のあと父を青木に残してわが家族は
姫路市の北10キロの奥の過疎村に縁故疎開した。
当時は学童疎開と縁故疎開があった。
終戦の年(1945年)の12月に1年生のクラスに
戻ったが、小学校が修復したのは3年生の秋だったと
記憶している。
当時校庭には焼夷弾の残骸がまだ積み上げられていた
ことを憶えている。
青木の家の周りには「爆弾池」と子供仲間が呼んでいた
池がそこここにあった。はだしで池に飛び込んでガラスの
破片で足の裏を切ったあとがいまも残っている。
青木の家の防空豪の記憶もかすかに残っている。
しかし、親戚の家族だけでなく、防空豪の中で命を落とした
人が多かったと聞く。
焼夷弾も怖いが、1トン爆弾による被害の方が
はるかに大きかったことは十分想像出きる。
阪神電車の踏み切り警手が爆弾でふっ飛ばされて
なくなられたとあとで聞いた。空襲警報が発令されても
電車は止められなかったのであろう。
本庄小学校は震災でも被害を受けたが建てかえられ
当時の面影はない。
新明和工業は、今は飛行艇を生産しているが
軍需工場の面影はない。
青木の浜には時々潜水艦が出入りしているらしいが
表面的にはいまは平和そのものに見える。
神戸が米軍の空爆の標的にされたのは、
神戸製鋼所、川崎製鉄、川崎重工業、三菱重工など
巨大な軍需工場が密集していたためである。
川崎製鉄は戦後、千葉へ工場を移転して成功した。
現在は日本鋼管と統合してJFEHGとして高収益企業に
豹変した。
神戸製鋼所は地震で壊滅的被害を受け、
神戸工場は閉鎖に追い込まれたが、幸いにも
降って沸いたような鉄鋼市況好転で会社としては
息を吹き返したのは神戸の人間としても喜ばしい
限りである。
先の青木の知人は震災のあとなくなったが、
生前、彼は空襲の時は、頭の上から焼夷弾が降って
きた。爆弾が炸裂した。あのときのことを思い出すが
空襲は本当に怖かったと話していた。
60年の歳月が流れていま日本という国は平和を
満喫している。(了)
Kenさんのスケッチは、ブログ容量の関係で削除させて頂きましたが、11月1日に、「かんぽう」さんから『ユニークに乾杯』というタイトルで出版予定です。定価2.000円。
ISBN978-4-904021-03-3 C0071 1905E
株式会社 かんぽうサービス ℡06-6443-2173
大阪市西区江戸堀1-2-14 肥後橋官報ビル6F(〒550-0002)