N病院眼科病棟から六甲山を遠望
江嵜企画代表・Ken
N病院眼科病棟から手術前、六甲連山を遠望してスケッチ、退院後自宅で軽く彩色した。画面左に西宮郵便局、左手ビルの奥にNTTの塔がかすかに顔を覗かせる。画面正面に某信用金庫、ビルの足元に国道2号線とビルを隔ててJR神戸線が共に東西に走る。山すそにかけて日増しに宅地開発が進んでいることもよくわかる。
N病院とは筆者42歳の後厄の年に網膜剥離手術で入院して以来のご縁だから長い。病室が決まり廊下を歩いていたら後ろから筆者の名前を呼ぶ声がした。ある看護師さんだった。「Fです。お久しぶりです」という。きょとんとしていると「あの時スケッチをいただきました。今も持っています。もう定年を迎えました」と一言、二言声をかけて、足早に駆け抜けていかれた。退院の日、Fさんに眼科病棟からのスケッチと今年の干支猪の色紙のコピーを届けた。
手術の予定時間は午後3時20分だった。4人部屋の病室のベット頭の位置に「絶食」の張り紙があった。係の看護師さんは「半分くらいはOKだと先生から聞いています。」と説明した。昼食に出されたカレーライスとスープを「半分、半分」と言い聞かせながらおいしく頂いた。今回の手術は左眼白内障レンズ脱臼、摘出、レンズ挿入、縫着、2時間とあった。車イスが病室に運ばれた。別室でまつ毛の切り落としが始まった。20分はかかったように記憶している。看護師さんが「前の方の手術が遅れているようです。9時半から手術は始まりました。13人の手術が予定されており3人先生が当たられます」と教えてくれた。
筆者が「「離陸」が遅れているのですね」とおどけて言うと「そうですね。今の様子では4時40分の「離陸」になりそうです。」と筆者の話に看護師さんは見事合わせて答えてくれた。2時間ドラマが手術台の上で始まった。局部麻酔だから執刀医のM先生と助手の先生看護師入れて計5人とのやり取りが否応なしに耳に入る。「上の方を見て下さい。」「右下の方を見てください」などと、その時々のメスの位置に合わせてであろうM先生から「指示」が出た。
白内障レンズを挿入する手術は最近簡単とされ日帰り手術が一般化しているが、筆者のケースは脱臼したレンズを取り出したあと新たにレンズを挿入、縫着する手術である。簡単には済まないなと、あらかじめ覚悟していた。「離陸」が遅れていたことと2時間の長丁場だからと自分なりに大事を取って看護師さんの了解をもらいトイレに2回行った。ところがである。手術開始ほぼ1時間ほどで哀れコントロールが効かなくなった。やむなくM先生に白旗を上げた。
「看護師さんが手配しますからお待ちください」とのそば付きの看護師のことばの後、くだんの用具が装着されるまでの時間の長さに往生した。事なきを得てさっぱりしたのはいいが手術はそれからが本番だった。M先生の「予定より30分余計かかった」という声が耳に届いた。「病室に着いた時間は午後7時でしたね」とあとで看護師さんから聞いた。手術を受けた左眼から頭部にかけて熱の塊に取り囲まれたような猛烈な痛みに襲われた。28日(月)退院後初めての検診があった。2本抜糸された。あとまだ抜糸が残っているそうだ。次回の検診日は2月4日(月)と決まった。M先生に「白内障のレンズの直径はどれくらいですか」と聞くと「一般的には直径7ミリです。今回は8ミリレンズを使いました」と答えられた。
話を手術中の出来ごとに戻す。手術の様子を反芻するとこうだ。今回の手術の原因は挿入したレンズの脱臼。M先生と助手の先生とのやり取りのなかで「レンズが外れないようにする。」というM先生の強い意志のようなものがビンビン伝わった。8ミリレンズという少し大きめのレンズが選ばれたのもそのためだったかもしれない。
音は聞こえるが見ることは出来ない。自分で見て来たように言えば、M先生は挿入レンズが眼の中心部分に完璧に収まるようにじっくりと時間をかけておられたことが助手の先生とのやり取りからわかった。先の術後検診日に診察室でのM先生の最初の言葉が「先日はお疲れさまでした」だった。今回の手術は一つ間違えば再手術というとんでもないリスクを伴う。出来ればやらないに越したことはない。そのため、M先生は手術をいつ行うかレンズ脱臼の徴候を指摘後、2年近くかけて手術のタイミングを見計らっておられた。それが今だと、昨年末の検診の際に「1月21日に手術をやりましょう」と日時を設定されたのであろうと想像している。
手術台では全てお任せの身ながらもいろいろなことを考えていた。手術の過程で、人間一生、真剣に生きるとはどういうことかという、とんでもないご縁をM先生からいただいたことに感謝している次第である。(了)