実話「阪神淡路大震災‐25周年」
江嵜企画代表・Ken
阪神淡路大震災‐25周年、1月17日の当欄で震災当日の筆者実体験の一部をご紹介したところ、愛読者の一人のSさんからS氏主宰の「直観塾」で話してくれませんかと依頼があった。3月度の会合でお願いしていたが、Sさんのよんどころない事情で6月度例会での開催が正式に決まり楽しみにしている。
添付した写真は震災直後の国道2号線「夙川橋」の様子を伝える一枚である。「震度7」~何が生死を分けたのか~NHKスペッシヤル取材班(KKベストセラーズ発行)、169ぺージ掲載写真をお借りした。
同書では「耐震化は進んだのか」、「地震防災の原点は何なのか」など数々指摘されている。予想外の死者を出した「火災対策」に加えて「渋滞対策」の重要性が改めて指摘されている。
震災当日、当時受験生だった長男の運転で筆者と阪神青木駅前の里で飼っていたワンちゃんのジロー、家内、長女さらに里で父と叔母を拾い大阪に向けて国道2号線に入った。
地震発生の朝5時46分から6時間ほど経過したお昼前だったが国道2号線は1分で数センチ刻みの渋滞が既に始まっていた。
先の「震度7」~何が生死を分けたか~」によると、国道2号線の渋滞は「南北を流れる夙川に東西にかかる「夙川橋」に行き当たる。地震により橋げたがずれ、30センチほど20メート段差が出来ていた。
「当時撮られた航空写真によると東西南北全方向から「夙川橋」交差点に多数進入する車や火災を逃れる車の姿が映っている。ほとんどの車は迂回を余儀なくされていた。」と出ていた。
同書「渋滞に奪われた命~地震発生から5時間後以降~」の項によると、その時点ではまだ多くの生存者がいたことがその後の確認データでわかる。阪神淡路大震災では6,434人が亡くなった。 全壊・全焼家屋11万棟にのぼった。どのように亡くなったのかについて、東灘区消防署の救助活動の全記録に「5,036人の死体検案書」が残されている。
同記録によれば1時間以内の死亡3,842 人の原因は圧迫死90%、圧迫死の内61%、2,116人が窒息死だった。時間を追って死者の数は増加した。
「渋滞被害」に関連して言えば、消防隊は、全国各地からかけつけてくれた。しかしその多くは、現場に着いたときには既に亡くなっておられた。震災の後、近くの喫茶店でしばしば耳にしたが「瓦礫の下から声が聞こえたがどうすることもできなかった」と話しておられた。多くの消防隊員からも同じ話が先の書物「震度7」にも紹介されている。「渋滞」がとにかくひどかった。通常なら30分で行ける距離だが6時間以上かかった」と述べている。
時間差に伴い死者の数は増えていった。「渋滞被害」は深刻だったが「火災被害」による犠牲者も数多く出た。
「火災被害」では神戸市長田区の火災事故がテレビなどで派手に報道されたが、東灘区の御影公会堂南に位置し阪神石屋川駅山側で多数の焼死者が出た。火事は地震発生時刻直後に阪神青木駅南の青木市場でも起こった。線路一つ隔てて里の家があった。地震で縁側の雨戸、障子がふっ飛び、表通りの塀も倒れたので素透しで火勢が見えたと亡父が話していた。青木市場では幸い死者は出なかった。時間的に材料を仕込み火をつけた直後に襲われ火事となった。「長田の火事は地震発生後4~5時間後の午前10時過ぎだった。」との証言が先の書「震度7」に出ている。それは「通電火災」といい地震直後に停電する。しばらくたって回復するがその際ストーブなどで火災に至る「通電火災」である。
「耐震補強」を怠ると手ひどい目にあう。先の書「震度7」によれば「阪神淡路大震災で神戸大39人、甲南大16人、関西学院大15人、神戸商船大5人など多くの学生の死者が出た。海外留学生に多く見られた。震災直後、ある灘区の学生下宿先を案内され、犠牲者が出た現場で話を聞いた。
震災実体験者の一人として、機会あるごとに恥かしがらずに自らの体験を話しかつ書き残しておきたい。(了)