ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

政治家の約束とは、これほど信用ならないものか

2008年06月18日 | 時事問題
asahi.com 2008年6月17日21時57分
消費税引き上げ「決断の時期」 首相、不可避との見方
 福田首相は17日、消費税の水準について「5%でやっているから、これだけ財政赤字を背負っているともいえる。決断しなければいけない、とても大事な時期だ。高齢化社会を考えると、道は狭くなってきている」と述べ、税率引き上げは避けられないとの見方を示した。
首相は日本の消費税率について「欧州に比べると非常に低い」と指摘したうえで、「(税率引き上げの)議論は随分やってきたが、政治決断できなかった」と語った。一方で、秋の税制抜本改革の際に引き上げに踏み切るかは明確にしなかった。

私の在任中は 消費税は上げませんと聴いたのは、空耳でしたか?
消費税率単独で5%は低いレベルだとか10%は妥当かと云うことは論じられない。社会の全システムの中で見なければならない。北欧諸国の消費税率は15%以上であるが、社会保障制度はまさに揺り籠から墓場まで行き届いている。健康保険制度、年金、教育、労働者・障害者保護などなどの比較の上で考えなければならない。日本の社会制度設計をよく議論しないと、財政を産業振興と社会保障と防衛費等にどう配分するかと云う支出面と、税・国債と云う収入面の議論をあわせ行いたいものである。官僚お抱えの審議会以外でやりたい。

冬柴国交相 責任のとり方が前時代的 

2008年06月18日 | 時事問題
asahi.com 2008年6月17日13時18分
11カ月「ただ働き」に 冬柴国交相また給与自主返納へ  
国土交通省北海道局長らによる官製談合事件を受け、冬柴国交相は17日の閣議後会見で、監督責任を取り3カ月間、大臣給与を自主返納する考えを明らかにした。相次ぐ不祥事により、冬柴氏の返納期間は在任21カ月のうちすでに8カ月に及んでおり、これで計11カ月が「ただ働き」になる。 逮捕された品川守局長を同日付で官房付とし、宿利正史官房長が併任する人事も明らかにした。

冬柴国交相のやるべきは、腐敗した官僚機構の手直し
冬柴国交相の姿を拝見していると、いつも官僚群の言いなりに、その権益を守る代弁者である。手玉にとっているのは官僚群である。大臣給料の返上という前時代的なパフォーマンスも官僚の指示ですかね?公明党が崩壊する日も近いような気がしますが。

読書ノート 河野稠果著 「人口学への招待」 中公新書

2008年06月18日 | 書評
人口学は人口減少と少子・高齢化をどこまで解明したのか 第10回
人口減少社会

 さていよいよ本論であるが、人口減少社会は好ましいか、憂うべきことかと云う設題である。50年後は私達はもう死に絶えた比の話になる。人口がが大きくなったために帝国主義は海外に生命線を開拓しようとしたと云う人もいれば、国力大いに進行し大国日本になったと云う人もいて価値観ではどちらにでも転がる。しかし欧州の大国といわれる国の人口は5000万人から8000万人である。「過密社会日本」と云う見方をする人は人口減少社会のメリットは豊かな生活を享受できるであるという。経済力は人口に比例すると云う人々は、人口減少は経済規模の縮小、労働力不足から生活水準の低下になるという。人口減少社会歓迎論は日本社会の構造改革を行って、子供や女性に優しい社会を構築できればウエルカムと云うのである。人口増加政策賛成派といっても妙案はないのである。ドイツでは家族政策の効果はゼロに等しいと言われる。結論は出ないが、下にその議論を紹介する。

 いままで人口問題は経済に密接に関係する問題として次のような書籍を読んできた。読書ノートにも紹介した。その結論を要約する。次の二書は共に人口減少を文明段階の自明の理として受け入れ、人口減少社会の設計と云う課題に取り組むのである。河野稠果著 「人口学への招待」はまだ人口減少に対して打つ手を考えようと云う論点となっている。人口学は科学なのか、経済政策学なのかどうもすっきりしない。人口学が経済政策だとして、人口増加策が30年から50年くらいかけて効を奏して人口置き換え出生率が2.05を超えたとしても、人口モーメンタム(運動量保存則)が30年以上継続するため、人口が一定のところで平衡になるには60年以上必要になる。スケールの大きな、国家百年の計である。

文芸散歩 「平家物語」 佐藤謙三校註 角川古典文庫

2008年06月18日 | 書評
日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第72回
平家物語 卷第十二

判官都落
土佐坊が斬られたことを、義経につけた密偵が鎌倉へ報じた。鎌倉殿は兄三河守範頼に討手を命じたが、従わなかったので範頼を討った。こうして北条氏に囲まれた頼朝は兄弟を滅ぼしたのである。つぎに北条四郎時政に六万騎をつけて都に討手に上らせたので、十二月三日義経は緒方三郎惟義ら五百騎で都落ちとなった。摂津国大物浦から住吉浦、吉野山、奈良、都、北陸、陸奥国へと放浪の旅となった。十二月七日に都に着いた北条四郎時政は翌日義経追討の院宣を得た。このあたりの院の根回しをしたのが、吉田大納言経房であったという。経房は権右中弁光房の子で切れ者の噂高く、平家、源氏の時もたくみに政事を差配して出世を重ねた。鎌倉殿は日本国の総追捕使(荘園に許可なく入り犯人を逮捕する権利)に任じられ、荘園に守護・地頭をおいて領地支配権を伸ばした。

六代
北条四郎時政は鎌倉殿の代官として都の守護にあった。「平家の子孫と言わん人、男子において一人も漏らさず」と平家狩りを厳しく行った。もはやさしたる平家の末は居なかったので、遠い些細な末裔までも見つけては殺したが、ある時中将維盛の若君六代御前というのが嵯峨の大覚寺に居るとの密告を得て、兵を指し向けた。大覚寺には中将維盛の北の方と乳母の女房と、十二歳の若君と十歳の姫君、そして従者の斉藤五・斉藤六が隠れ住んでいた。若君六代御前は捉われて六波羅に拉致され、命の尽きるのを恐れている時、乳母の女房はこの若君を出家さすと云うことで高尾の文覚上人に助けを求めた。文覚上人は鎌倉殿から謀反成就の時には褒章は思いのままという言葉を貰っているので、鎌倉殿に命乞いに出る二十日の間は猶予を得て鎌倉に下った。二十日も過ぎて上人が帰られないので痺れを切らした北条四郎時政は十二月十七日、六代御前を連行して鎌倉へ下った。駿河国千本松原と云うところで六代御前の首を討とうとしたところへ、馬に乗った文覚上人が現れ、頼朝の書状と判を見せて六代御前を貰い受け都へ上ったと云う。かなりの長文で人の命の掛かった緊迫したやり取りが展開され、読む人の息を継がせない文章である。平家物語の時代記録者としてだけでなく、ストーリーテイラーの面目躍如という観がする。

自作漢詩 「初夏快晴」

2008年06月18日 | 漢詩・自由詩


雨歇山青暑気     雨歇んで山青く 暑気は微なり

紅稀花謝翠成     紅稀に花は謝し 翠幃を成す

薫風首夏梅初熟     薫風の首夏 梅初めて熟し
   
庭陰苗苗猫子     庭陰に苗苗と 猫子肥ゆ

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(赤い字は韻:五微 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)