現代を生きる人間は国家とどう向き合い、国家をどう乗りこえるか 第8回
5)東大紛争 加藤総長代行執行部として (1)
警察権の行使を学内で認めないという「大学の自治」は、1968-1969年の大学紛争のときに大きくかわり、もはや警察不介入という意味の「自治」を取り戻すことは難しくなった。東大医学部紛争は1967年3月インターン制度にあり方をめぐって、36大学の2400人の青年医師連合が医師国家試験ボイコットをし、医学部がストライキに入ったことから始まる。東大医学部の自治会は1968年1月29日から無期限ストライキに突入し、医局長の「つるし上げ」を問題とした医学部当局は2月12日、4名の退学を含む17名の学生の処分を決定した。ところが処分した学生の選び方が恣意的で、つるし上げに参加していないアリバイのある学生まで処分した。当時の医学部長は豊川行平氏、医学部付属病院長は上田英夫氏でタカ派として知られ、大学評議会議長の大河内一男総長は医学部の教授会に差し戻し検討をお願いしたが、豊川・上田氏は強硬に処分を主張したころから事態をこじらせた。確かに医学部の教授会は権威主義的な面が強く、法学部教授会は大変リベラルであった。権威主義的な面が強い学部は文系では文学部、理系では医学部と相場が決まっていたようだ。その年の卒業式は総長が出席しない事態でとりやめになった。入学式は教官が警備に狩り出され、何とか開催できた。こうして話し合いを避ける総長に対して、6月15日学生は安田講堂を占拠し、6月17日大河内総長は機動隊を導入した。大河内総長は別にタカ派ではなく通常はむしろ左翼のハト派だったのだが、学生との対話ということが出来ず事態を悪化させるばかりであった。ここまでは総長のパーソナリティに問題があったようだ。大学は夏休みに入って何とか解決のめどをつけるため、①総長辞任、②医学部長と病院長の辞任と医学部処分再審査、③安田講堂占拠・ストライキ中止、暴力的行為の抑止を骨子とする8月10日告示を準備したが、毎日新聞がこれをスクープしたため総長がむくれて破綻した。
5)東大紛争 加藤総長代行執行部として (1)
警察権の行使を学内で認めないという「大学の自治」は、1968-1969年の大学紛争のときに大きくかわり、もはや警察不介入という意味の「自治」を取り戻すことは難しくなった。東大医学部紛争は1967年3月インターン制度にあり方をめぐって、36大学の2400人の青年医師連合が医師国家試験ボイコットをし、医学部がストライキに入ったことから始まる。東大医学部の自治会は1968年1月29日から無期限ストライキに突入し、医局長の「つるし上げ」を問題とした医学部当局は2月12日、4名の退学を含む17名の学生の処分を決定した。ところが処分した学生の選び方が恣意的で、つるし上げに参加していないアリバイのある学生まで処分した。当時の医学部長は豊川行平氏、医学部付属病院長は上田英夫氏でタカ派として知られ、大学評議会議長の大河内一男総長は医学部の教授会に差し戻し検討をお願いしたが、豊川・上田氏は強硬に処分を主張したころから事態をこじらせた。確かに医学部の教授会は権威主義的な面が強く、法学部教授会は大変リベラルであった。権威主義的な面が強い学部は文系では文学部、理系では医学部と相場が決まっていたようだ。その年の卒業式は総長が出席しない事態でとりやめになった。入学式は教官が警備に狩り出され、何とか開催できた。こうして話し合いを避ける総長に対して、6月15日学生は安田講堂を占拠し、6月17日大河内総長は機動隊を導入した。大河内総長は別にタカ派ではなく通常はむしろ左翼のハト派だったのだが、学生との対話ということが出来ず事態を悪化させるばかりであった。ここまでは総長のパーソナリティに問題があったようだ。大学は夏休みに入って何とか解決のめどをつけるため、①総長辞任、②医学部長と病院長の辞任と医学部処分再審査、③安田講堂占拠・ストライキ中止、暴力的行為の抑止を骨子とする8月10日告示を準備したが、毎日新聞がこれをスクープしたため総長がむくれて破綻した。
(つづく)