律令制天皇集権国家がスタートし天平文化が咲き乱れる奈良時代 第4回
1)律令国家の成立 (3)
8世紀の東アジアは比較的安定した状態であった。それは唐が吐蕃(チベット)との関係に忙殺されていたからである。新羅が統一朝鮮王朝を作り自信を持って倭と接したので倭と新羅の関係がギクシャクし、日本は大宝元年の遣唐使を送った。この遣唐使から初めて「日本」という国号が中国に伝えられた。日本のスタンスは微妙である。白村江で唐新羅連合軍と戦った「倭」の印象を弱め、別の国家「日本」で倭と縁を切りたかったようだ。唐に朝貢はするが冊封は受けない独立国家という外交方針を堅持した。大宝の遣唐使は北路の新羅経由をとらず、楊州を目指す南路の海路をとった。4隻以上の大型船団でむかった。以降天皇の代替わりには挨拶として大がかりな遣唐使を派遣すること7回に及んだ。日本としては唐の前の華夷秩序の存在(日本の方が新羅よりは上だいう自負心)を認めさせたかったのである。一方国内では、五畿七路という広域行政区画が出来上がっていたが、西と北には異民族が存在した。それが隼人と蝦夷である。隼人は九州の薩摩と大隈両国に住み、702年には反乱が起き大宰府が兵を派遣して討伐した。720年には隼人によって大隈国守が殺され大規模な反乱となった。大伴旅人が大将軍として鎮圧し、ようやく隼人の大規模反乱は治まった。こうしては隼人を「隼人群」に入れて、調庸をだす朝廷への服属が強要された。東北6県は「陸奥国」と呼ばれ、新潟,米沢、仙台以北に居住する人々は8世紀の朝廷の支配下にはなかった。彼らを蝦夷と呼んで、北の蝦夷居住区に城柵を設け、板東から移住させた人々を柵戸と呼び、彼らの居住区を拡大することで支配地を広げていった。8世紀を通じて隼人・蝦夷を支配下に治めるため出兵する帝国主義の時代であった。蝦夷の反乱は長く続き、720年隼人の反乱と呼応して按察使を殺害して反乱を起こしたが、隼人が屈服してからも724年陸奥海岸の反乱が起き、多賀城が設けられた。また780年にも伊治砦麻呂の反乱があり板東の兵士数万人を動員した。
1)律令国家の成立 (3)
8世紀の東アジアは比較的安定した状態であった。それは唐が吐蕃(チベット)との関係に忙殺されていたからである。新羅が統一朝鮮王朝を作り自信を持って倭と接したので倭と新羅の関係がギクシャクし、日本は大宝元年の遣唐使を送った。この遣唐使から初めて「日本」という国号が中国に伝えられた。日本のスタンスは微妙である。白村江で唐新羅連合軍と戦った「倭」の印象を弱め、別の国家「日本」で倭と縁を切りたかったようだ。唐に朝貢はするが冊封は受けない独立国家という外交方針を堅持した。大宝の遣唐使は北路の新羅経由をとらず、楊州を目指す南路の海路をとった。4隻以上の大型船団でむかった。以降天皇の代替わりには挨拶として大がかりな遣唐使を派遣すること7回に及んだ。日本としては唐の前の華夷秩序の存在(日本の方が新羅よりは上だいう自負心)を認めさせたかったのである。一方国内では、五畿七路という広域行政区画が出来上がっていたが、西と北には異民族が存在した。それが隼人と蝦夷である。隼人は九州の薩摩と大隈両国に住み、702年には反乱が起き大宰府が兵を派遣して討伐した。720年には隼人によって大隈国守が殺され大規模な反乱となった。大伴旅人が大将軍として鎮圧し、ようやく隼人の大規模反乱は治まった。こうしては隼人を「隼人群」に入れて、調庸をだす朝廷への服属が強要された。東北6県は「陸奥国」と呼ばれ、新潟,米沢、仙台以北に居住する人々は8世紀の朝廷の支配下にはなかった。彼らを蝦夷と呼んで、北の蝦夷居住区に城柵を設け、板東から移住させた人々を柵戸と呼び、彼らの居住区を拡大することで支配地を広げていった。8世紀を通じて隼人・蝦夷を支配下に治めるため出兵する帝国主義の時代であった。蝦夷の反乱は長く続き、720年隼人の反乱と呼応して按察使を殺害して反乱を起こしたが、隼人が屈服してからも724年陸奥海岸の反乱が起き、多賀城が設けられた。また780年にも伊治砦麻呂の反乱があり板東の兵士数万人を動員した。
(つづく)