ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 坂上康俊著 「平城京の時代」 岩波新書

2012年03月31日 | 書評
律令制天皇集権国家がスタートし天平文化が咲き乱れる奈良時代 第4回

1)律令国家の成立 (3)
8世紀の東アジアは比較的安定した状態であった。それは唐が吐蕃(チベット)との関係に忙殺されていたからである。新羅が統一朝鮮王朝を作り自信を持って倭と接したので倭と新羅の関係がギクシャクし、日本は大宝元年の遣唐使を送った。この遣唐使から初めて「日本」という国号が中国に伝えられた。日本のスタンスは微妙である。白村江で唐新羅連合軍と戦った「倭」の印象を弱め、別の国家「日本」で倭と縁を切りたかったようだ。唐に朝貢はするが冊封は受けない独立国家という外交方針を堅持した。大宝の遣唐使は北路の新羅経由をとらず、楊州を目指す南路の海路をとった。4隻以上の大型船団でむかった。以降天皇の代替わりには挨拶として大がかりな遣唐使を派遣すること7回に及んだ。日本としては唐の前の華夷秩序の存在(日本の方が新羅よりは上だいう自負心)を認めさせたかったのである。一方国内では、五畿七路という広域行政区画が出来上がっていたが、西と北には異民族が存在した。それが隼人と蝦夷である。隼人は九州の薩摩と大隈両国に住み、702年には反乱が起き大宰府が兵を派遣して討伐した。720年には隼人によって大隈国守が殺され大規模な反乱となった。大伴旅人が大将軍として鎮圧し、ようやく隼人の大規模反乱は治まった。こうしては隼人を「隼人群」に入れて、調庸をだす朝廷への服属が強要された。東北6県は「陸奥国」と呼ばれ、新潟,米沢、仙台以北に居住する人々は8世紀の朝廷の支配下にはなかった。彼らを蝦夷と呼んで、北の蝦夷居住区に城柵を設け、板東から移住させた人々を柵戸と呼び、彼らの居住区を拡大することで支配地を広げていった。8世紀を通じて隼人・蝦夷を支配下に治めるため出兵する帝国主義の時代であった。蝦夷の反乱は長く続き、720年隼人の反乱と呼応して按察使を殺害して反乱を起こしたが、隼人が屈服してからも724年陸奥海岸の反乱が起き、多賀城が設けられた。また780年にも伊治砦麻呂の反乱があり板東の兵士数万人を動員した。
(つづく)

読書ノート 吉川真司著 「飛鳥の都」 岩波新書

2012年03月31日 | 書評
聖徳太子から天武天皇へ 律令制中央集権国家の確立 第6回

2)大化改新 (2)
 645年6月孝徳天皇の即位、中大兄皇子の皇太子就任、左右大臣と内臣・国博士の任命によって新しい政権が誕生し、倭国最初の公式年号「大化」が定められ、「大化の改新」と呼ばれる政治プログラムの改革が始まった。8月には「東国国司」が任命され、8つのグループの諸国に国司が派遣され、そして「倭国六県」でも人民と土地調査がが命じられた。646年中大兄皇子は部民制の廃止を上奏した。貴族・豪族の私有の民を取り上げて公民となす、大化の改新の中核をなす政治的改革であった。部民制の廃止と官僚制の整備を一体化して断行した。公民制の新しい地方行政組織は「国ー評ー五十戸」という三段階となった。評とは「こうり 郡」で、五十戸とは「さと 里」のことである。常陸国風土記によると649年に6つの「コホリ」として新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂が定められ、653年には11の評に再編されたという。各国には倭政権より国司が派遣され評を統括したと思われる。大化3(647)年に13階冠位制、大化5(649)年にはさらに19階冠位制が施行された。これらの官僚制階位は天智帝、天武帝の時代にますます複雑化してゆく。そして高向玄理と僧旻は「八省百官」という中央官司機構を制度化したという。652年孝徳天皇は古い豪族の割拠する飛鳥盆地から、新天地難波長柄豊崎宮(今の大阪城の南)に遷都した。難波長柄豊崎宮は官僚制と公民制の中枢組織としての威容と機能を誇る使節として交通の要に建設された。孝徳天皇は仏教を国家イデオロギーの機軸に据えて保護育成と統制を加え国家王権の護持とした。帰朝した遣唐僧らがその中心となった。知識僧らが伝えたのは仏教だけではなく、儒教イデオロギーも儀礼とともに輸入された。豪族らの墳墓を改める大化2(646)年の「大化薄葬令」が出された。ここに大規模な墳墓から仏寺への埋葬へと改まった。
(つづく)

読書ノート 佐藤幹夫著 「ルポ-認知症ケア最前線」 岩波新書

2012年03月31日 | 書評
認知症ケアを担う人が地域と連帯し切り開く先進的取り組み 第8回

1) 認知症ケアとアクティビティケア
 認知症ケアにおいてレクレーションとかアクティビティケアは基本ではあるが、すべてではない。もっと人間的な暮らしを支えることが基本ではなかろうかという趣旨で、滋賀県守山市「藤本クリニック」の「物忘れカフェ」(デイサービス)の取り組みをルポした。小澤勲著 「認知症とは何か」においても、認知症を持つ高齢者にとって、認知症を生きるということその物がどのような体験として受け止められているか、どのような世界に生きているのかが問われるのである。医師たちは患者や家族に向かって話しかけるように易しい言葉で臨床を語るようになった。藤本医師は1990年より滋賀県立成人病センターの「物忘れチェック外来」に勤務した。このとき医師・看護師・ソーシャルワーカー・心理士・作業療法士・栄養士といった異職種メンバーによる「チームケア」を経験した。そして1999年に独立して藤本クリニックに「物忘れクリニック」を開設した。認知症専門のディサービスを立ち上げ、1日のプログラムを取り払い「その日1日何をするか、自分で決める」というコンセプトを打ち出した。生きる力が殺がれてゆくことへの対応である。「認知症になったことは諦めるが、これからの人生は諦めない」という利用者の言葉が印象的である。

 京都市「本能寺ディサービス」は「京都市えらべるディサービス」に取り組んでいる。運動、物つくり、音楽など数種類の活動を用意し、高齢者たちの希望を聞きながら小グループに編成する。一定期間にわたって計画的におこなうレクレーション活動である。実施マニュアルは存在するがその通りにやる必要は無い。「高齢者が楽しみ、やりがいを感じながら、意欲を持って個別ケアを実施することによって、生活機能を向上させ、介護予防となる事を目的としたディサービス」とマニュアルには書いてある。2009年には京都府だけでも40施設が実施している。通所型サービスの役割は家族の負担軽減だけではなく、利用高齢認知症者の社会体験や社会的役割確認でもある。具体的には「俳句班」、「物つくり班」、「運動班」、「音楽班」などがさらに細分されるのであるが、自主運営に出来るかぎり近づけている。スタッフの積極的な働きかけが必要なことはいうまでもない。「忘れた、できないといわせる問いかけではなく、答えることが出来る問いを発することである。これは認知症ケアの基本である」 宮津市「天橋の郷」ディサービスでは午前は「さくら工房」(編み物、縫い物の創作活動)、「遊々くらぶ」(園芸、運動、カラオケ、テレビゲーム)の小グループ活動、午後は介護枠を離れた小グループ活動で、外出活動(お寺参りなど)に取り組んでいたが、目的を持ってある場所へ外出するという活動は認知症予防にとって重要なポイントである。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「春日江村」

2012年03月31日 | 漢詩・自由詩
春浦翠微黄蝶飛     春浦は翠微に 黄蝶飛び

燦然紅日釣魚磯     燦然たる紅日 釣魚の磯

冷冷碧水沙鴎宿     冷冷たる碧水 沙鴎の宿
 
淡淡青山江燕帰     淡淡たる青山 江燕帰る


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(韻:五微 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)