ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月28日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第7回

2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革 (その2)

廃藩置県が強権の下で一段落すると、1871年9月には条約改正のために欧米に全権大使を派遣しようとする空気が高まった。1858年に幕府が外国と結んだ修好通商条約は治外法権があり関税自主権がないなど不平等条約であった。無邪気にも現状を説明して国家改造の方針を教えてもらおうとするものであった。岩倉外務卿が中心となって、薩長の要である木戸と大久保と佐賀閥の山口尚芳を加え、伊藤が調整する使節団である。実質的に伊藤がこの使節団の主導権を持った。岩倉卿の伊東への信頼が高い事、そして薩摩の保守派大久保に国家近代化の必要性を理解してもらうことが何を置いても重要だと考える伊藤の苦心が読みとれる。10月8日使節団の派遣が決定された。使節団の理事官として佐々木高行(土佐閥)、侍従長東久世、山田顕義(長州閥)ら7人が加わった。11月12日使節団一行48名、同行の留学生54名はアメリカ号に乗ってサンフランシスコに向けて出港した。1872年1月15日サンフランシスコに到着した。1月21日首都ワシントンに入った使節団は3月より条約改正交渉を開始した。ところが全権委任状がないことを指摘され、伊藤と大久保は日本に帰国し6月17日に委任状を持ってワシントンに戻った。最恵国条項によってアメリカと結んだ条約は他の国にも自動的に与えられることなど、アメリカは使節団の無知に驚いて条約交渉を中止した。木戸は条約交渉を設定した伊藤や森有礼らへの不信感を抱き、伊藤と木戸の間に微妙な亀裂が入った。そして大久保への不信も募り木戸はこんなお粗末な使節団に加わった自分への自己嫌悪感が増していった。外国語が全くできないことも加わって木戸は一種の鬱状態に陥った(夏目漱石のロンドンでの鬱と同じ)。その不信感は日本に帰国した1873年大蔵大輔の井上薫に向けて爆発した。木戸が神経衰弱になっているのに対して、同じく外国語が全くできない大久保は意外と積極性があった。陸軍国プロシア・ロシアの政体・軍制に興味があってこの両国に注目していた。この時以来伊藤は大久保の沈着・忍耐力に感心し大久保と親しくなっていった。伊藤が今回のように広く深く西欧を知るようになり、十数年後の日本帝国憲法制定まで、ドイツ風の保守的なスタンスを中軸とすることになった。列強に対抗するにはまず地に足をつけて近代化に励む必要がある。今回の遣欧使節団では木戸の感情の起伏には戸惑ったが、大久保から信頼されるようになったのは大きな収穫であった。1873年9月13日使節団は横浜に帰ってきた。それを待ち受けていたかのように、征韓論政変が始まるのである。73年1月留守政府は、ロシアの樺太領有問題、台湾・朝鮮問題が重要になったとして、大久保・木戸に帰国を命じるのである。大久保が5月、木戸は7月に帰国した。留守政府は韓国が日本の開国要請に応じないので全権使節を派遣しそれでも従わないなら討つべきであるという空気で動いていた。木戸帰国後の閣議のメンバーは当初の7人に、後藤象二郎(土佐閥)、大木喬任(佐賀閥)、江藤新平(佐賀閥)を参議に加えた。岩倉・木戸・大久保の使節団組は日本の内政改革が先で、朝鮮国と事を構えるのは反対であった。伊藤と岩倉が最も積極的に動き始め、10月には大久保が参議に就任し、10月14日の閣議では西郷が使節派遣を主張し大久保は反対し決着はつかなかった。小心者の三条太政大臣は西郷の辞任も怖いし大久保の辞任も恐れて顛倒する始末となった。そこで岩倉は吉井友実宮内少輔、徳大寺宮内卿を通じて、明治天皇へ自身の太政大臣代理就任を工作した。こうして岩倉は太政大臣代理に就任し、木戸は10月20日に伊藤を参議に推薦した。10月24日天皇の勅書という形で岩倉は朝鮮使節派遣という閣議決定を取り消した。西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議は辞任した。これを征韓論政変と呼ぶ。五参議が辞任したので、10月25日伊藤が参議兼工部卿に、勝海舟が参議兼海軍卿に、寺島宗則が参議兼外務卿に就任した。こうして政変を裏で動かした伊藤らは大輔という次官クラスが卿に昇進したことになり、なかでも伊藤はその参議のリーダ格になった。軍人として西郷に遠慮をした大久保はこの政変で動かず、陸軍卿のままで参議にはなれなかった。そして伊藤は病気で休み勝ちの木戸の代行という地位を獲得した。伊藤は木戸グループにいた紀伊閥の陸奥宗光を、大蔵省租税頭から大蔵小輔に昇進させたが折り合いがつかず、司法省へ持ってゆこうとしたが参議兼司法卿の大木喬任の反対で実現できなかった。1874年大蔵省を止めた陸奥は西南の役に加担したので獄に入れられた。1875年2月に不平士族の乱が佐賀で起きた。佐賀を管轄する軍は熊本鎮台で谷干城(土佐藩閥)が司令官であった。伊藤らは谷はいずれ裏切るだろうという推測をたて、大久保陸軍卿は野津少将を熊本鎮台に派遣した。3月佐賀城を攻略し首謀者江藤新平を捉えて斬首した。

(つづく)

読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月27日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第6回

2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革 (その1)

1868年4月維新新政府によって伊藤は神戸開港場管轄外国事務を任され、5月には大阪府判事兼外国官判事を命じられた。大阪府の副知事になると同時に神戸の外国事務一切を管轄した。そし同月兵庫県知事(開港場神戸周辺の狭い地域)に任命された。伊藤26歳の若さであった。得意な様子が伺われる。同年9月8日明治元年と改元された。この頃政府はまだ京都にあり、伊藤は外国人とのトラブルの政府を代表して折衝にあたった。不平等条約の下では外国人の犯罪を裁判にかけることはできなかった。伊藤は岩倉大阪府知事時代に「廃藩置県」という提案をして気に入られた。また長州閥の木戸孝允、井上薫、佐賀藩の大隈重信、紀伊藩の陸奥宗光らのグループと連絡を密にした。木戸グループでは明治元年、二年の段階ですでにイギリスの立憲君主制や欧州の共和政治を、日本の近代化のためのモデルとする動きがあった。1869年伊藤は会計官権判事に昇進し、木戸・井上薫らと東京に入った。伊藤の仕事は商法に関する幅広い権限を持つ部署の長であった。しかし伊藤の関心の中心は「廃藩置県」にあって、藩主が藩を朝廷に返すに当たって、藩主をそのまま世襲の知事にするか、官僚に置き換えるかであり、伊藤は藩主は爵位を授けて上院議員とすることで、新しい人材の登用を主張した。参与の木戸孝允は藩主の知事世襲に強く反対し、大久保や副島種臣らは時期尚早を主張した。kのため木戸グループの井上や伊藤は辞任して抗議し、驚いた岩倉や大久保は「世襲」の2字を削除し、ひとまず藩主262人を知事に任命し、公卿と諸侯を廃して華族と称することになった。政府は制度改革を行い太政官・左右大臣と参議の三職で国家の枢要を決めることになった。現在の閣僚クラスである。行政制度として六省を置き卿(長官)うぃ責任者とした。結局右大臣三条実美、大納言岩倉具視、徳大寺実則、参議には木戸、副島、前原、大久保、広沢が任命された。大隈は大蔵大輔、伊藤は大蔵小輔に任じられた。8月になって木戸グループは大蔵、民部という最重要官庁に、大隈、伊藤、井上薫の3人を送り込むことができた。木戸と伊藤は将来の立憲制導入と改革目標について共有するものが多かった。大隈は急進的な改革案をもって行政能力も高かったが、木戸が一番信頼したのは腹心筆頭の伊藤であったという。大蔵小輔伊藤と造幣頭井上薫は共同して租税の徴収体制の整備にあたり、東京-横浜間鉄道敷設事業の外債をロンドンで募集することに成功した。次いで阪神間鉄道設置計画に従事した。1871年三条・岩倉・大久保の協議により、大隈を参議に登用し民部省と大蔵省の兼任を説解き、民蔵分離を実施した。木戸グループは兵部省には影響力はなかったが、木戸は前原一誠と関係が悪くその人事にも介入した。兵部卿は有栖川宮熾仁親王であったが、長州の前原一誠兵部大輔がリードしていた。木戸は山県を欧米に留学させており前原の後任に考えて兵部小輔に任じた。これに反発した前原は一か月後大輔を辞任した。長州閥の山田顕義大丞に真意を問わさせている。明治2年ごろから伊藤は俊輔の名をやめ「博文」に改めた。かって高杉晋作が論語から「博文約礼」を引いて伊藤に勧めたという。1870年秋、伊藤はアメリカの理財に関する諸法令、国債、紙幣、為替、貿易に関する調査に出張した。随員は芳川顕正、福地源一郎ら21名であった。その結果は金本位制の採用、大蔵省職制改正となって現れた。伊藤は調査の合間にアメリカ合衆国憲法の制定過程を研究した。この年、伊藤は井上薫の兄の子である勇吉を養子として迎い入れた。生涯、伊藤と井上薫は政治上の同盟者になった。各藩が財政を握っている限り、政府の新事業の財源がままならないは当然で、1870年大久保利通は木戸や岩倉の同意を得て「廃藩」を実行するつもりで、鹿児島に帰ったままになっている西郷を東京に呼び出し薩長の団結を示す必要があった。10月に弟の西郷従道が使いに立った。伊藤はアメリカから帰国した1871年5月には廃藩の準備は出来上がっていた。6月には東京に薩長の約8000人の親兵を集めて、維新政府を固めた。三条は太政大臣、岩倉は外務卿に、木戸孝允・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信が参議、大久保利通が大蔵卿に、井上薫が大蔵大輔となった。大久保が大蔵卿になったのは大隈・伊藤・井上の急進的な改革派の木戸グループを抑えるためであった。7月14日藩を廃止して県とする詔が出て、200数十名の旧藩主知事は罷免された。大久保の大蔵卿就任によって、伊藤は阻害されるので、木戸は伊藤を大蔵省の代表にする工作もあったが、9月に伊藤は工部大輔に就任した。大久保は伊藤らの急進的改革を嫌った。とにかく伊藤は大久保に近代化というものを理解させなければ伊藤らの考える改革はできないと思い、岩倉使節団への参加を通じて大久保に接近した。

(つづく)

読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月26日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯  第5回

1) 青春篇ー倒幕へ戦い (その2)

1864年6月横浜に着いた井上と伊藤はイギリス公使オールコックに面会した。二人は藩主に攘夷を止めるよう説得するので、軍艦で国元に送ってほしいと依頼した。6月24日藩の政事堂において西洋事情を述べ攘夷の中止を4カ国に通告すべきを説いた。その結果藩主は天皇と幕府の命で動いているので、京都へ行って天皇の攘夷の命を取り下げさせるので3か月の猶予を待ってほしいというのが藩の回答であった。7月伊藤は外国艦隊との応対役を命じられた。この間に京都池田屋を新選組が襲い、6月15日長州藩は京都へ兵を入れ、久坂玄瑞、入江九一ら松下村塾の俊英が従った。このような騒然として状況で攘夷の中止は問題にならず、7月19日禁門の変で薩摩軍と戦って長州は敗れた。7月24日幕府は第1次長州征伐を西南21藩に命じた。1864年8月5日四カ国連合艦隊は馬関を砲撃し藩の砲台を占領した。8月7日高杉晋作を使いとした講和使節を四カ国艦隊に派遣し、8月14日講和条約が結ばれた。馬関における艦隊の航行安全を約束し、賠償金を支払うというものであった。長州藩の折衝係りの伊藤とイギリスの通訳アーネスト・サトウの連絡が始まった。伊藤はサトウに、長州は幕府の攘夷命令に従ったまでで賠償金は政府に要求すべきだという見解を吹き込み、交渉の末9月22日に幕府は賠償金300万ドルを支払う約束をした。藩内には、幕府に恭順すべきとする「俗論派」と山県有朋の倒幕すべきだとする「正義派」が対立した。藩論は俗論派が主導権を握ったので、正義派の周布政之助は自刃した。井上薫は俗論派に襲撃され重傷を負った。第1次長州征伐の圧力で藩主は恭順を表明し蟄居し、家老及び参謀の7人が切腹した。高杉晋作は奇兵体を組織し、山形はその軍監になって、藩の俗論派に戦いを挑んだ。伊藤も奇兵隊の決起に参加し、1865年1月俗論派を各地で撃破した。2月初めに停戦となり、表向きは恭順で、内には武装を固めて倒幕の意見で藩内は一致した。そこで幕府は1865年4月13日第2次長州征伐を諸藩に命じた。この危機を乗り越えるため、藩を指導できる木戸孝允を呼び戻すことになったが、幕府は紀州藩を先鋒とする長州征伐軍を組織した。木戸は伊藤・井上を入れて藩内の攘夷論を抑え込み、大村益次郎を迎えて軍改革を行った。伊藤と井上は、薩長同盟を画策していた土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎と面識があり、蔵方の前原一誠の手助けとして武器購入担当者になった。山県は奇兵隊の軍監として馬関の軍備を固めていた。伊藤・井上は薩摩藩の名義を借りて長崎で小銃7300挺、商船1隻、砲艦2隻を購入した。木戸の代理として薩摩藩の大久保利通にも会った。1866年1月21日には木戸と西郷隆盛の間で幕府の長州征伐に対し薩摩藩の中立を確保し薩長同盟が成立した。長州戦争は6月7日に始まった。各地で幕府軍は敗退し、7月220日将軍家茂が死去したので第2次長州征伐は失敗した。1866年伊藤は養女となっていた許嫁のすみと離縁し、馬関の芸者梅子を生涯の妻とした。1867年3月伊藤は品川弥次郎、野村靖らと共に準士から士雇に昇格した。伊藤は情報探索のため京摂津方面に出張した。幕府の動向薩摩藩の真意を探るためである。4月14日伊藤を可愛がった高杉晋作が病死した。薩摩藩はまだ倒幕には本腰を入れておらず、体制変革の道を模索していた。薩摩藩は6月22日土佐藩と薩土同盟を結び、将軍慶喜に大政奉還の建白を行わせる方向で進めた。7月伊藤は長崎出張を命じられ、伊藤と木戸は長崎で坂本竜馬に面会した。6月中旬京都で、薩摩藩の小松・西郷・大久保と長州の柏原数馬らが会ったが、その時も薩摩藩は倒幕についてははっきり述べなかった。9月26日伊藤は輸送船舶の借り入れに長崎に向かった。10月14日将軍慶喜は土佐藩主山内豊信の助言を入れて大政奉還の建白を行った。それに対して公家の中山忠能と岩倉具視が図って倒幕の密勅(偽書)を薩摩・長州両藩に下された。11月17日島津忠義と毛利敬親が会合し、兵を西宮に上陸させた。そして1868年1月3日から今日に入ろうとする薩長軍とそれを阻止しようとする幕府軍の間で「鳥羽伏見の戦い」が切って落とされたが、瞬時に勝敗は決した。逃げる幕府軍を追って薩長軍(新政府軍)は東進した。伊藤は鳥羽伏見の戦いには参加できなかった。伊藤はイギリス軍艦に乗って兵庫に着いたが、新政府軍から西宮の警護を命じられた岡山藩の兵士がフランス人を槍で傷つける事件が発生し、伊藤はパークス駐日イギリス公使との事件の処理に忙殺され新政府の外国事務掛を命じられた。伊藤は外国公使団を新政府支持につなぎとめる事が戊辰戦争を勝ち抜くために重要だとして任に当たった。2月には土佐兵士とフランス水兵の衝突事件も起きた。伊藤は1868年1月25日新政府の参与職に就任し「諸外国事務局判事」となった。天皇に謁見するイギリス公使パークス、フランス公使ロッシュ、オランダ公使ポルスブロークの通訳に任じられた。パークスが御所に向かう途中で攘夷派の襲撃に会い、土佐の後藤象二郎、薩摩の中井弘、五代友厚らが警護して切り捨てた。伊藤は無事三公使の謁見が済み木戸の信頼も厚く新政府の中に地位を占めた。

(つづく)

読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月25日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第4回

1) 青春篇ー倒幕へ戦い (その1)

伊藤博文(1841年9月-1909年10月 享年68才)は周防の国束荷村に林十蔵の子として生まれた。なお長門・周防両国と萩藩をあわせた範囲を長州藩と呼ぶ。幼名は林利助(のち利輔)である。本家は庄屋であったが、林十蔵は五反百姓(自作農として限界以下)であった。利助が生まれる前年には隣の清国でアヘン戦争がおころ、列強の中国及び東アジア侵略が激しくなる頃であった。長州藩では、伊藤が生まれる10年ほどの間に、幕末維新に活躍した俊英が生まれている。吉田松陰、木戸孝允、井上薫、山県有朋、高杉晋作、久坂玄瑞である。林十蔵の家は1864年に年貢米を納められず破産した。利助が10才の時に萩に出た父十蔵は足軽伊藤直右衛門に仕えた。伊藤家には跡継ぎがいなかったので十蔵が養子になり、利助は百姓から足軽の身分に上昇した。萩の藩士子弟が通った久保塾に通って誰にも引けを取らなかった。1853年ペリーが浦賀に来航し翌年には日米和親条約が締結され、下田・函館が開港された。幕府は同様の条約をイギリス、オランダ、ロシア、フランスと結んだ。明治政府はこの条約をより平等なものに改正するのは約40年ほどかかった。(1894年イギリスと条約改正に成功) 1856年利助14歳の時相模国御備場出役を命じられ、翌年萩に帰って松陰の松下村塾に入門した。1858年長州藩では6人の青年を京都留学に3か月間派遣した。松下村塾から4名が推薦され、伊藤、杉山、伊藤伝之助・岡が選ばれた。山県有朋もいた。長州の若手の人材の一人として伊藤が注目された。松陰は利助のことを「周旋家に向いている」と評価した。京都から戻ると利助は來原良蔵の配下に入り、長崎に行って練兵や砲術を学んだ。1859年利助は木戸の配下に入り、江戸の長州屋敷に住んだ。この江戸で伊藤は井上薫(志道聞多)と出会い、生涯の政治同盟者を得た。井上は中級武士で藩校の明倫館で学んだので、それまで出会わなかった。1959年松陰は幕府により処刑された。伊藤は小塚原の回向院に松陰の死体を引き取りに行き、橋本佐内の墓の近くに埋葬した。松陰の思想は近代的かというと、むしろ復古的な「絶対服従」と言える封建的儒教朱子学から来たものであるが、その実践的行動的で、妥協を許さない絶対主の命令を信奉する純粋な感情が若者の心を捉えたのであろう。だから長州藩では武士の家の存続を絶対視しない思想が普及したのだろうか。伊藤が松陰から学んだことは、天皇と言えど絶対視せず、あるべき君主として成長するよう天皇を教育し、天皇との信頼関係において政治を行う態度であった。幕末の長州では木戸らの「有司グループ」が藩政を指導、藩主は特別な場合を除き藩政に意志を示さないスタイルで推移した。1862年薩摩藩主島津久光は公武合体によって挙国体制を作ろうとして兵1000人を率いて上京し、これを契機に外国人嫌いの朝廷の攘夷実行要求から倒幕と絡んで「尊王攘夷論」が高まった。長州では家老長井雅楽の公武合体論が退き、尊王攘夷論一色となった。そのため1863年利助の師であった来原良蔵が公武合体論が敗れたため、江戸の長州藩邸で自刃した。また高杉晋作らは御殿山のイギリス公使館の焼き討ちを計画し、利助(俊輔)もこれに加わった。幕府の御用学者である国学者の塙次郎暗殺に加わり、斬殺した。1863年3月井伊直弼が水戸浪士によって桜田門外で暗殺されなど、京と江戸では尊王攘夷主義者と幕府側のテロが横行した。1863年俊輔は準士雇に昇格した。足軽から侍扱いになれたということである。井上薫はイギリスの汽船「壬戊丸」を買い上げたが、航海に馴れた人はなく、伊藤らは航海術を習うため藩当局にイギリス渡航を申請した。幕府に対しては「密航」であり見つかれば処刑であるが、井上薫は藩より金を工面して、自分と伊藤ら5人はイギリス船で出港した。横浜を出て上海に着いて数えきれないほどの軍艦・蒸気船を見て井上はすぐに攘夷は誤っていたことに気が付いた。1863年6月ロンドンに到着した。伊藤は英国の文明の進歩と国力が強大であることに感服し、すぐに攘夷の考えを捨てた。彼ら5人はロンドン大学で、数学、地質鉱物学、土木工学、物理学の講義を受けた。主にハード面の勉強をしたのは、法律・政治・経済・歴史学の社会のソフト面については彼らの力では学習不能だったからだ。ところが彼らが横浜を出港する2日前、長州藩は下関の米国商船を砲撃し攘夷を決行していた。薩摩藩もイギリス艦隊を攻撃した。数か月遅れでこれを知った井上と伊藤は藩主に攘夷を止めさせるべく1864年3月ロンドンから帰国の途に就いた。アメリカ、イギリス、オランダ、フランスの代表は4ヶ国共同行動を協議し、協同覚書が6月19日に調印された。

(つづく)

読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月24日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯  第3回

序(その3)

瀧井一博著 「伊藤博文―知の政治家」(中公新書 2010年4月)の概要

伊藤博文(1841年9月-1909年10月)は余に有名であるが評判はいまいちよくない。経歴をざっと見ると長州の出で私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊皇攘夷・討幕運動に参加、維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、韓国統監府初代統監を歴任した。元老。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処した(下関会議で清の李鴻章と講和)ことが特記できる。アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。かくも赫々たる経歴をもち、教科書に必ず出てくるので日本国民なら誰でも知っているはずで、1984年まで1000円札の表を飾ってきた。憲政の父として国会議事堂には2体の肖像が立っている。確かに、伊藤博文は日本の議会制度を論じるときに必ず通らなければならない存在である。木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通といった明治維新回天の三傑の世代の次に位置する、明治史上最も著名な人物である。だが歴史学者の間(アカデミズム)では伊藤の功績を高く見積もることに抵抗があるようだ。明治欽定憲法制定についても起草の中心は井上毅であるという。西南戦争後は大久保利通の独裁路線に媚び従い、大久保なきあと立憲運動が高まるや井上毅のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名をほしいままにする。議会開設後は民権派の自由党と野合して,これを土台にして立憲政友会を創設し政党政治へ転身する。このような時流に乗るに俊敏な伊藤博文は思想なき政治家といわれる由縁であった。伊藤博文はよくも悪しくも明治時代に日本国家の骨格を定めた特記すべき人物である。結果責任という政治家の使命からすれば、伊藤博文の業績が今日も生きている。井上馨のように一貫してイギリスモデルの穏健な議院内閣制を採用し上からの民主化をやろうとしたが、現実のものにすることはできず、大隈重信も転向した。西欧文明との出会いは、1871-1873年にかけての岩倉遣外使節団による欧米諸国巡歴であった。新政府の使節団は、岩倉具視、木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通で構成された。1972年まずワシントン入りした一行は、伊藤・大久保はアメリカと一挙に条約改正を行なって文明国に肩をならべる事を期待したが、個別交渉は不可であることをしり愕然とした。木戸孝允は諸国巡礼中一貫して各国の政体調査に打ち込んでいた。この姿に伊藤は急進論から漸進論に宗旨替えをしたようである。かくして伊藤は理念としての開化主義と方法としての漸進主義を身につけたようだ。 明治欽定憲法制定では、1881年大隈重信はイギリス流議院内閣制を主張する憲法意見書を提出した。これにたいして岩倉は井上毅に憲法意見書作成を命じた。井上はドイツのプロイセンをモデルとして、欽定憲法の採用を提唱する岩倉憲法意見書ができた。ところが黒田清隆の開拓使官有物払い下げ事件によって反政府運動がおき、明治14(1881)年10月の政変となって、大隈は閣僚を罷免され政府から追放された。そしてすぐさま「国会開設の詔」が出され、1890年を期して国会を開くことが公にされた。1882年3月伊藤は憲法取調のため欧州に渡った。伊藤はウイーン大学のシュタイン教授より国家学を教わり、憲政=議会制に感服したという。シュタインの国家学から伊藤は「どんな立派な憲法を設立しても、どんな立派な議会を開設しても、行政がうまく運営されなければ生きた政治とは言えない」という事を学んだようである。欽定憲法は神権的な天皇絶対主義の憲法と位置づけられ、大隈らが提唱するイギリスモデル議院内閣制は排斥され、岩倉と井上毅が推し進めるドイツモデル立憲君主制が選択された。伊藤は憲法は紙切れに過ぎない、重要なのは国家行政であるとみなしていた。立憲政友会の結成では、文明の政治とは、あくまで国民を主体とした政治であり、それは議会制度を前提としたものでなくてはならなかった。政友会の中心となったのは旧憲政党系なかでも星亨で、伊藤と憲政党を結びつけたのが伊東巳代治であった。明治国制の確立(天皇機関説と軍のシビリアンコントロールをめざして)では、皇室を国家の機関として位置づけることが国制上の原則となる。1907年に皇室典範の皇室事務を定めるものとして皇室令という法令形式が確立した。宮中を府中と並ぶ統治機構として法政上公定するという意味合いがあったのである。そして皇室の法令化は、山県有朋のいう帷幄上奏の慣例により、内閣の関与を拒否するという動きと激しい対立をなしていた。山県らがいう天皇が統帥権を持つ軍部は侵すべからざる存在(軍部の制度的独立)であるに対して、伊藤は皇室令で天皇の機能を法令化する中で、軍部に関することもシビリアンコントロール下におこうとする狙いがあった。 1907年の公式令第6条、第7条ではすべての法律と勅令について内閣総理大臣と国務大臣の副署が必要となった。公式令制定のとき、念頭においていたコントロールすべき勢力は軍部であった。1906年3月日本は韓国の外交権を奪い保護国化して、伊藤が初代韓国統監として赴任した。ところが同年7月韓国皇帝高宗はハーグ平和会議に日本の韓国統治の不法性を訴えようとしたが、高宗は退位させられ,第3次日韓協約によって、法令制定権や重要な行政処分権、官吏の任命権など幅広い内政監督権を日本に認めさせられた。伊藤はなぜ韓国総監を引き受けたのであろうか。ひとつは「東洋の率先者たる」日本が韓国を文明化する使命感かもしれない。もうひとつの理由は欽定憲法改正における公式令の延長線上で、文官による軍部のコントロールの実例を韓国で作りたかったということかもしれない。伊藤は日本の文明化の第2のパターンを韓国で再現したかったのかもしれない。伊藤の文明化とは、民本主義、法治主義、漸進主義の要素から成り立っている。民度を高めて殖産興業をはかるという文明化のプロジェクトは日本でも韓国でも相違はなかった。伊藤は軍部の行動を法治化しようとした。これは児島源太郎参謀総長の韓国積極的経営論とぶつかり、1909年4月小村寿太郎外相は「対韓大方針」を奏上し、7月に韓国の併合が決定された。

(つづく)