ブログ 「ごまめの歯軋り」

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地球温暖化防止京都議定書は経済の軍縮会議

2008年06月14日 | 時事問題
asahi.com 2008年6月14日2時26分
排出量取引でCO2削減「ほとんど幻想」 電事連会長
 電気事業連合会の勝俣恒久会長(東京電力社長)は13日の会見で、「市場メカニズムだけで二酸化炭素(CO2)削減をなんて言うのはほとんど幻想に近い」と述べた。福田首相が、低炭素社会実現のために自ら示した包括提案に、市場メカニズムを利用する「排出量取引」を盛り込んだことへの批判とも受け取れる発言だ。 排出量取引は、企業にCO2の排出限度枠(キャップ)をかぶせ、超過する企業は、余った企業から取引(トレード)で超過分の排出枠を新たに買ってこなければならない制度。
 排出量取引については、日本鉄鋼連盟も(1)海外からの排出枠の購入で資金が海外に流出し国益を損なう(2)国内の製造業が発展途上国に生産拠点を移すだけで、地球規模でみるとCO2の排出は逆に増える、と批判している。(宮崎知己)

排出量取引とクリーン開発メカニズムCDMは欧州の仕掛けた罠 京都議定書は経済の軍縮会議

 複雑な「京都メカニズム」という計算方程式を与えて、削減できない時の手を準備した。しかしただではない。日本にお金を使わせることである。日本の金がODAに準じて途上国やロシア・旧東欧へ流れ込む手である。ここまで皮肉に世の中を見なければ、欧米の手練手管にはいつも負けてしまう。真珠湾攻撃を挑発され中国紛争から太平洋戦争に誘導されたようなものである。京都議定書はいわば第一次世界大戦後の世界の軍事力を制限する国際連盟の軍縮協定の枠組み交渉と同じように見える。アメリカはモンロー主義というか手を縛られたくないので国際連盟に参加していない。京都議定書離脱の米国の戦略は当時と変わりはない。

 京都議定書の京都メカニズムで設けられた共同実施という内容は、削減義務を負わない途上国の第三国と共同で実施した地球温暖化政策は削減義務を負う先進国の実績としてカウントされるというものだ。ただしODAは除くと云う条件付である。日本の省エネ技術の粋である自動車、家電製品などに排出権をつけて外国に輸出すればいい。日本の製品を売ることは炭酸ガスの削減に役立つからだと著者はやけくそ気味に云う。外国との交渉でこれくらいの屁理屈をいえなければ、欧米の強引な屁理屈に負けてしまうのである。これが外交能力というものである。日本は他国に先んじて省エネルギー技術と電子機器の発達で省エネ環境社会を達成していたので、削減目標は既にクリアーしたといえばいいのである。地球温暖化対策は省エネに遅れた欧米の問題でしょうとなぜいわなかったのか。地球温暖化防止対策とは先進国にとって省エネの問題であり、省エネ化すると身軽になってさらに大量消費が促進されると云うジレンマがある。良かれと思うミクロな技術開発が社会全体のマクロには却って悪い方向に向うことを「誤謬の合成」という。

読書ノート  河野稠果著 「人口学への招待」  中公新書

2008年06月14日 | 書評
人口学は人口減少と少子・高齢化をどこまで解明したのか 第6回
 
少子化と人口転換論ー出生率・死亡率の低下とその要因 (2)

 過去の人口の劇的変化、つまり多産多死の状況から,多産中死を経て、少産少死にいたる出生率と死亡率の劇的転換を「人口転換」と呼んでいる。人口転換は人口学では数少ない(淋しいが)大理論である。米国のノートシュタインはこの現象が他の国でも繰り返されることを示唆したが、もっと大きく早い速度で進行した。世界の人口爆発がそれである。日本の人口転換を見ると、一貫して粗出生率が粗死亡率よりも高い人口増加傾向である。明治維新以来1920年まで、粗出生率はほぼ一定であるが粗死亡率は緩やかに低下し、1920年以降粗出生率は、大恐慌や太平洋戦争で激しい上下を繰り返して戦後は一気に低下した。1960年から1975年まで粗出生率は一定であったが、1975年以降再度一気に低下した。一方粗死亡率は戦後一気に低下したが1950年からはほぼ一定である。この1960年から1975年まで日本の人口増加率は1%を超えて、先進国では珍しい大規模な人口増加となった。この時期が産業界では高度経済成長期に当り、経済成長には人口の増加が必要と言う短絡的な見解が生まれる理由のひとつとなった。そしてついに2005年には粗死亡率と粗出生率が一致した。

 なぜ人口転換が生じたのかというと、それは死亡率の低下である。科学の進歩で衛生面の進歩が、生産力の向上で栄養状態の改善がなされ、西欧のような目に見えた裕福さはなくとも死亡率は大いに減少しそれが人口増加をもたらした。日本では戦後の経済発展、生活水準の向上、都市化、核家族化などで子供を育てるコストが急速に上昇したため、出生率の低下となった。戦後は出生率も死亡率も急速に低下した。しかし出生率の低下と死亡率の低下には相関は認めても直接の関係はないはずで、別に社会経済的な要因を求めなければならない。子供を持つことのコストベネフィットを考察しなければならないが、費用は比較的計算しやすいが、ベネフィット(利益)は抽象的でいつも数値計算は出来ない場合が多い。合計特殊出生率と実質国民所得(一人当たり)には負の相関が認められる。「貧乏人の子沢山」とか「開発は最高の避妊薬」とか俗に言われるのはこのことである。しかし出生抑制力を定量的に説明することは出来なかった。そこで考えられたのが「第二の人口転換論」である。1980年以降、人口置き換え水準を突き抜けて出生率が低下し、永続的に人口が減少する状況を説明するのが第二の人口転換論で、脱工業化社会における価値観の変換に重点をおく考えである。女性の社会進出、効果の確実な経口避妊薬ピルの普及、ジェンダー「性別役割革命」などである

文芸散歩 「平家物語」 佐藤謙三校註 角川古典文庫

2008年06月14日 | 書評
日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第68回

平家物語 卷第十一

内侍所都入
新中納言知盛教は「見るべきほどの事をば見つ」といって乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに、鎧を二枚着て海へ入られた。生け捕られた平家の人は前大臣宗盛卿、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵人信基、讃岐中将時実、大臣の八歳の若君、兵部小輔雅明、僧では僧都専親、法勝寺の能円、忠快、融円、侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、安倍民部重能親子、以上三十八人であった。女房たちでは建礼門院、大納言典侍局ら四十三人であった。四月三日義経は源八広綱を使者として後白河院へ「壇ノ浦にて平家を悉く攻め滅ぼし、勾玉の璽箱と内侍所を都へ戻す」と奏聞した。二十五日勾玉の璽箱と内侍所が鳥羽に着いて内裏より迎えが出た。平家に西国へ連れ去られた高倉帝の第二皇子守貞親王が都に戻られ法皇より迎えの車が出たという。

一門大路渡
二十六日平家の生け捕り者が鳥羽について、都大路を渡らせ判官の宿舎六条堀川に取込めた。法皇は六条東洞院に御車を出して叡覧あった。

平大納言文沙汰
捉われの平大納言時忠は櫃に入れた文書を義経に差し押さえられ、それがどんな災いを身にもたらすかを心配して、子息讃岐中将時実に相談した。息子が云うに義経は女に弱いので、娘を義経に差し出せば簡単に取り返せる。と云うことで二十一歳になる姫君を義経の側室にいれ程よい頃に娘がうまく言いなして、判官はまだ封も解かずにいた文櫃を平大納言に戻した。この頃都には「判官こそが天下第一の人、鎌倉の頼朝は何も出来ない」と云う噂が出てきた。これは義経側の驕りか陰謀か。

自作漢詩 「連陰憂愁」

2008年06月14日 | 漢詩・自由詩


連日冥冥烟雨     連日冥冥と 烟雨深く

梅霖細細易傷     梅霖細細と 心を傷ましめ易し

無能鈍才貧為祟     無能鈍才 貧祟りを為し 
  
白髪年来病不     白髪年来 病禁へず

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(赤い字は韻:十二侵 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚  テレマン「食卓の音楽」

2008年06月14日 | 音楽
テレマン「食卓の音楽(1732)」
ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 
DDD 1989 TELDEC

「食卓の音楽」の販売目的は無論貴族の食事時の」BGMであったが、作曲目的は啓蒙的、百科全書的、教育的である。管弦楽組曲、四重奏曲、協奏曲、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタ、終局を1巻として、独奏楽器を色々変えることで多くの組み合わせが可能となる。テレマンは3巻とし6×3=18曲を作曲した。このアルバムは4枚のCDで構成される大曲である。ジャンルを網羅的にならべて、音楽愛好家の趣味の手引きとしたのである。指揮者アーノンクールは、ブリュッヘン、パイヤール、コープマン、レオンハルトなどとならぶバロック音楽理論家である。アーノンクールの仕事で「バッハ カンタータ全集」が有名である。