ブログ 「ごまめの歯軋り」

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本庶佑著 「がん免疫療法とはなにか」

2021年05月30日 | 書評
京都市左京区大原 「勝林院(声明の寺)」

本庶 佑 著 「がん免疫療法とは何か」 

岩波新書(2019年4月)(その2) 



第2章 PD-1抗体でがんは治る
本書の題名からすると、この第2章が本書の中心である。第3章は生命の一般論(全体像)で、第4章は生命医学研究のことで、第5章は日本の医療のインフラに関することである。なお文中の図はこのブログの書法では省略する。

① 革新的ガン免疫療法の誕生                                 米国のニクソン大統領は20世紀後半の国家プロジェクトとしてアポロ計画に続いてガン征圧をかかげ、膨大な国家予算を投入したが、ガンについての理解は深まったが、ガンの治療に関しては見るべきものはなかった。ガンの新規治療法(とくに抗がん剤)としては、2001年に承認された白血病に対する「イマニチブ」が注目された以外には、希望を持たせる成果はなかった。化学物質である抗がん剤の原理は、がん細胞の特定分子に結合しがんの増殖を防ぐというのが一般的である。利き方はさまざまで、半年から1年ガンは縮小するが、例外なく抗がん剤治療ではガンの転移と再発が起きる。ガン治療は、化学的抗がん剤以外に、外科的切除、放射線治療がある。これら三大治療法とは異なる、自分の免疫力で治す治療法の考えは100年前から試みてきたが究極的には成功していない。ガンは非自己細胞であるから識別可能であり免疫力で殺すことは可能である。免疫がガンを監視している状態から、ガンの力が勝って免疫系が無力化される状態を「免疫寛容に陥る」という。従来のガン免疫療法の主流はガン特異免疫細胞の活性化を目指してきました。ところが成績が悪い。その原因としてガン細胞は免疫細胞のブレーキ系を目いっぱい踏み込んで「免疫寛容」状態(免疫無力化)にしているようです。そのブレーキを外すことが重要なのではと発想を変えたことが、PD-1抗体治療法の発見につながった。免疫系のブレーキ役の理解と発見が遅かった。1987年CTLA-4が発見され、1992年に筆者らがPD-1を発見した。1995年PD-1遺伝子ノックアウトマウス実験でPD-1が確かにブレーキであることを証明した。免疫系は活発に働きガン細胞を攻撃するのである。

この状況を改善するためには、PD-1抗体やPD-L1抗体でPD-1やPD-L1をブロッキングし、T細胞の免疫システムを正常に戻すことが有効です。PD-1/PD-L1抗体は、肺がん、腎臓がん、胃がん、大腸がん、子宮がん、白血病、脳腫瘍に有効であることが分かっています。ガン細胞は正常細胞の100-1000倍の速さで遺伝子に変異を蓄積する。したがってがん細胞の抗原も変化してゆく。だから一つの抗原をめがけた従来の免疫ワクチン療法では化学療法と同じ結果となり、無力になる。これに対して実はブレーキ役を破壊することで、すべての免疫系のリンパ球(キラーT細胞リンパ球)を動員することができる。リンパ球の認識部位である受容体はほぼ無限に近い多様性を持っている。こうした認識の多様性が免疫の大きな特色である。PD-1抗体やPD-L1抗体はニボルマブ(オプジーボ)、ペムブロリズマブ、アベルマブ、アテゾリズマブ、デュルバルマブが2019年時点で保険医薬として承認されている。PD-1抗体免疫療法の特徴は、 ①特定のがんだけに効くのではなくすべてのがんに効くだろう、②効果が長期に持続する、③副作用が少ないことである。自己免疫疾患にならないかどうか今後の課題である。PD-1抗体免疫療法の臨床研究は2006年よりアメリカで、2009年より日本で開始され、肺がん、悪性黒色腫メラノーマ、腎臓がん、卵巣がんに対して18-28%に効果がみられた。2014年PD-1抗体であるニボルマブと化学抗がん剤であるダカルバジンを二重盲検試験が行われた報告では、17か月経った時点ではPD-1抗体であるニボルマブ投与で70%の生存率が得られ、化学抗がん剤であるダカルバジン投与での生存率は20%であった。ホジキンリンパ腫という血液ガンでの報告では23全例で20%の腫瘍の縮小があった。この治療の問題点は奏功のある患者とそうでない患者群に分かれることである。2002年に、本庶氏と小野薬品の特許が世界中で成立した。世界の大手薬品企業も参入し、10年以内にはPD-1抗体免疫療法がガン治療の第1選択肢になるのではないかといわれている。参考までにこのPD-1抗体免疫療法の原理の図を下に示します。

(つづく)

本庶佑著 「がん免疫療法とはなにか」

2021年05月30日 | 書評
京都市東山区祇園東「茶屋 政の家」

本庶 佑 著 「がん免疫療法とは何か」 
岩波新書(2019年4月)(その1)


2018年12月10日、本庶 佑氏はジム・アリソン教授と共にノーベル生理医学賞を受賞した。授賞理由は二つの主な制御因子であるCTLA4とPD-1を阻害することによって免疫システムが再活性化し、それによって相当数のガン患者を治癒できることが分かったからであった。ガン免疫治療が可能なのは、身体のもつ「獲得免疫」という免疫システムの賜物です。この遺伝子の再構成を伴う獲得免疫は、ガン細胞の小さな変化をもとらえることがでるからです。この能力は約5億年前に脊椎動物が誕生したときに偶然(獲得し)進化し、連綿と受け継がれてきたものです。現在の治験では免疫治療効果がみられたのはまだ20-30%にすぎませんが、ペニシリンの発見に等しいという評価を受けた。本書はノーベル賞受賞を記念して、本庶氏がPD-1抗体による免疫療法について述べたものです。あわせて生命現象の本質、生命研究の歴史についてやさしく解説した啓蒙書になっています。

第1章 生物と免疫
生命の設計図といわれる遺伝子DNAはAGCTの4つの塩基の3つの並び方によってアミノ酸配列を規定したんぱく質構造を決めている。ヒトでは約2万個のたんぱく質の情報が保存されている。この遺伝子情報は個人の中では変わらず、細胞分裂とともに伝達されている。核酸DNAの遺伝子情報によってたんぱく質の構造が決まるという遺伝子情報の流れを「セントラルドグマ」と呼ぶ。DNAは親から子に、子孫に遺伝情報は受け継がれる。母親と父親の遺伝子が受精卵の中で混じりあうために、この遺伝子は片親の遺伝子と同じことにはならないし、兄弟の間でも父親と母親の遺伝子の混じり合いは少しずつ異なるので兄弟間の遺伝子は違うものである。もし遺伝子永遠に変化しないものであるなら生命の進化はない。遺伝情報は少しずつ変異を起こしながら変わり、あるとき大規模な変異が導入される場合がある。その変異の結果が環境によって選択され生物の進化が起きたというのが、ダーウインの進化論である。遺伝情報を持つ最小の単位は細胞である。細胞は、遺伝情報を包み込んだ核と様々な小器官からなる細胞質で構成される。生物の中では単細胞生物のほうが多細胞生物より圧倒的多い。体細胞生物は生殖細胞を作り受精によって子孫を増やす。受精を行い他の生物の遺伝子と混じり合うことは、生物の進化にとって大きな役割を果たした。多細胞生物の特徴は、複雑性、多様性、不確実性にあるといえる。生命体は非常に大きな環境の変化に耐えられる様々な自己制御系を有している。かつその制御はファジーである。種全体としては、多様な遺伝子型を持つ個体からなる方が、環境の変化に対して生存の機会を確保しやすい。このような自己防衛システムの仕組みの一つに免疫系がある。免疫細胞は、リンパ球、やマクロファージ、NK細胞(ナチュラルキラー細胞)や好中球、好塩基球が血液中を流れ防御刑を構築している。

免疫には自然免疫と獲得免疫とがある。自然免疫は鼠からヒトにおけるまで原理的に共通した仕組みで成り立つ。自然免疫の原理とは、細胞の膜上に、異種生物分子群に共通したパターンを認識する受容体が存在する。例えば受容体はリポポリサッカライドLPS構造を認識して異物(他の生物細胞)の存在を細胞内に伝える。その結果マクロファージなどの免疫細胞はサイトカインを分泌して活発にその貪食活性を上げ、獲得免疫系にも異物の侵入を伝達する。さらに受容体は細胞の中にも存在し、異物の核酸に結合し免疫細胞の活性化を行う。獲得免疫は感染を記憶できる免疫で、脊椎動物以降に進化した生物にだけ存在する。自然免疫と異なる点は、獲得免疫ではリンパ球という免疫細胞が存在し、それぞれのリンパ球が異物を細かく認識しそれぞれ異なる受容体をもち、非常の幅広い異物の侵入を阻止することである。獲得免疫の大きな特徴は抗体(抗原と反応する免疫系が作るたんぱく質)の産生である。19世紀末ベーリングと北里柴三郎はワクチン(疑似抗原)を投与するときにそれに対して抗体ができることを発見した。1977年利根川進は。多様な抗原に特異的に結合できる抗体産生の謎を解き明かした。リンパ球では抗体の遺伝子がリンパ球ごとに分化の過程で自由自在に再構成されるという発見であった。さらに2000年に本庶らは、ワクチンの抗体記憶を司るAIDという遺伝子を発見した。利根川らが発見した分化の過程で起きる抗体遺伝子の再構築では、RAG-1,RAG-2という遺伝子再編集酵素が働き、成熟したリンパ球が抗原に出会ったとき、AIDが体細胞突然変異とクラススイッチという2種類の遺伝子再構成を行う。体細胞突然変異とは抗体の抗原結合部位の遺伝子配列にランダムな点突然変異を導入し、それぞれの変異を持つ多数のリンパ球の中から、抗原への結合能力が高まる抗体を産生するリンパ球を選び取ることである。クラススイッチとは抗体の種類を切り替えるしくみである。抗体には抗原認識部位とは別に構造的に軸となる部分がある。侵入者を防ぐために分泌されるIgA、侵入者を捕食するIgGなど、様々な抗体の種類を供給する。抗原に対する抗体記憶が残りワクチンが効果を発揮するのである。この2つの抗体機能をAIDが担い、AIDによって抗原記憶がリンパ球の遺伝子に刻み込まれる。こうした遺伝子再構成は抗体を産生するBリンパ球細胞と、抗体を助け感染細胞を直接殺すTリンパ球細胞において起こることが分かった。獲得免疫の特徴は自然免疫の識別能に比べて極めて特異性が高い。

識別能がけた違いに高く、かつ遺伝子変異がほぼランダムにおこなわれると、自己と非自己の区別がうまくゆくかどうかが問題となる。バーネットはクローン(同一の遺伝子を持つ細胞系列)の選択で起こるだろうと予測した。T細胞では胸腺の中で骨髄幹細胞から分化する過程で自己抗原に反応するT細胞は殺され、血中には残らないことが分かった。抗体を産生するB細胞はT細胞との協調で抗体産生を行うから、T細胞における自己反応性細胞を排除すればそれで問題はなくなる。特異性があまりにも厳格であることと、自己には反応しないことが望ましい。これを受容体の構造だけで一義的に規定することには問題がある。だからT細胞受容体にはオールorナッシングではなく一定の幅をもって異物を認識する仕組みである。リンパ球は抗原が結合するだけで別に何もしない。ただ結合したという信号が細胞の中に伝えられ、細胞内分子がリン酸化を起こして細胞内の情報伝達系によって遺伝子の発現誘導を起こすのである。他の細胞の免疫反応を動員して免疫反応が成立する。抗原認識後相対的反応閾値の制御に係わる分子として、いわゆるアクセルとブレーキの両方が存在する。ブレーキとしてCTLA-4、PD-1、アクセルとしてCD-28,ICOSという分子が存在する。ガン免疫療法の道はアクセルを操作する試みは長く行われたが成功しなかった。今日最も有力な制御はブレーキの弱体化である。免疫系細胞間の情報伝達にはケモカイン、サイトカインという伝達物質を使う。サイトカインは活性化や抑制化のシグナルとして使われる。リンパ球が抗原刺激によって増殖するスピードはすさまじいと言われている。T細胞は8時間で1回分裂する。このためPD-1抗体により免疫系のブレーキ阻害によってリンパ球が急激の増殖する結果、神経伝達物質の前駆体であるトリプトファンやチロシンが不足し不安という神経症状が現れる報告もある。脳と免疫系の相互作用はステロイドホルモンによる免疫系の機能低下、腸管免疫系などが知られている。アルツハイマー病などにも関係し、全身の炎症反応の過剰、免疫系の老化の制御などこれからの課題も多い。

(つづく)

アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」

2021年05月29日 | 書評
京都市上京区烏丸通中立売上がる「護王神社 本殿」

高田三郎 訳 アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」 

岩波文庫 

第10巻(その2)

【結び】
第6章 - 究極目的とされた「幸福」とは何か、それは何らかの即自的に望ましい活動でなくてはならない、だが「快楽」は「幸福」を構成はしない、「幸福」とは「卓越性」に即しての活動である
最後に幸福について概観する。幸福は状態ではないと言った。幸福はそれだけで即時的に望ましい活動である。卓越性(徳)に即したもろもろの実践はまさしくこのような性質の活動にほかならない。遊びの快適なのもこのような性質である。独裁者の時間つぶし的遊び相手、肉欲の快楽は卑近な例であるが、尊重されなければならないことや快適なものとは、優れた人にとって卓越性の性質のものであることだ。幸福な生活とは、卓越性に即した生活である。このような生活はより良い活動である。

第7章 - 究極的な「幸福」は「観照的」な活動に存する、だがこうした純粋な生活は超人間的である
幸福とは卓越性の即しての活動であるなら、最高の卓越性の活動を目指すものだ。最高の卓越性とはわれわれの魂の最善なるものの卓越性である。こうした固有の卓越性に即しての活動が究極的な幸福である。それは観照的な活動(知性が支配し神的な想念を持つ)にほかならない。卓越性に関しては最も快適なのは智慧(ソフィア)に即しての活動である。哲学(フィロソフィア)はその純粋性と安定性、自足性のため、驚くべき快楽を含んでいる。実践的な卓越性の活動は政治、軍事などの領域において行われる非閑暇的な性質を持つ。知性の活動は閑暇的であるが真剣な営みである。この生活は人間の水準を超えた生活であろう。知性に即しての活動の生活は、人間的な生活を超えて神的な生活かもしれない。

第8章 - 人間的な「幸福」は「倫理的な実践」を含む合成的な「善き活動」に存する
卓越した知的生活以外の人間的なもろもろの活動は、幸福な生活かどうかは第二義的である。倫理的性状の卓越性は多分に情念に近い面を持つ。知慮の始まりは倫理的徳にあり、倫理的徳は知慮に基づく。しかし倫理的徳は情念と不可分の関係にあり、複合者として人間的な卓越性にほかならない。卓越性(徳)の成立に重要な意味を持つのは、意図かそれとも行為なのかという議論があるが、徳はこの二つに待つところが大きい。行為のためには多くの物を必要とするが、観照(哲学)の活動には全く何も必要がない。むしろ観照を妨害する。究極的な幸福が何らかの観照的活動に依拠するところが多い。ソロンは幸福な人を「外的なものをほどほどに給えられ、自らにとって最もうるわしいことを行い、節度ある仕方で生涯を送った人」と規定した。知性に即した活動を行い、知性を大切にする人は、最も善いひとである。

第9章 - 「倫理的卓越性」における善き「習慣付け」の重要性、善き「習慣付け」のためには「法律」による知慮的にして権力ある「国家社会的な指導」が必要、「立法者的能力」の必要性、「立法」の問題は未開拓の分野である、国制(『政治学』へと続く)
実践とか行為の領域にあっては、知性的に認識する卓越性を知っているだけでは十分ではない。まして若年者を薫陶して善美の徳に至らせることは不可能である。善い人になるには本性や、習慣づけや教えが必要である。徳の完成に固有な倫理的性状エートス(うるわしいものを愛し醜悪なものを厭う)を具現化する社会的仕組みが必要である。すなわち法律のもとで教育、禁則によって導くのである。立法者は一方では徳への勧請とうるわしさを説くだけでなく、劣った資質の人には懲戒や処罰で持って臨み、癒しがたい人は追放すべきである。人々の生活が何らかの知性によって律せられ、強権を有する正しい命令によって規制されなければならない。このような立法者はスパルタにのみ見いだされる。国においては法律や習俗が力を持ち、家においては家父の存在が必要である。このような立法者的な素養を積むことに努力しなければならない。政治家からそのような素養を積まなければならない。ソフィストよりも、知性認識によって能力開発と経験が大切であるとみなされている。どのような国制が、いかなる性質のことが諸々の国を保全し滅亡させるか、その政治体制について今後検討してゆきたい。

(完)


  

アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」

2021年05月28日 | 書評
「京都御所 建礼門院 葵祭にて」

高田三郎 訳 アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」 

岩波文庫 

第10巻(その1)

【快楽-B稿】
第1章 - 「快楽」を論じる必要性、「快楽」の「善悪」に関する正反対の二説、その検討
前の第8巻と第9巻の「愛」を受けて、第7巻の「快楽ーA稿」の快楽論をさらに展開する。人々が青少年を教育にあたって快楽と苦痛をもって舵とするごとく(愛と鞭)、倫理的性状の卓越性(徳)との関係で最も重要なことは、悦ぶべきことを悦び、嫌悪すべきことを嫌悪するところにある。人々は自ら快とするところを選び、自ら苦痛とするところはこれを避けるものである。多くの人々は快楽の奴隷になっているから元へ戻す必要があるという説はいただけない。情念と行為に属する事柄は理屈ロゴスだけでは、実際の行動は導けないからである。快楽の世界ではロゴスは信用されないものである。

第2章 - 「快楽」は「善」であるとするエウドクソスの説、それに対する論駁の検討
古来、快楽肯定論と快楽悪役説が議論されてきた。エウドクスは快楽を善とみる快楽肯定論者であった。好ましいことは善いものであるという。また快楽はいかなる善に加えられてもその善をより好ましいものとするという見解である。プラトンは、快適な生活は知恵を伴う方が一層好ましいという。むしろ快楽悪役説を否定しようとした。

第3章 - 「快楽」は「善」ではないとする説、その検討
快楽や卓越的な活動、幸福というものは「質」ではないが、それゆえに快楽は善でないというのは間違っている。快楽は無限定的だといわれるのは、かなりの差を受け入れるからである。健康は限定的であるがそれにはばらつきがある。また人の善は究極的なものとして、運動や生成は非究極的でしかない。快楽が運動だという説は妥当ではない。運動には遅速が固有的にあるが快楽にはそれは存在しない。生成は事物が生じることであるが、快楽から生じるのは苦痛である。快楽否定論者は非難に値する性質の快楽をあげつらうが、それは決して快楽ではない。即時的に好ましい快楽も存在することを忘れてはならない。

第4章 - 「快楽」とは何か
では快楽と何であろうか。快楽は運動であるとは言えない。過程において終極を持つならば運動は究極的となる。運動は非究極的であるが、快楽は究極的である。こうして快楽が運動とか生成とかであるという考えは妥当ではない。快楽はすなわち一つの全体である。すべての感覚の活動は可感的なものを対象として行われるが、その活動が究極的に完璧な仕方で行われた場合、感覚に関する最もうるわしいものを対象として行われるのだから、究極的に完璧な活動と考えられる。最も究極的に完璧な活動とは所属の最善な対象についての、善いありかたにおける主体の活動である。快楽は何らかの付帯的な完璧性として、活動を最善にするものである。このような快楽はいつまでも持続できない。疲労が来る、慣れてしまうとかいう。生彩を失うのである。快楽は各人にとって生きることを究極的に完璧にするものである。

第5章 - 「快楽」には色々の「快楽」がある、活動にも色々あるごとく、では何が「人間の快楽」であるか、それは何が「人間の活動」であるか、から明らかになるだろう
快楽においてもいろいろな差異が含まれる。感覚領域で質的に異なったものを知性認識することで完璧に近づく。ある活動を増進させるものはその活動に固有の快楽(面白さ)に他ならない。各自の仕事に悦びを感じながらやっていれば仕事についての進歩も生まれる。それがキャリアーである。もし異質の快楽がその活動を阻害するならば、異質の快楽は固有の苦痛の作用と変わらない。こうした人の活動を究極的に完璧にする快楽こそが、厳密な意味において人間の快楽である。

(つづく)



アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」

2021年05月27日 | 書評
「カラー」

高田三郎 訳 アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」 

岩波文庫 

第9巻(その2)

【愛】 つづき)
第7章 - 善行者が被善行者を愛することは後者が前者を愛する以上であるのはなぜか
善を施す人は、それを受ける人以上に、善を受ける相手の人を愛している。貸借関係でいえば、借りている人は貸し手の存在忘れたいのだが、貸し手の人は借り手の人をいろいろ心配するものである。借り手は忘恩的である。絵画でいえば制作者は自分の作品をこよなく愛している。快適であるのは、現在に関して活動であり、将来に関して期待、過去に関して記憶である。愛することは能動的、愛されることは受動的であるが、行動の積極的な側に、愛情とか愛が付随する。すなわち現在の行為に愛を供うことこそが快適(善)なのである。前向きにポジティブに愛する行為がその人の善である。

第8章 - 「自愛」は不可であるか
我々は誰よりも自分を愛するべきか、他の人を愛するべきか、ということも問題である。人は自愛者を醜悪といいナルシストと呼ぶ。悪い人は全て自分のために行うからである。

第9章 - 「幸福」な人は友を要するか
至福な自足的な人は、なにも親愛な人を求める必要はないというが、友とは第2の自己であるから、自分にはないものを持っているはずである。そして善き人は善を施すものである。だから善い人は人に良くする事は麗しいことである。人間は政治的・社会的な生き物であるので、生を他と共にする事は本性になっている。だから幸福な人は友を求めないという論理は間違っている。人は良い自分の行為を評価してくれる善き友が必須となる。卓越性を磨く訓練は善き人と生を共にする事によって可能である。相手と「生を共にする」ことは、談論や思考を共にすることにつながる。人は幸福になるには、善き友たる人びとを要するという結論が得られた。

第10章 - 友であるべき人の数には制限があるか
愛の場合も友の数は、無ではなく、といっても過度に多でもないほうがいい。功益を目的とするときも、快楽を目的とするときも友の数は中庸でいい。個人的に友の数は過度に多いと楽しいだけでなく悲嘆することも一緒になっているので厄介である。

第11章 - 「順境」と「逆境」のどちらにおいてより多く友を要するか
もちろん逆境においてのほうが友人を必要とする。特に有用な人びとが必要とされるからだ、親愛な人が傍にいてくれることは、順境においてのみならず非運においてそれは喜ばしいことである。人はいわば重荷を分担してくれる、悩みを共にしてくれる。ただ自己の順境へは進んで友を呼ぶべきだが、逆境へは遠慮すべきかもしれない。悪を分与することは差し控えるべきであろう。自分が悩めば事足りるからである。

第12章 - 「生を共にする」ということの「愛」における重要性
親愛な人と生を共にするが大切である。愛とは自他の共同であるからだ。善は善をもって集まり、悪は悪をもって集まるのが定めである。

(つづく)