ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 「平家物語」 佐藤謙三校註 角川古典文庫

2008年06月18日 | 書評
日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第72回
平家物語 卷第十二

判官都落
土佐坊が斬られたことを、義経につけた密偵が鎌倉へ報じた。鎌倉殿は兄三河守範頼に討手を命じたが、従わなかったので範頼を討った。こうして北条氏に囲まれた頼朝は兄弟を滅ぼしたのである。つぎに北条四郎時政に六万騎をつけて都に討手に上らせたので、十二月三日義経は緒方三郎惟義ら五百騎で都落ちとなった。摂津国大物浦から住吉浦、吉野山、奈良、都、北陸、陸奥国へと放浪の旅となった。十二月七日に都に着いた北条四郎時政は翌日義経追討の院宣を得た。このあたりの院の根回しをしたのが、吉田大納言経房であったという。経房は権右中弁光房の子で切れ者の噂高く、平家、源氏の時もたくみに政事を差配して出世を重ねた。鎌倉殿は日本国の総追捕使(荘園に許可なく入り犯人を逮捕する権利)に任じられ、荘園に守護・地頭をおいて領地支配権を伸ばした。

六代
北条四郎時政は鎌倉殿の代官として都の守護にあった。「平家の子孫と言わん人、男子において一人も漏らさず」と平家狩りを厳しく行った。もはやさしたる平家の末は居なかったので、遠い些細な末裔までも見つけては殺したが、ある時中将維盛の若君六代御前というのが嵯峨の大覚寺に居るとの密告を得て、兵を指し向けた。大覚寺には中将維盛の北の方と乳母の女房と、十二歳の若君と十歳の姫君、そして従者の斉藤五・斉藤六が隠れ住んでいた。若君六代御前は捉われて六波羅に拉致され、命の尽きるのを恐れている時、乳母の女房はこの若君を出家さすと云うことで高尾の文覚上人に助けを求めた。文覚上人は鎌倉殿から謀反成就の時には褒章は思いのままという言葉を貰っているので、鎌倉殿に命乞いに出る二十日の間は猶予を得て鎌倉に下った。二十日も過ぎて上人が帰られないので痺れを切らした北条四郎時政は十二月十七日、六代御前を連行して鎌倉へ下った。駿河国千本松原と云うところで六代御前の首を討とうとしたところへ、馬に乗った文覚上人が現れ、頼朝の書状と判を見せて六代御前を貰い受け都へ上ったと云う。かなりの長文で人の命の掛かった緊迫したやり取りが展開され、読む人の息を継がせない文章である。平家物語の時代記録者としてだけでなく、ストーリーテイラーの面目躍如という観がする。


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