ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

太平記

2020年10月31日 | 書評
京都 下京区松原通り大宮西 長円寺

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第9巻(年代:1333年)(その1)

1、足利殿上洛の事
後醍醐先帝が船上にあって都に討手をさし向けられるので、鎌倉の北條高時は気が気ではない。そこで名越尾張守を大将とし20名の大名からなる大軍を上洛させることになった。その中に足利治部大輔足利高氏もいた。鎌倉からの矢のような催促に心中は北條執権家を快く思っていなかったので、隙さえあれば先帝側へ寝返って謀反を企て、六波羅を攻め落とし北條にとってかわる気構えを持って、一族と家族の上洛を決定した。これに対して長崎入道円喜(高綱)は足利が家族まで連れてゆくのはおかしいと疑義を出した。家族を鎌倉に置くことは忠誠を誓う人質に相当する。高氏は返答に困って弟兵部大輔殿(直義)に相談した。直義は「大問題の前に些細なことは無視しなさい」と言われ高氏は妻子は鎌倉に置いてゆくことになった。一筆の誓詞を書いて北條高時に渡したので、高時は安心して、馬十疋と白覆輪の鎧を与えた。足利兄弟、吉良、上杉、細川、今川ら一族32人、執事高一族43人その勢3000騎、3月7日に鎌倉を発った。4月16日には京都に到着した。
2、久我縄手合戦の事
両六波羅は官側の武力を侮っていたが、結城九郎左衛門尉が官側に寝返るなど少しづつ勢力がやせ細っていた。足利氏は上洛後すぐに伯耆船上の先帝に手紙を送り、味方に参加する由を伝え、帝は高氏に綸旨を与えた。六波羅の評定会議にも高氏は参加しているのだから、人の心ほど恐ろしいものはない。4月27日八幡、山崎の合戦と定められ、名越尾張守を大手の大将として7600騎が鳥羽道を南下し、足利尊氏は搦め手の大将として5000余騎、西岡(向日)から下った。これに対して官側は千種頭中将忠顕卿は500余騎、赤井河原に控え、結城九郎は300余騎で狐川に、赤松入道は3000余騎久我縄手に陣を張った。高氏の言に不安を持つ官側の坊門少将雅忠朝臣は500余騎で西岡あたりに潜んだ。
3、名越殿討死の事
朝早く足利大将は発たれたという知らせが入り、大手の名越大将は先を越されたかと焦り、午前7時久我縄手の泥土に馬を入れた。この大将は若い者にありがちな派手ないでたちで(そのいでたちの描写に1頁を費やしている)で人は驚く者と考えていた。そこへ赤松の一族佐用左衛門三郎範家という弓の名手が尾張守の眉間を射た。大将を射られた7000余の軍はしどろもどろに逃げまとい全滅した。
4、足利殿大江山を打ち超ゆる事
大手の合戦で大将名越守が討たれたという知らせを受けた足利高氏は丹波道を西へ篠村へ馬を走らせた。足利の陣にいた備前国仲吉十郎と奴可四郎は、はて名越大将が討たれたのになぜ丹波道を目指して急ぐわけがわからない。何かこの足利大将には野心があるのだろうかと言い合った。二人は六波羅に報告するため軍から離れ引返した、報告を受けた六波羅では名越討たれ足利謀反では、六波羅軍は一瞬にして無くなったのも同然となった。
5、五月七日合戦の事
足利高氏は丹波篠村に陣をとって近国の兵を集めた。久下弥三郎時重という武士が150騎で駆け付けた。近国の兵はほどなくニ万余騎が篠村にあつまった。六波羅は危機感を抱き天皇を鎌倉に移して御所として大軍を立てて反徒を征伐すべしと、まず北六波羅を御所として天皇の行幸を願った。梶井二品親王(天台座主尊胤法親王)は天皇の身辺を護持した。皇族、九卿、三家、文武百官、門徒らも六波羅に入った。官軍は5月7日に京都の中で合戦をすると決めたので、篠村、八幡、山崎の軍は梅津、桂、竹田、伏見に陣を置いて篝火をたいた。若狭路は高山寺の兵が押さえ鞍馬、高尾まで支配した。山門の考えは決まっていなかったが開いていた道は東山道だけであった。六波羅では敵が大勢で押しかけたなら、今の平場での戦いではかなわない。六波羅を要塞にして敵をひきつけ闘うべしと評議した。そこで六波羅のまわりに堀を深く掘り、鴨川の水を入れた。明て5月7日午前4時、足利高氏は兵2万5000余騎で篠村を出発した。出かけに篠村八幡宮(源氏の守り神)に必勝の祈願文を献じた。夜が明けたころ大江山を越え、北野神社につく頃には寄せた軍勢は5万余騎を越えた。一方六波羅では6万余騎を三手に分け、一手で搦め手の足利高氏を防ぎ、一手は千種大将が攻める大手の竹田、伏見に向けられた。内裏には陶山、河野の勇士2万騎を向けて立ち向かった。官軍より足利の設楽五郎左衛門が名乗り出て、六波羅より斎藤伊予房玄基という者が名乗り出て一騎打ちが始まった。相討ちに終わった。それから名だたる武将の戦闘の様子が記されるが省略する。結局六波羅勢はじり貧になり退却した。南から官軍の赤松円心が3000騎を東寺に寄せた。東寺で支える六波羅勢1万騎は打ち破られて六波羅に退いた。こうして5万の六波羅勢が立て籠もり、5万余騎の官軍が六波羅を取り囲んだ。

(つづく)

太平記

2020年10月30日 | 書評
京都 西陣聖天前路地

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第8巻(年代:1333年)(その3)

12、妻鹿孫三郎人飛礫の事
播磨国の妻鹿孫三郎は薩摩氏長の末で、力に優れ相撲を取らせると日本一であった。相具なう一族17人も世に優れた力持ちであった。官軍に従って六条大宮まで攻め込んだが、六波羅勢千余騎に囲まれ、一族17人は討たれて孫三郎だけになった。一人で西に向かって進んでいるところ、印具駿河守の勢50騎に追いかけられた。敵の武士の鎧の背中のひもをつかんで進んだところ追い手に囲まれ掴んだ武士をえいとばかりに投げつけると、深田の泥沼に沈んだ。追い手の50騎は驚いて逃げだしたという。赤松勢は800騎を討たれたので力落ち八幡、山崎に退却した
13、千種殿軍の事
船山におられる後醍醐帝は、京都での官軍の戦がたびたび負けて、木幡、山崎の軍勢も小勢となるので気が気でない。船上の御所に壇を設けて金輪に法を行うと17日目の夜に三光天子が現れたので御願成就も近いとたのもしく思われた。そこで六条少将忠顕朝臣(千種頭中将)を頭中将とされ、赤松に力を添えるべく、山陽、山陰両道の大将として京都に遣わされた。疎の軍勢は伯耆国を発つときはわずか千余騎であったが、兵が馳せ加わり20万7000騎に及んだ。第6宮は元弘の乱のとき但馬の国に流されたが、その守護太田三郎左衛門尉が近在の兵を募り丹波篠村に至る。大将頭中将はこの宮を上将軍と仰ぎ令旨を出した。4月2日宮は西山の峯堂を陣とした。この時殿法印良忠は八幡に陣をおき、赤松円心は山崎に陣を置いた。功を焦った千種頭中将はひそかに4月8日朝6時に六波羅に攻め入った。仏生会の日に軍を動かすのは心得がたいと非難された。六波羅は西からくる敵軍に対して、三条から五条まで大宮通を塀を設けて遮断した。路地路地に兵を隠し魚鱗の陣形を組んで進んだ。六波羅は控えの佐々木判官らの5000騎で比較的弱い守りの一条口、二条口に向かった。宮側の但馬の守護太田三郎は討ち死にした。宮側の方々の寄り手は討たれ、破られて、皆桂川辺まで引いた。戦いが峻烈を極めたのは一条口の戦いで、寄り手は名和小次郎、児島備後三郎高徳、六波羅の守りは陶山。河野であった。大将忠顕朝臣はすでに引いたが、名和と児島を呼び寄せたので戦いは中断した。当日夜峯堂において千種頭中将が宮側の討ち死にと手負いを数えると7000人であった。千種頭中将は弱気となり撤退の方針だが、児島備後三郎高徳は主戦論であった。千種頭中将は八幡を目指して落ちられた。こうして宮軍は総崩れになった。
14、谷堂炎上の事
千種頭中将西山の陣を落ちられたということがわかると、六波羅軍は4月9日谷堂、峯堂、浄住寺、松尾、葉室、衣笠に乱れいって、僧を逮捕し僧房に火を放った。折節の風にあおられて堂宇300、在家5000は一時に灰燼となった。谷堂、浄住寺の由縁が2頁にわたって記されいるが省略する。

(つづく)

太平記

2020年10月29日 | 書評
京都 智恵光院(平等寺)

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第8巻(年代:1333年)(その2)

8、山門京都に寄せる事
都での赤松勢の官軍が攻めあぐんでいることを聞いた大塔宮は勅使を立て山門の衆徒に決起を促した。3月26日山門では大講堂において詮議を行い、武家追討の企てに全員が賛成を示した。山門は28日に六波羅に寄せる決議を行った。山門に集まった近国の兵は106000騎となり、思いあがった山門宗徒は八幡、山崎と連絡も取らず28日の決起の兵站はなきも同然であった。六波羅では山徒の数は多いといっても鎧や騎馬(武家の兵)も少ないので、三条河原で待ち構え矢を射るべしと7000余騎を七手に分け陣を張った。前陣が法勝寺、真如堂に到着して後陣を待つところへ、六波羅軍がどっと攻め込んだので散々射られて真如堂の山に逃げ込んだ。東塔の豪鑑、豪仙が二人長刀を振りはらって奮戦したが、雨のように矢を射られて自害した。
9、四月三日京軍の事
3月12日京での合戦では赤松は退き、六波羅が京を支配したように見えたが、まだ治まったとは言えない。山門はまだ武家に対抗し坂本で兵を集めて京へ攻め込むつもりらしい。そこで六波羅は叡山に大きな荘園13か所を寄付し、祈祷の度に宗徒に土地を恩賞として与えた。これによって山門の衆議は分断され武家に心を寄せる宗徒も出てきた。八幡、山崎にいた官軍は大半は減少し、今は一万騎にも足らない数となったが、4月3日朝、六波羅の油断を狙って7000余騎を二手に分け京都に侵入した。殿法印良忠、中院中将定平を大将として3000余騎を伏見、木幡に火をかけ、鳥羽竹田より押し寄せた。赤松入道円心は3500余騎を川島、桂に火をかけ西七條から侵入した。六波羅は3万余騎を六条河原に集結させ三手に分けた。佐々木判官時信、常陸前司時朝は3000余騎を率いて糺河原に置き、河野、陶山は5000余騎を率いて法性寺大路に差し向け、富樫、林一族は6000余騎を率いて西八条へ向けられ、加治源太左衛門、高橋、糟谷、土屋、小笠原は7000余騎を率いて西七條口に差し向けた。同日午前10時三方で戦いが始まった。夕刻になって、河野、陶山300騎で木幡を攻め込んだ。官軍は奈良街道を逃げたが、これ追って討ち散らし、敵は東寺から鳥羽、羅生門、寺戸(向日市)方面に退いた。小早川と島津が西へ活路を求めて展開したとき赤松軍に六波羅勢は襲い掛かった。
10、田中兄弟軍の事
陣の崩れた赤松軍の中から二人でて数千騎の中へ討ってかかった。備前国頓宮次郎入道の子息孫三郎と田中藤九郎盛兼の舎弟孫九郎盛秦であった。西国一の太刀武者とこれに対して幕軍から島津安芸前司父子3人がでて、太刀勝負とならないように消耗戦に持ち込み、馬上より矢を打ち込めば当たらぬということはないといって少人数同士の格闘技となった。島津の矢がなくなったとき小早川は150騎でかかりつけたので田中親子兄弟4人はたまらず2,30本の矢を受け立ったまま死んだ。この見事な勝負は後までも惜しまないものはなかった。
11、有本一族討死の事
官側の美作国の菅家一族300余騎は、四条猪熊において、六波羅側の武田兵庫助、糟屋、高橋軍の千余騎と闘った。夕刻になると御方の軍は退却していたが、負けず嫌いで敵に後ろを見せたくない一心で、有本菅四郎佐弘、五郎佐光、又三郎佐吉三兄弟は奮戦した。佐弘は武田に首をとられ、佐光は武田の首をとったが、佐吉は刺し違えて戦死した。竹田も兄弟、有本も兄弟、一人だけ生き残っても意味はない、いざ勝負と佐光と武田七郎は太刀を捨て組んで戦った。そこへ菅家側の4名も組んで差し違え、27人が一所で打ち取られ戦いはやんだ。

(つづく)


太平記

2020年10月28日 | 書評
京都蹴上 琵琶湖疎水インクライン

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第8巻(年代:1333年)(その1)

1、摩耶軍の事
船上合戦で隠岐判官敗れるの報が六波羅に伝わると、重大事件のように色めきだった。六波羅では京に近いところに敵兵が駐屯するのはまずいということで、佐々木判官時信、常陸前司時知に兵5000余騎を指揮させ、摩耶城の赤松討伐に向かった。3月1日摩耶城の南麓の求め塚より寄せた。赤松軍は敵を山の上に引き込むため遠矢をして退却した。六波羅軍が勢いづいて駆け上がり七曲がりという細い山道に入ったところを、赤松則祐、飽間左衛門尉光泰が一斉の矢を射たのでたまらず混乱したところ、信濃守範資、筑前守貞範らが500騎で討って出た。引き返した六波羅勢は1000騎にまでに減っていた。(太平記の闘いの記述で兵力数がころころ変わって記される、例えば5000騎といったのにいつの間にか7000騎と表現する事が多い。何が正しい数値かわからない。)
2、酒部瀬川合戦の事
六波羅では備前国の御家人が反幕府側に寝返ってはならじとして、2月28日さらに一万余騎を摩耶城攻めに派遣した。赤松側では機先を制するため不意を衝く作戦が必要だとして3000余騎を率いて摩耶城を出て酒部(尼崎)に陣を取った。3月10日六波羅勢が瀬川(箕生)に到着した。幕府側の阿波の小笠原3000余騎が尼崎に船を止め上陸した。そして瀬川の宿に兵を入れた。赤松軍は11日3000余騎で瀬川の陣に攻め込んだが、敵の大軍を前に赤松軍はたった七騎で決死隊を送り込んだ。赤松軍は慌てふためく幕府軍の首を300余りとり、勝ちに乗じて逃げる敵を追うことが戦いのコツだとばかり、勢いづいたまま京都に攻め込む戦術をとった。
3、三月十二日赤松京都に寄せる事
京の六波羅では大軍を摩耶に送り込んだので吉報を待っていた矢先、3月12日淀、赤井、山崎、西岡あたりの30か所に火が懸けられ、すでに三方より赤松勢がよせているという。北六波羅も左近将監時益は京の洛外で防ぐつもりで、両検断須田、高橋に2万騎を率いさせて西八条へ打って出た。桂川で水戦を予想しての事であった。赤松円心勢は3000余騎を二手に分け、川西二ある久我縄手、西七條から対岸の六波羅勢に向かった。六波羅勢は鳥羽から城南離宮、羅生門、西七條口までびっしり埋め尽くしていた。六波羅勢は川を越えず、赤松勢は大軍を前に進めずにらみ合いと遠矢だけの戦いでは雌雄を決することかなわじと赤松則祐ら主従6騎が川に馬を入れると、範資、貞範ら3000余騎もそれに続いた。このただならない様子を見て六波羅勢は闘う前から北の洛中をめざして逃げの一手になった。
4、主上両上皇六波羅臨幸の事
この様子を見て西七條の守り手高倉少将の息子左衛門佐、小寺、衣笠らは敵はすでに都に入ったと思い込んで、大宮、猪熊、堀川の50箇所に火を放った。洛中での戦いは夜半の事であるので火と声ばかりで何も見えず、六波羅の兵は六条河原に集まって茫然の体であった。御所では日野資名、左弁宰相資明二人が内裏に向かい、六波羅へ避難することになり、主上(光厳天皇)は三種の神器を携え、月卿雲客20余人が供奉した。
5.同じく十二日合戦の事
この夜、六波羅勢は七條河原に集結し、両検断須田、高橋は3000騎の兵を率いて八条口に向かった。河野九郎左衛門尉、陶山次郎は2000騎の兵を率いて蓮華王院(東山七条、今の三十三間堂)に向かった。陶山は八条河原の六波羅の合図に従い撃って出た。蓮華王院あたりの敵兵を蹴散らし、西七條の六波羅軍の応援に向かった。両検断須田、高橋が苦戦している様子を見て戦い敵軍を押し返した。範資、貞範兄弟らは六騎、則祐一騎ばかりになって赤松勢は惨敗して山崎へ敗退した。河野九郎左衛門尉、陶山次郎勢は鳥羽あたりで深追いをやめ六波羅にもどった。この度の河野、陶山の働きは抜群であったので臨時の宣下を賜った。両検断須田、高橋は翌日洛中の敵兵の死者の首をかき集め六条河原にさらした数は873であったという。赤松の首が5個もあったとはいい加減なごまかしである。
6、禁裏仙洞御修法の事
光厳天皇位につかれてからは、休まる日はなく法の威をもって逆乱を鎮めるために、諸寺諸山に命じて大法秘法を修された。梶井宮親王(叡山座主)は内裏で仏眼の法を、仙洞では慈什僧正が薬師の法を行われた。しかし公家・武家の悪行は甚だしく、日を追うて国々から急を告げる報が届いた。
7、西岡合戦の事
山崎に退いた赤松軍の追討を怠ったため、赤松は中院中将貞能を聖護院宮と号して、山崎、八幡に陣をとり、川尻に関を置いた。六波羅では3月15日5000余騎で山崎へ向かった。桂川を渡って物集女、大原野から山崎に寄せた。赤松入道は3000余騎を三手に分け、500騎を大原野小塩山へ、1000騎を狐川へ、800騎を向日明神に置いた。六波羅勢はあちこちで小競り合いになり、小一時間の戦闘ではかばかしい戦果もなく、赤松勢を追い払うことはできなかった。

(つづく)

太平記

2020年10月26日 | 書評
京都岡崎 琵琶湖疎水記念館

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第7巻(年代:1333年)(その2)

4、義貞綸旨を賜る事
上野国新田小太郎義貞は源氏嫡流の名家であったが、金剛山の幕府軍搦め手に参加していた。義貞執事船田入道義昌を呼んで、相模入道の行いをみるに滅亡久しからず、義兵を挙げるには大塔宮の綸旨が貰うよう働きかけよと命じた。船田入道は若党30人を連れ野伏の姿をして葛城山に登り、宇多、内郡の野伏に大塔宮の居場所に連れてゆくよう依頼した。こうして宮の綸旨を得た。義貞は偽病をして本国上野国にへ戻り幕府打倒軍の準備に入った。一方幕府側では千剣破城攻めが難航する中、宇都宮公綱を城攻めに命じた。宇都宮は紀清両党千余騎で堀の際まで攻め上がり10日間は優勢に戦った。
5、赤松義兵を挙ぐる事
鎌倉勢が千剣破城攻めにてこずっているとき、都が手薄なのを狙って、播磨の苔縄城より赤松入道円心が打って出て山陽と山陰の要である山里、梨原の間に陣を張った。六波羅は備前、備中、備後、安芸、周防の勢を上洛させ、備前三石の宿に集合し山里勢を追い払わんとした。赤松は船坂山を支えて敵20人を捕虜にした。中から伊東大和次郎は変心して官側についた。西国から上洛する兵を伊東に阻止させ、赤松は都に入るまえに兵庫の北にある摩耶に城郭を築いた。
6、土居得能旗を挙ぐる事
六波羅は宇都宮は千剣破城攻めに行き、西国勢は伊東に阻まれて都に上れず、今は四国の勢をもって摩耶を攻める評定となった。2月4日伊予国の早馬は土居次郎、得能弥三郎が宮側に寝返ってたので、12日長門探題上野介時直、船300隻で伊予の星岡で合戦し土居、得能に敗れたと告げた。それ以降土居、得能の官軍は6000余騎に拡大し、今治から船に乗って攻め上がる勢いだという。
7、船上臨幸の事
畿内の軍が賊を平定できないとき、四国、西国も乱れ、国も危うくなった。六波羅から隠岐前司清高に下知があり、逆臣が前帝を奪い取りに来るかもしれないのでよくよく警護を怠るなという。隠岐前司は、出雲隠岐両国の地頭、御家人を集めて日番、夜回りを強化した。2月下旬は佐々木義縄富士名判官が中門の警備番でったので、この機に後醍醐天皇を奪い取って謀反を起こしたいという野望を抱くようになった。佐々木義縄は帝に近づき、当今の情勢を説明し隠岐脱出計画を打ち明けた。義縄の手引きで3月23日隠岐の御所を出て、六条少将忠顕だけをお供にして輿に乗った。千波の港から船に乗り替え、伯耆の国名和の港についた。
8、長年御方に参る事
名和の港に降りた六条少将忠顕はまずこの地方の有力な武将を訪ねると、名和又太郎長年という武士がいることが分かった。早速長年に勅使を立て護衛を命じたが、長年は考えている様子で、弟の小太郎左衛門長重は勅命に応じるべき由を述べた。同族20余名はこの案に同意した。主上大山の船上山に入れ参らせた。兵糧五千石を自腹で買い入れ船上に運び上げ、警護する兵は150騎であった。名和の親戚の土屋彦三郎は知恵者で、白布500反を切って各種の家紋を書き付け、木に結わえてあたかも大勢の兵が充満しているように見せかけた。
9、船上合戦の事
同じ月の29日、隠岐前司兄弟三人、佐々木弾正左衛門ら3000余騎が船上山に押し寄せた。山上に旗が棚びいているので、寄り手は容易には近づけず、遠矢を射て様子を見ていたが、流れ矢が目に当たって佐々木弾正左衛門は戦死し、佐渡の前司は降参し、隠岐前司は攻め続けた。そこへ雷雨が襲い、大手の1000余騎は谷底に転落した。主上隠岐国より還幸なり船上に御座されると聞いて、馳せ参るもの多数が出た。出雲国より出雲守護塩谷判官高貞千余騎、富士名判官500余騎、朝山次郎800余騎、大山の衆徒700余騎、石見国から沢、三角一族、安芸の国より熊谷、小早川、美作国から菅家、江見、方賀、渋谷、備後国より江田、広沢、宮、三吉、備中国からは新見、成合、那須、三村、小坂、川村、備前国より今木、大富、和田、藤井、児島、仲吉らであった。

(つづく)