南の島の生活研究から日本人の宗教・信仰をさぐる民俗学の出発点 第2回
1) 「海南小記」
1-1) 唐芋地帯
甘藷(さつまいも)は南九州では「カライモ」、「トウイモ」、九州の北から中国地方では「琉球いも」と呼び、琉球(沖縄)では「ンム」(イモのこと)と呼んだ。このことから甘藷は南シナから輸入したことが分かる。いまや東北地方まで甘藷を栽培している。特に凶作の歳だけの手べものではなく、広く農作物として栽培されている。粟、栗、豆、里芋の雑穀類よりはるかに調理法が簡単で、荒れ地でも生育するにで、今日の日本人を養ったのはこの薯ではなかったろうか。豊後
では甘藷を「トウイモ」と呼び唐芋地帯に属している。従ってこれから旅行する豊後から日向、薩摩という南西諸国は唐芋地帯という事ができる。
1-2) 穂門の二夜
穂門とは豊後臼杵の沖にある保戸島の事である。ここには「夜乞い」という祭りの夜宮があり、小さな神様が御降りになる。この島には平地がないので傾斜地に家の境も不分明に建てられ、出入り口だけが違う二階建てのようになっている。島の男は壱岐五島に稼ぎに行っていて三、四百人も帰ってくると寝る場所もない。人の家や役場に寝泊まりする、つまり島一つが大家内の一家のようなものである。水は1か所の泉に400戸が依存しており、絶対的に水が不足している。船で水を運んでくることもある。燃料はすべて外部から買う。島は9部どおりが畠で薯ばかりを作っている。野菜はほとんど輸入している。夜宮では婆さんらは伊勢踊りを歌う。そんな島ですと島の様子を記録している。
1-3) 海行かば
豊後水道の流れは速い。海で死ぬ若者が多い。海で行方不明になると、役場の人は毎年の徴兵事務で行方不明者の煩わしい手続きを繰り返さなければならない。残された人に死んだ人の場合より一層の苦痛を与えるのである。臼杵の近くにあるセメント工場に粘土を運んでくる伊予の八幡浜の舟が、豊後水道で水難にあい船と亡くなった人全員が船に綱で結ばれて大浜村に漂着した。亡くなった人の順に縄で船に括り付け、最後に船長が荒縄で結ばれていたという。船長の身体には一切の帳面と紙幣まで素肌に巻き付けてあって、子細は瞬時に判明したという。出来ない事であり、皆の涙を誘ったという。豊後は舞の「百合若大臣」の故郷であり、玄海灘の小島に流された百合若大臣は豊後の府中にすむ妻の元へ緑丸という鷹に手紙を添えて飛ばした。血と筆で単衣の袖をちぎって手紙を書いて送ると、奥方は硯がないのかと勘違いして、硯を鷹に括り付けて戻した。緑丸は途中で力尽き、玄海の渚で死んだという。これが我国伝来の海の文学で、かつ海の民の嘆きであった。今も鷹は生霊の音信を伝えるものと信じられている。
1-4) ひじりの家
日向の延岡の修験者家話である。著者柳田氏と龍泉寺の法印谷村氏との関係は何一つ書かれていないので個人的なことは分らない。ただ「深浦沿革史」を著わした貝浦義観市から紹介されたとある。江戸時代、延岡の地で土持家が盛んだったころ、谷村覚右衛門という人が大和から兵法の師範としてこの土持家の家来としてやってきた。所領は大貫村で野田に砦を構え城内の鎮守は稲荷であった。藩主が内藤氏に代わった時に、臣下となり山伏として稲荷山の行者となった。明治5年に修験の職は廃止された折、潰れ寺の名跡を買って竜泉寺とし法印となったという。修験派独立運動として東京神田で期成同盟集会に法印谷村氏は参加した。その谷村氏を柳田氏が野田稲荷山に訪問された。日本の風土によく合った修験道を真言仏教に編入したことを憤りながら、もはや後継者のいないことを悔やんでおられたという。
1-5) 水煙る川のほとり
日向の飫肥の町に12年ぶりに訪れた。ここは山の町である。人は山から平野に出て度々の戦いを経験した。与えられた平和をできるだけ楽しみ、安楽の生涯を送っていた多数の高潔の士は、永遠に歴史から消え去った。この地は昔工藤犬房丸の子孫が開いた地で、伊東家はこの地に墓域を築く権利があった。明治の戦いでは賊として多くの若者が戦死した。小倉処平、平部俊彦の墓銘が見える。その師橋南翁は「六隣荘の記」を書いて東京を去りこの町に帰った。もはや子孫はなく忘却の彼方に消えた。こうして我々の平和の基礎にはたくさんの忘却が必要であった。酒谷川は今朝も水煙が覆っていた。
(つづく)
1) 「海南小記」
1-1) 唐芋地帯
甘藷(さつまいも)は南九州では「カライモ」、「トウイモ」、九州の北から中国地方では「琉球いも」と呼び、琉球(沖縄)では「ンム」(イモのこと)と呼んだ。このことから甘藷は南シナから輸入したことが分かる。いまや東北地方まで甘藷を栽培している。特に凶作の歳だけの手べものではなく、広く農作物として栽培されている。粟、栗、豆、里芋の雑穀類よりはるかに調理法が簡単で、荒れ地でも生育するにで、今日の日本人を養ったのはこの薯ではなかったろうか。豊後
では甘藷を「トウイモ」と呼び唐芋地帯に属している。従ってこれから旅行する豊後から日向、薩摩という南西諸国は唐芋地帯という事ができる。
1-2) 穂門の二夜
穂門とは豊後臼杵の沖にある保戸島の事である。ここには「夜乞い」という祭りの夜宮があり、小さな神様が御降りになる。この島には平地がないので傾斜地に家の境も不分明に建てられ、出入り口だけが違う二階建てのようになっている。島の男は壱岐五島に稼ぎに行っていて三、四百人も帰ってくると寝る場所もない。人の家や役場に寝泊まりする、つまり島一つが大家内の一家のようなものである。水は1か所の泉に400戸が依存しており、絶対的に水が不足している。船で水を運んでくることもある。燃料はすべて外部から買う。島は9部どおりが畠で薯ばかりを作っている。野菜はほとんど輸入している。夜宮では婆さんらは伊勢踊りを歌う。そんな島ですと島の様子を記録している。
1-3) 海行かば
豊後水道の流れは速い。海で死ぬ若者が多い。海で行方不明になると、役場の人は毎年の徴兵事務で行方不明者の煩わしい手続きを繰り返さなければならない。残された人に死んだ人の場合より一層の苦痛を与えるのである。臼杵の近くにあるセメント工場に粘土を運んでくる伊予の八幡浜の舟が、豊後水道で水難にあい船と亡くなった人全員が船に綱で結ばれて大浜村に漂着した。亡くなった人の順に縄で船に括り付け、最後に船長が荒縄で結ばれていたという。船長の身体には一切の帳面と紙幣まで素肌に巻き付けてあって、子細は瞬時に判明したという。出来ない事であり、皆の涙を誘ったという。豊後は舞の「百合若大臣」の故郷であり、玄海灘の小島に流された百合若大臣は豊後の府中にすむ妻の元へ緑丸という鷹に手紙を添えて飛ばした。血と筆で単衣の袖をちぎって手紙を書いて送ると、奥方は硯がないのかと勘違いして、硯を鷹に括り付けて戻した。緑丸は途中で力尽き、玄海の渚で死んだという。これが我国伝来の海の文学で、かつ海の民の嘆きであった。今も鷹は生霊の音信を伝えるものと信じられている。
1-4) ひじりの家
日向の延岡の修験者家話である。著者柳田氏と龍泉寺の法印谷村氏との関係は何一つ書かれていないので個人的なことは分らない。ただ「深浦沿革史」を著わした貝浦義観市から紹介されたとある。江戸時代、延岡の地で土持家が盛んだったころ、谷村覚右衛門という人が大和から兵法の師範としてこの土持家の家来としてやってきた。所領は大貫村で野田に砦を構え城内の鎮守は稲荷であった。藩主が内藤氏に代わった時に、臣下となり山伏として稲荷山の行者となった。明治5年に修験の職は廃止された折、潰れ寺の名跡を買って竜泉寺とし法印となったという。修験派独立運動として東京神田で期成同盟集会に法印谷村氏は参加した。その谷村氏を柳田氏が野田稲荷山に訪問された。日本の風土によく合った修験道を真言仏教に編入したことを憤りながら、もはや後継者のいないことを悔やんでおられたという。
1-5) 水煙る川のほとり
日向の飫肥の町に12年ぶりに訪れた。ここは山の町である。人は山から平野に出て度々の戦いを経験した。与えられた平和をできるだけ楽しみ、安楽の生涯を送っていた多数の高潔の士は、永遠に歴史から消え去った。この地は昔工藤犬房丸の子孫が開いた地で、伊東家はこの地に墓域を築く権利があった。明治の戦いでは賊として多くの若者が戦死した。小倉処平、平部俊彦の墓銘が見える。その師橋南翁は「六隣荘の記」を書いて東京を去りこの町に帰った。もはや子孫はなく忘却の彼方に消えた。こうして我々の平和の基礎にはたくさんの忘却が必要であった。酒谷川は今朝も水煙が覆っていた。
(つづく)