ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「海南小記」 (角川ソフィア文庫1972年改版)

2018年01月31日 | 書評
南の島の生活研究から日本人の宗教・信仰をさぐる民俗学の出発点 第2回

1) 「海南小記」

1-1) 唐芋地帯

甘藷(さつまいも)は南九州では「カライモ」、「トウイモ」、九州の北から中国地方では「琉球いも」と呼び、琉球(沖縄)では「ンム」(イモのこと)と呼んだ。このことから甘藷は南シナから輸入したことが分かる。いまや東北地方まで甘藷を栽培している。特に凶作の歳だけの手べものではなく、広く農作物として栽培されている。粟、栗、豆、里芋の雑穀類よりはるかに調理法が簡単で、荒れ地でも生育するにで、今日の日本人を養ったのはこの薯ではなかったろうか。豊後
では甘藷を「トウイモ」と呼び唐芋地帯に属している。従ってこれから旅行する豊後から日向、薩摩という南西諸国は唐芋地帯という事ができる。

1-2) 穂門の二夜
穂門とは豊後臼杵の沖にある保戸島の事である。ここには「夜乞い」という祭りの夜宮があり、小さな神様が御降りになる。この島には平地がないので傾斜地に家の境も不分明に建てられ、出入り口だけが違う二階建てのようになっている。島の男は壱岐五島に稼ぎに行っていて三、四百人も帰ってくると寝る場所もない。人の家や役場に寝泊まりする、つまり島一つが大家内の一家のようなものである。水は1か所の泉に400戸が依存しており、絶対的に水が不足している。船で水を運んでくることもある。燃料はすべて外部から買う。島は9部どおりが畠で薯ばかりを作っている。野菜はほとんど輸入している。夜宮では婆さんらは伊勢踊りを歌う。そんな島ですと島の様子を記録している。

1-3) 海行かば
豊後水道の流れは速い。海で死ぬ若者が多い。海で行方不明になると、役場の人は毎年の徴兵事務で行方不明者の煩わしい手続きを繰り返さなければならない。残された人に死んだ人の場合より一層の苦痛を与えるのである。臼杵の近くにあるセメント工場に粘土を運んでくる伊予の八幡浜の舟が、豊後水道で水難にあい船と亡くなった人全員が船に綱で結ばれて大浜村に漂着した。亡くなった人の順に縄で船に括り付け、最後に船長が荒縄で結ばれていたという。船長の身体には一切の帳面と紙幣まで素肌に巻き付けてあって、子細は瞬時に判明したという。出来ない事であり、皆の涙を誘ったという。豊後は舞の「百合若大臣」の故郷であり、玄海灘の小島に流された百合若大臣は豊後の府中にすむ妻の元へ緑丸という鷹に手紙を添えて飛ばした。血と筆で単衣の袖をちぎって手紙を書いて送ると、奥方は硯がないのかと勘違いして、硯を鷹に括り付けて戻した。緑丸は途中で力尽き、玄海の渚で死んだという。これが我国伝来の海の文学で、かつ海の民の嘆きであった。今も鷹は生霊の音信を伝えるものと信じられている。

1-4) ひじりの家
日向の延岡の修験者家話である。著者柳田氏と龍泉寺の法印谷村氏との関係は何一つ書かれていないので個人的なことは分らない。ただ「深浦沿革史」を著わした貝浦義観市から紹介されたとある。江戸時代、延岡の地で土持家が盛んだったころ、谷村覚右衛門という人が大和から兵法の師範としてこの土持家の家来としてやってきた。所領は大貫村で野田に砦を構え城内の鎮守は稲荷であった。藩主が内藤氏に代わった時に、臣下となり山伏として稲荷山の行者となった。明治5年に修験の職は廃止された折、潰れ寺の名跡を買って竜泉寺とし法印となったという。修験派独立運動として東京神田で期成同盟集会に法印谷村氏は参加した。その谷村氏を柳田氏が野田稲荷山に訪問された。日本の風土によく合った修験道を真言仏教に編入したことを憤りながら、もはや後継者のいないことを悔やんでおられたという。

1-5) 水煙る川のほとり
日向の飫肥の町に12年ぶりに訪れた。ここは山の町である。人は山から平野に出て度々の戦いを経験した。与えられた平和をできるだけ楽しみ、安楽の生涯を送っていた多数の高潔の士は、永遠に歴史から消え去った。この地は昔工藤犬房丸の子孫が開いた地で、伊東家はこの地に墓域を築く権利があった。明治の戦いでは賊として多くの若者が戦死した。小倉処平、平部俊彦の墓銘が見える。その師橋南翁は「六隣荘の記」を書いて東京を去りこの町に帰った。もはや子孫はなく忘却の彼方に消えた。こうして我々の平和の基礎にはたくさんの忘却が必要であった。酒谷川は今朝も水煙が覆っていた。

(つづく)
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文芸散歩 柳田国男著 「海南小記」 (角川ソフィア文庫1972年改版)

2018年01月30日 | 書評
南の島の生活研究から日本人の宗教・信仰をさぐる民俗学の出発点 第1回

本書は「海南小記」、「与那国の女たち」、「南の島の清水」、「炭焼小五郎が事」、「阿遅摩佐の島」の五作品からなる。すべて南方諸島の話である。「海南小記」は大正14年4月20日の作品である。29章からなり、本書の約半分を占める。「与那国の女たち」は大正10年4月の刊、「南の島の清水」は大正10年5月の作品、「炭焼小五郎が事」は大正10年1月1日―15日朝日新聞連載の作品、「阿遅摩佐の島」は大正10年2月21日久留米中学校での講演である。

1) 「海南小記」

「海南小記」に書かれた西南諸島の旅は、大正9年12月15日方翌年2月にかけてのことであった。柳田氏47歳のときであった。柳田氏は大正9年8月に貴族院書記長を最後に官職を辞し、東京朝日新聞客員になった。最初の3年間は旅をさせてほしいという条件での入社であったという。宮仕えがいやになって満を持して最初の足袋は8月より東北地方に行き、紀行作品は「雪国の春」が生まれ、10月には中部地方に旅して「秋風帖」が書かれた。12月には西南諸島(九州東岸をふくむ)を旅した「海南小記」が生まれた。「海南小記」の旅は、大正9年12月13日に東京を立ち、15日神戸から春日丸に乗船し別府に着いた。大分から臼杵までは汽車でゆき、臼杵から船に乗って九州東海岸沿いに南下し大隅半島の都井岬に着いた。都井岬に上陸して汽車で大隅半島を横断して、高須から船で鹿児島市に出た。鹿児島の年末の混雑を避けて船で鹿児島から大根占に上陸して大隅半島の南端佐多岬まで行った。そこで大正15年の元旦を迎えた。1月3日鹿児島から沖縄行きの宮古丸に乗った。翌日奄美大島の名瀬に寄って1月5日那覇に上陸した。2週間ほど那覇に滞在し、各地を巡り多くの人に会い図書を照覧したという。首里の里の他、国頭山、今帰仁の諸喜田、大宣味間切の塩屋浦、久志の瀬高に各一泊した。この間東西の離れ島には渡っていない。宮古島には船で往復しただけで、石垣島には五日間滞在し、おもと嶽を訪れた。2月2日宮古島経由で那覇に戻り、1週間日帰りの一人旅をつづけた。斎場御嶽に詣でたり、各地の話を聞いて回った。2月9日奄美大島の名瀬に戻って、船で島めぐりを、15日に鹿児島に着いた。東京へ帰ったのは3月1日だった。「海南小記」は東京朝日新聞の3月29日から5月20日までの計32回連載された。旅の帰路長崎で「国際連盟委任統治委員会」への出席要請を打診された。これは同じ農政学の先輩新戸部稲造氏(当時国際連盟事務総長であった)の推薦に依ったものらしい。同年5月ジュネーブの連盟本部へ出張し、また翌年5月にもジュネーブに滞在した。その地で、旧知の言語学者で「琉球諸文典並びに辞典に関する試論」を著わしたチェンバレン教授との再会を期待したものの果たせなかったことを回想した小文を「海南小記」の自序にに掲げている。チェンバレン教授は沖縄と本土の文化が同源であることを言語学に説いた先覚者であったという。チェンバレン教授の見解は、昭和36年柳田国男氏の最期の著書「海上の道」において結実したと言える。日本人の祖先は黒潮に乗って南から移住してきたのであろうという日本人起源論というべき説であった。

(つづく)
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文芸散歩  柳田国男著 「桃太郎の誕生」(角川ソフィア文庫 2013年新版)

2018年01月29日 | 書評
昔話と伝説の起源を神話時代(日本人の古層)に求める柳田民俗学の提案 第9回 最終回

8) 和泉式部の足袋

狼や鷲が赤子を運ぶ説話は古くて世界中に分布している。鹿の子の伝説はほとんど歴史上の人物と結びつく。第1は鹿娘もしくは鹿姫という。岩手では昔話として皿々山の求婚譚と結合している。伝説としては和泉式部、浄瑠璃御前、光明皇后などと結合する。優れた人、貴人の異種誕生譚となる。そういういみで桃太郎説話の主題となる。鹿は神の使いとすれば、鹿が人間として生まれたら、その人は神と同格である。その証拠を求める話である。その実例として「和泉式部の足袋」が取り上げられた。鹿の子なるがゆえに足の趾が二つに割れていることを隠すため足袋が発明されたという、いかにも嘘臭い理屈が述べられる。しかし虚を突かれたような話の落ちである。これは、矢作の兼高長者が子供がいなかったので、鳳来寺の峰の薬師に願かけて、満月の夜薬師が白い鹿となって現れ一つの玉をを賜ると身ごもったという。或は鹿の子を授かったというときは浄瑠璃姫である。この足袋の由来は肥前と三河にある。和泉式部の生地・埋葬地も全国に多く分布している。これは歌比丘尼、薬師信仰者が運んだものであろう。人と鹿の婚姻譚は「今昔物語天竺篇」に見られる。

9) 米倉法師

「米倉法師」は柳田氏の数少ない笑話研究の一つである。日本の盲法師に類する遊行僧が、笑話の発展に参与したことに着目している。「桃太郎の誕生」に関係するものの一つが、桃太郎童話の傍系である米倉法師である。正直な爺が水神から黄金を生む少童、小動物を授かる話は「海神少童」においても述べられている。米倉法師も水神の贈り物として打出小槌を授かった。ここで語呂合わせのように「米倉」(”こめ”、”くら”と叫ぶと米と蔵が出てくる)を「小盲」に通じると理解するとこの落語の意味が明白となる。ここに盲坊主が参加して、昔話が笑話の方へ引きずってゆくことに積極的に加担したというのだ。二つを同時に欲しいと欲張って連続して”こめくら”と叫ぶと、盲坊主がぞろぞろ出てきたという。グリム童話では「お膳」では、巡行する神や僧を泊めて、そのお礼に3つの願い事をかなえる呪宝を授かる。欲深い女房は多くのものを望んで失敗しすべてを失う話である。

(完)
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文芸散歩  柳田国男著 「桃太郎の誕生」(角川ソフィア文庫 2013年新版)

2018年01月28日 | 書評
昔話と伝説の起源を神話時代(日本人の古層)に求める柳田民俗学の提案 第8回

6) 絵姿女房

この話はこれまでのテーマとは異質であり、小男神とも結びつかない。下賤な男が美女と結婚する。仕事が手につかないくらいの美しさのため、似顔絵を描いて貰って畑仕事の脇に掛けておくのである。フェチズムの極みである。その絵が風に飛ばされて殿さまの手に入ったところからストーリが展開する。この話の後半は二つに分かれる。①殿さまがこの絵の主を女房にしたくて、出来なければ女房と交換に無理難題を三つ申し渡す。女房がその問題をやすやすと解決するので殿さまは降参する。この話は西日本に多い。②女房が殿さまとの強制結婚で連れ去られるとき、亭主に城下に桃売りに来るように言いつける。亭主が御殿の周りを触れ歩く声を聴いて、城内の連れてこられた女房が初めて笑う。これを見た殿さまは女房の御機嫌を取るため、亭主の桃売りの服と自分の殿さま衣裳とを取り換え、桃売りの姿をして城外にでる。夕方になって殿さまは城内に入ることができず、亭主はそのまま殿さまになって二人は城を乗っ取るのである。この第2の形式は東日本の話に多い。東日本と西日本の話の内容の違いは、国際的には「オイコティーフ」(国民的地域的相違)と呼ばれる。柳田氏はこの相違を日本的な原因に求めることには成功していない。この話は中国の「絵姿女房」に多くの例が見られるそうである。この話はトルコより東ではインド、中国、日本で収集されている。「絵姿女房」を「帝王求婚」という風にとらえると、「竹取物語」にまでさかのぼることができる。アジア・ヨーロッパ型の昔話である。

7) 狼と鍛冶屋の姥

ここで問題とされるのは、昔話の存在形態から見ると事件の場所、参加した人物を述べる伝説に近いのであるが、明確に伝説とも昔話とも規定できない説話を「世間」という分類で呼んでいる。そういう説話がいかにして伝説となり昔話となるのか、または逆に伝説・昔話が崩壊して世間話化するのか、これを習俗との関係で述べられている。この「狼と鍛冶屋の姥」という話は、土佐野根山の産杉伝説から始まる。産杉伝説には共通する3つの条件がある。①大杉の梢でお産をした妊婦の事、②群狼の危難に遭遇してかろうじて助けられたこと、③狼の巨魁が鍛冶屋の姥であったことである。木の上での分娩は土佐の話以外には見られない。この話は伝説または昔話として東北地方から南西諸島まで分布している。大杉の根と称するものが残っていること、妊婦が無事出産したことからその木を削って安産の護符とする習俗と結合していること、そして鍛冶屋の屋敷跡がが残っていることによって半ば伝説化している。山の峠の奇形の木にはそもそも伝説化しやすい要因が付着している。この談話の米子地方の伝説では、山伏が狼の群れに襲われ、大きな木に登って難を避けると、二、三十匹の狼が背継ぎをして迫ってくる。最後のところでもう一匹分が足りないので、五郎太夫姥(鍛冶屋姥)を呼びにやれといって、姥がきて先頭に立つと、山伏は脇差を抜いて、その大狼に切りつけた。狼は退散し、翌朝五郎太夫の屋敷に行くと、婆が木から落ちてけがをして行方知れずだという。「狼と鍛冶屋の姥」の話には国際的に共通する挿話が多い。「千匹狼の大梯子」、樹上の旅人を攻める話には、猫か狼かの二系統がある。猫は積極的に兜(茶釜)をかぶって防戦している話も国際的には多い。古猫が茶釜の蓋で鉄砲の玉をよける「狩人」形式もある。化け物の正体と所在が聞こえた話からすぐに分かる「悪魔の謎」形式である。土佐野根山鍛冶屋の姥には屋敷跡があって、子孫には代々背中に毛が生えていたとする伝承があるという。これと同様の伝承は越前にもある。但馬の加門塚の伝説は複雑である。加門の妻は山路で罠にかかった狼を助け狼の首領となった。駿河の朝比奈の先祖も狼に助けられた児童であった。八幡様に祈って授かった子は狼が咥えてきた子であった。その肩には狼の歯形があったという。その子は武勇豪傑となり、狼明神を夏ったとされる。狼が人を助ける動物謝恩の昔話で多いのは、人が狼の喉に刺さった骨を取ってやることで、子孫繁栄のもとになり狼を神として祀ったのでる。ユーラシア型の昔話で紀元前数千年にさかのぼる。ローマ人の始祖を狼とする神話はことに有名である。狼はモンゴルの説話の主役である。柳田氏は狼=産婆=乳母という信仰の系列を述べている。狼以外では鷲に連れてこられた東大寺の高僧良弁の出生を説く良弁杉の伝説が知られている。こういった話はスウェーデンに同じ系統の話がある。

(つづく)
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文芸散歩  柳田国男著 「桃太郎の誕生」(角川ソフィア文庫 2013年新版)

2018年01月27日 | 書評
昔話と伝説の起源を神話時代(日本人の古層)に求める柳田民俗学の提案 第7回

4) 田螺の長者

この昔話も「桃太郎昔話」と共通するモティーフを持っている。子のない夫婦が神に祈願して、田螺(蛙、小男)を授けられる。人の腹から生まれるのではなく、指が腫れてそこから生まれる。(あるいは田螺を拾って育てる。)長じて嫁探しの旅に出る。長者の家に泊まり、携えた餅、黍を食ったもの(受諾の意志の表れ)を女房にすると親に約束させる。そして寝ている間に末娘の口に餅を咥えさせ、翌朝娘を嫁にする。成功の秘密は奸計によって婚姻を獲得することで、道徳的に見て如何と思わせる話である。この主題は旧約聖書土師記によって「エフタモティーフ」と広く呼ばれている。娘は田螺を嫌がって短刀で田螺の殻を割るとか風呂に入れてかき回す。これらは成人式の割礼の式に一致する。田螺はこれによって若者に転化し娘と結婚することになる。この話は柳田昔話の「本格的昔話」の基本構造である。貴い童子が信心深いものの希望によって与えられ、童子は成長して驚くべきことをやり遂げ、名家の娘と結婚して家を興す。すなわち誕生ー成人ー結婚という仮定をたどる。同系統の話にはグリムの「蛙の王子」があり、異類結婚譚である。

5) 隣の寝太郎

1)桃太郎の誕生、2)海神少童、3)瓜子織姫、4)田螺の長者が本書の前半を構成し、本格的昔話の代表である桃太郎昔話と関係する昔話の基本構造を説明してきた。本書後半の第5章から第9章は、直接的に「桃太郎昔話」との関係を意識しないで読める題目となっている。これより伝説と昔話の関係を、7)狼と鍛冶屋の姥、8)和泉式部の足袋に考察し、笑話の由来を5)隣の寝太郎、9)米倉法師で考え、ちょっと風変わりの輸入昔話として6)絵姿女房に見てゆこう。まず笑話の「隣の寝太郎」である。この昔話は「宇治拾遺物語」の「博打婿入りの事」によって知られる。昔話の基本テーマが本来ありえない画期的なことを遂行し、花嫁を貰って家を興すことであるとするならば、長州の話では寝太郎は治水干拓の功績のために祀られた寝太郎荒神の由来譚となり、寝太郎餅と結びついた。笑話はここから始まる。柳田氏の定義では笑話は派生説話で、ある一つの事件を問題とした逸話風の説話という位置づけであった。この話の主人公は豊後の吉四六話と同じように、奸策による婚姻である。怠け者でも出世できるという昔話の定番である。そこにあるのは奸智である。良くない智である、悪智恵ともいわれる。酷く醜い顔をした若者が、自分は美男子であるという触れ込みで長者の婿募集に参加し、長者の愚鈍を利用して婿入りに成功するというストーリである。笑話は内容がおかしいから笑話ではなく、神の恩恵を受けている者だけが成功すると説かれている。笑話の世界では神は信じるべき対象ではなく生活の手段として利用するという様に、神は衰退している。笑話と昔話の間には神に対する大きな差異がある。

(つづく)
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