ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月30日 | 書評
京都市右京区嵯峨鳥井本 「嵯峨 壇林寺旧跡」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第40巻(年代:1367年)(その2)

5、南禅寺と三井寺と確執の事
6月18日、円城寺の衆徒蜂起して公武に訴状を出した。そのいわれはというと、別格禅寺の南禅寺造営のため関所を設けられが、三井寺の稚児を関務の禅僧らが殺した。三井寺の衆徒らその日の内に関を襲い僧、人足を撃ち殺した。それでも鬱憤は晴れず、南禅寺の取り壊すように強訴に及んだのである。山門(延暦寺と興福寺、東大寺)はこの訴状を四大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、三井寺)の討議に懸けるというが、事は大変ですぐになるとも思われない。ただ書類と時間ばかりが費やされ、幕府の処置は裁定ができるともわからず、いらだちの感情の中で日が過ぎた。
6、最勝八講会闘諍に及ぶ事
8月18日の最勝講の人達が集められた。興福寺十人、東大寺二人、延暦寺八人、園城寺は当事者なので外された。最勝講が行われている紫宸殿前の庭で衆徒同士の口上の激しい合戦となった。ところが南都の衆徒は脇差を持っていたので山門の衆徒は敵わないで紫宸殿の床に逃げ込み腰刀で応戦した。庭には宗徒八人の屍が横たわり、闘諍は御所を出て都の路上で行われた。
7、征夷将軍義詮朝臣逝去の事
12月7日深夜、征夷将軍義詮公は38歳で逝去された。12日に荼毘に付された。同じ年に足利兄弟義詮、基氏が亡くなられた。
8、細川右馬頭西国より上洛の事
細川右馬頭頼之は西国の管領であったが、幼少の足利義満10歳を補佐するため、全国の管領職になり、武蔵守に任じられ執事職を司ることになった。氏族、外様も彼の命に背かず、平和が訪れめでたい限りであった。これで「太平記」は終り。

(太平記 終わり)


太平記

2021年01月29日 | 書評
京都市下京区中堂寺櫛笥通 「末慶寺」浄土宗

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第40巻(年代:1367年)(その1)

1、中殿御会の事
1367年3月18日、後光厳帝は後白河法皇遠忌のため3日間長講堂に行幸した。諸道の復興に熱心な帝は、とりわけ太平の世の象徴として和歌・管弦の盛儀である中殿御会の再興を望んだ。諸卿らは中殿御会は当今不相応な盛儀であり、しかも不吉な前例が多いとして反対したが、朝議の再興にこだわる帝の熱意によって3月29日中殿御会は行われた。歌会は、詩経に「詩三百邪なし」といわれように神国の風俗である。中殿の宴は後冷泉院が1056年に清涼殿に群臣を集め御製の歌を加えられた。白河院は1084年中殿において行われた。のち堀川院1096年、崇徳院1131年、順徳院1218年、後醍醐院1330年と中殿の御会はお題を変えながら綿々と続けられた。征夷将軍義詮も歌道に熱心であったので、賛意を表せられた。
2、将軍御参内の事
中殿の御会の当日、関白藤原朝臣良基は直盧からご参内あり直衣(貴族の普段着)始めの儀があった。午前2時ごろ将軍が参内された。将軍をはじめ高名な武将の衣裳の記述が続いた。関白殿は奉行の職事仲光に事の次第を正して、帝の出御を伺った。関白以下公卿が座と衣裳が紹介される。歌会の進行役は右大臣で仲光、時光を召される。「花は多春の友」がお題である。関白藤原朝臣良基から始めて詠じられた公卿の名が列記される。歌会の被講が終わると御遊が始まる。管弦が奏せられ、一時の違乱なく無事遂げ行われた。正午ごろ人々は退出した。
3、貞治六年三月二十八日天変の事
中殿の御会の前日3月28日午後4時ごろ、おびただしい流星が東の空に流れ、翌29日には天龍寺の工事中の甍が炎上した。五山第二の禅寺で勅願寺だったので、今日の歌会は取りやめたらという意見もあったが、将軍は例がないといって出席された。
4、鎌倉左馬頭基氏逝去の事
鎌倉の左衛門頭基氏(将軍義詮の弟)は今春より体調思わしくなく、4月26日28歳で他界された。兄弟が花夷の鎮撫(兄が花の都の鎮撫、弟が関東八か国の夷の鎮撫)という車の両輪であったが故に悲しみも深かった。

(つづく)

太平記

2021年01月28日 | 書評
京都市上京区今出川通り 「冷泉家」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第39巻(年代:1364年-1366年)(その2)

7、道朝没落の事
道朝はこのうわさを聞いて、8月4日夜将軍義詮に面会し故なきを弁明した。讒言は正しようがないが、さらにご不審があるならばこれは私的ないざこざのなすところで、全国の大名を催すまでもなく決済するといった。将軍は「いちいち尤もではあるが、今の世の中は自分の思うようには転がらないので、しばらく越前へ下って身を隠せ」という答えであった。道朝が退出した後崇永の軍800騎が将軍家の館を警護した。道朝は北国下向と決め、二宮信濃守が500騎が警護して長坂を経て越前に落ちた。道朝は杣山城に入り、子息治部大輔義将は栗屋上に籠った。10月より追っ手は畠山義深、山名大輔、佐々木崇永ら一党、赤松らの軍7000余騎が二つの城を囲んだが何年経っても落ちる気配はなかった。翌年1367年7月道朝病気で死亡した。子息治部大輔義将は9月将軍の宥免安堵の御教書が出て許された。そして桃井直常を退治した功績により越中の守護職に補せられた。
8、神木御帰座の事
1366年8月12日 越前国河口の庄を南都に返したことで神訴は終り、御神木は春日大明神に帰った。藤原氏の卿雲ら神幸に供奉されることになった。(これが政治的解決で、強面の命令だけでは人は動かない)
9、高麗人来朝の事
この40年間本朝は大いに乱れ、山には山賊、海には海賊が横溢した。海賊が元た高麗の津々浦々を襲い、明州、福州の財宝を奪い官舎、神社を焼き払った。これによって1363年8月13日高麗王は元朝皇帝の勅宣を受け使節団を日本に派遣した。海賊が異国を犯すことは、四国、九州の海賊の仕業であるので都より彼らを捕らえ罰することはできないとして返事は送らなかった。ただ使節団には贈物を与えた。次の2章は日本と外国との合戦、外交交渉の故事を述べて参考とするものである。
10、太元より日本を攻むる事 同 神軍の事
異国が日本を攻めた例は七度ある。中でも文永、弘安の戦いは元国の最盛期のことで、我が国のような小国が大陸の大国の侵略を防ぐことは難しいが、無事であれたのはひとえに神の冥助による。1274年10月15日元の七万余艘の大船が同時に博多の津に押し寄せた。鎌倉幕府の備えは海岸戦に石の堤を築き、元の鉄砲の威力はすさまじかった。日本が鉄砲なるものを経験したのはこれが最初である。筑紫の兵は四国。九州へ逃げた。慌てふためいた日本は神社仏閣で祈祷を挙げるだけであった。元の将軍は博多上陸後二日にして長門、周防に押し寄せた。その時大風が起こり船は岩礁にぶつかり大破し兵は全員死亡した。そもそも元300万騎の大軍が一度に亡んだのは我が国の武勇ではなく、神社の冥助しか考えられない。(合戦はしていないし、したことは祈祷だけだったから。)
11、神功皇后新羅を攻めらるる事
この章は「和漢朗詠集和談鈔」から引いたものらしい。仲哀天皇が馬韓、辰韓、弁韓を攻めた時、戦い利あらず帰国した。神功皇后は負けたのは智謀と武備が足らなかったせいだとして、大金を払って履道翁の書(兵法書)を買い求め、軍議に日本中の神々を呼んだ時、海底に住む「阿度女の磯良」より二つの玉を得た。そして諏訪、住吉大明神を副将軍として高麗に攻め込んだ。海上戦の時は「干珠」で海を陸地にし、陸上戦では「満珠」で潮を満たして敵を殺し高麗を屈服させた。それ以来高麗は我が国に密儀をする属国となった。上古の代に天神地祇の助けによって勝ったにもかかわらず、末世には元朝から攻められ高麗を奪われ、我が国を奪われそうになった。
12、光厳院禅定法皇崩御の事
光厳院の禅定法皇は1357年南山賀名生から帰洛されて以来出家され、伏見の光厳院に隠棲された。順覚という従者一人を杖にして山川での修行に出られた。(ここから道行文が雅な美文調で語られる)摂津の難波、金剛山、高野山、堺の津、吉野山、丹波の常照皇寺と巡られたが、1364年夏に病気になられ7月2日に崩御された。

(つづく)

太平記

2021年01月27日 | 書評
京都市上京区今出川通り 「相国寺 総門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第39巻(年代:1364年-1366年)(その1)

1、大内介降参の事
世の中には知恵の優れた人は少なく、愚かな人が多い。武家になるには命が気で人の道を行い道義において名を汚さないことが必要なのに、人心は欲に移ろいやすく替わりやすい。昔の人が世を治める為に二君に仕えるのと、今の人が欲心からこころがわりするのとは雲泥の違いがある。大内広世は多年宮方で、周防、長門二国を平定していたが、1363年にわかに心変わりして、将軍義詮にこの二国の領地を与えてくれるなら将軍側に付くといってきた。将軍は西国安定のためにこれを承知したが、この地の守護であった厚東駿河守は守護職を奪われたので筑紫に落ち菊池と一緒に大内を攻めた。大内は豊後国に三千騎で押し寄せ二度の合戦に敗れた。降参して許され京へ上がった。京では大内は金、物を関係者に配り有用な人とみなされた。金をくれる人いい友達といった世情の毀誉は善悪ではなく、人の価値を貧福におくものである。
2、山名御方に参る事
山名左京大夫時氏、子息右衛門佐師氏は、近年南方になって二度までも京都に攻め入った敵であったが、ある縁を頼って将軍家に詫びを入れ、「二度にわたる不義は将軍家を傾けんとするものではなく、あまりの、佐々木入道道誉の振る舞いが無道であったので思い知らせるためばかりの事であった。この間の領地である伯耆、因幡、美作、丹波、丹後五ヶ国の守護に任じていただければ、味方になる」といってきた。将軍義詮は西国の安定には山名が味方になれば、宮方は大きな力をなくするだろうとしてこれを許した。
3、仁木京兆降参の事
二木右京大夫義長は伊勢、伊賀、三河の守護職で侍所頭比として武家に間で権勢をふるった人物で、京兆とは左右京職の事である。権勢余りに大きかったのでライバルの恨みをかい、畠山国清らと対立して没落し、南朝方に下った。合戦に敗れ伊勢国に立て籠もったが、佐々木六角判官入道崇永や土岐大膳大夫入道善忠が討っ手となり二木を攻めたが、かえって彼らを退けた。伊勢国は二木京兆、将軍方、宮方の北畠源中納言顕信の三つ巴の争いの中にあった。5,6年を経て二木義長は悔いて将軍方に降参の意思を示し、将軍義詮はこれを許し義長を京都に帰した。こうして伊勢、伊賀国は安定した。
4、芳賀兵衛入道軍の事
上杉民部大輔憲顕は将軍家兄弟尊氏と直義の合戦の時、高倉禅門(直義)の可tにいて上野板鼻の合戦に宇都宮に破れ、流れて信濃国にいたが、鎌倉公方基氏は上杉憲顕に幼少より薫陶を受けていたので、勝手の不意は許し越後の守護職に任じた。この時越後の守護職は芳賀兵衛入道禅可は替えられて不満が募り、上杉と合戦に及んだ。上杉はすでに鎌倉公方の執事となって鎌倉に向かったので芳賀はこれを待ち受けて上野国板鼻に陣を取って上杉を待った。6月17日鎌倉公方基氏が大軍を率いて宇都宮に寄せられると聞いて、芳賀は息子伊賀守、駿河守に800騎をつけて武蔵国(毛呂)へ遣わした。鎌倉勢は白幡一機5000余騎、平一揆3000余騎、鎌倉殿1000余騎、坂東八か国の勢が馳せ参じて雲霞のごとく見えた。合戦の模様は省略するが、芳賀軍勢は少数ながら健闘したが敗れ国へ逃げ帰るものが多数出た。やがて鎌倉公方は80万騎の大軍で芳賀の残党を悉く退治するとして小山館に押し寄せたが。宇都宮氏綱は芳賀の合戦は我が知る事ではなく、芳賀一族は既に逃げ散じたので、大軍を派遣するまでもないというので基氏は翌日鎌倉に戻った。
5、神木入洛の事 併 鹿都に入る事
足利尾張修理大夫入道道朝(斯波高経)は尊氏・直義の兄弟合戦の時は恵源禅門方(弟の直義)に組して負けたのでしばらくは宮方に属していたが、将軍方より招かれてまた御方になられた。三男治部大輔義将を足利将軍家の執事の職に復して武家の成敗を一手にした。越前国は寺社本領を二部して家人に分け与え、南都の所領河口の庄を一門の兵糧所とした。寺社本所領は、仏事維摩経に費用に費やし、興福寺の僧たちの生活の資であった。その寺社所領の横領によって法会の費用に事欠き維摩経会も途絶えがちとなった。この恨みによって若い僧や氏人らは春日大社の神木を持って、大夫入道道朝の屋敷に投げ込んだ。5月17日大鹿二頭が京の中を走り去るなど不思議なことが続発し、10月3日道朝の屋敷七條東洞院より出火し人々は春日大明神の祟りだと騒いだ。道朝は将軍の御所である三条高倉の近くに屋敷を作り、門前は大いに栄えたという。
6、諸大名道朝を讒する事 付 道誉大原野花会の事
そもそも道朝の斯波家は足利家とは格別の縁を持ち、斯波家の祖家氏以来代々尾張守に任じられて来た一族である。地頭御家人に課した幕府の税率は1/50であったが、道朝が管領の時1/20に増税したことが武家の反発を招いた。また将軍家が三条高倉に御所を作られたとき、大名にひとつづつの殿を作らせることになっていたが、赤松則祐の作事が遅れた理由で庄を召しあがられたことが赤松の恨みを買った。また佐々木佐渡守判官入道道誉が五条大橋の奉行を仰せつかり、棟別銭(造作税)を取りながら工期が遅れがちだったのを、道朝は見事に完成させたので喝さいを浴びたことが道誉には面白くなかった。道朝が桜の季節連歌の会を将軍の館で行うことになっていたが、道誉を招待した。ところが道誉は日にちを間違えたといって同じ日に大原野で盛大な桜宴のイベントを開いた。本文ではこの遊びの模様を名文調で記述している。このことは管領道朝の面白くない所だが私的なことなので色に出さないでいた。虎視眈々と道朝は道誉の瑕疵を狙っていたが、道朝が管領の時定めた1/20税を2年間納めなかったので、道誉が持つ摂州の守護職と多田の庄を取り上げ、政所料所(闕所扱い)にした。これには道誉の怒りが爆発し、娘婿佐々木氏頼(芳名崇永)及び娘婿の赤松則祐と語らい、諸家の不満・讒言を合わせて道朝討伐の理由とした。内内佐々木六角判官入道崇永に命じて江州の兵を集めた。

(つづく)


太平記

2021年01月26日 | 書評
京都市下京区大宮通り花屋町 「西本願寺 茶室」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第38巻(年代:1362年)(その3)

10、和田楠と箕浦と軍の事
7月24日の長尾城の合戦で細川相模守清氏が討たれ、四国、中国は細川右馬頭頼之の支配するところとなったので、南方の和田、楠は宮方の奮起を催すため、800騎の兵と野伏6000人を率いて神崎に寄せた。摂津国の守護は佐々木判官入道道誉であったが、在京のまま箕浦二郎左衛門を守護代として置き、兵500騎をつけ神崎の橋爪に待機させ、敵が川を渡るとき射落とすものと構えて居た。和田、楠は神崎の橋爪と杭瀬の二ヶ所に寄せたので、箕浦四郎らは100騎で杭瀬に向かい、箕浦守護代ら300騎は橋爪に向かった。和田、楠は8月16日の夜、二十町上流の三国から川を渡って、突如京勢を討ち囲んだ。両軍必死の攻防で多くの死者を出し消耗戦となった。手に汗握る武者の合戦ぶりはこの物語の常套表現なので割愛する。
11、兵庫の在家を焼く事
和田、楠らは摂州の敵を蹴散らしたといっても、赤松判官、信濃五郎兄弟は兵庫の北多々部の城に籠って湊川を管領していたので、9月16日石塔右馬頭、和田、楠ら3000余騎出湊川の邑を焼き払った。9月晦に改元して、京から尾張大夫入道斯波高経が追っ手を出すという噂が出ると和田、楠らは兵庫を退き河内国に帰った。これを聞いて丹波にいた山名伊豆守時氏の勢も因幡国に引き返した。
12、大元軍の事
中国の漢籍の兵法、特に勇より智謀を重んじる事を言わんとする。「論語」を引いて、孔子は顔回に「用いられれば行動し、捨てられれば隠れる」と誉めたが、子路を諫めて「勇だけの者は避け、謀を好む者とともに行動する」といった。1279年宋国が蒙古に天下を奪われたのは西方の蕃族の蒙古の軍師の謀による。宋国最後の時の皇帝は、第18代幼帝衛王の時である。蒙古の老帝が夢を見た。揚子江を挟んで両陣は睨みあった。すると宋の幼帝は怒れる獅子になり、蒙古の老帝は羊となり、羊は二つの角と尾を残して天に上った。この夢占いを帝師に問うと、羊という字から角二本と尾を取ると王という字なる。蒙古が王となる瑞相を示し、獅子には一見強そうだが身中に虫がいてその身を食い殺す。したがって宋国は内紛で亡ぶという意味であると説明した。宋国では蒙古300満騎の兵を前にして、伯顔を上将軍とし100万騎を添え、呂文煥を副将軍として30万騎、買平相、買似道を副将軍として60万騎を添えた。蒙古の帝師は、詳細は省くがこの4人の将軍の離間を企て内紛から自壊を誘導した智謀によって元は宋を亡ぼすことができた。(「太平記」の作者は漢籍を引用することにおいて、いつも長い文章で得意満面の饒舌になる。当時の教養、政治思想は中国が師であったので、志のあるものはいつも漢籍を勉強していたようである。日本には科挙制度はなかったが、漢籍の勉強が官吏登用の必須の手段であったようだ)

(つづく)