ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月31日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第23回 最終回

6) 逸文(その7)


□ 豊前国
    ●  鹿春郷: (「宇佐宮託宣集」より) (豊前国風土記にいう) 田河郡(今の福岡県田川郡香春町)鹿春郷に河あった。鮎が採れる。その源は郡の東北の杉坂山より出て、西に流れ真漏河に合流する。せせらぎが清いので清河原村と名付けた。今、鹿春(かはる)里というのは訛ったのである。昔、新羅の神が天下ってこの地に来て河原に住み着いた。鹿春神という。北に山があり、頂上には沼がある。
    ●  鏡山: (「万葉集註釈」より) (豊前国風土記にいう) 田河郡鏡山、昔、神功皇后がこの山から国見をしていった。「天の神、地の神も私のために幸を給え」と、鏡を置いて祈った。その鏡はたちまち石になって山にある。故に鏡山という。
    ●  広幡八幡大神: (諸社根元記」より) (ある書に曰) 菱形山広瀬八幡の大神(宇佐八幡)が郡家の東、馬城の頂に居ます。神亀4年、神の宮を作り奉る。因って広瀬八幡の大神の宮と名付けた。
    ●  宮処郡: (中臣祓気吹抄」より) (豊前国風土記にいう) 昔、天孫ここから日向の旧都に天下った。この地は天照大神の都であった。

□ 豊後国
    ●  氷室: (「塵袋」より) (記にいう) 豊後国速見郡に温泉がある。そこには四つの湯があった。珠灘の湯、等峙の湯、宝膩の湯、大湯という。その湯の東に自然の氷室がある。岩室の門は方一丈ばかり、縦横四丈である。
    ●  餅の的: (「塵袋」より) (記にいう) この記事は本書豊後国風土記総記の記事に同じなので省略する。

□ 肥前国
    ●  領巾揺岑: (「万葉集註釈」より) (肥前国風土記にいう) 松浦県の東6里に領巾揺(ひれふり)岑があって、頂に沼がある。昔、宣化天皇の時代、大伴紗手比古を派遣して任那国を平定した。この岡を通過した時、篠原村に乙等比売という娘がいた。紗手比古はこの娘に恋をして結ばれた。翌日別れるとき娘はこの峯に登って領巾を振った故にこの名が付いた。
    ●  鏡の渡り: (「和歌童蒙抄」より) (肥前国風土記にいう) 前の領巾揺岑の記事に全く同じ。
    ●  杵嶋山: (「万葉集註釈」より) 杵島郡の南2里に一つの山があった。この山から、南西の方向から東北の方向に3つの連峰が見えた。杵島という。坤に比古神、中に比売神、艮に御子神という。郷の男女はいい季節になると、手を取って山に登り宴をした。歌一首を添える。
    ●  与止姫神: (「神名帳頭註」より) (風土記にいう) 第30代欽明天皇の25年、肥前国佐嘉郡に与止(よど)姫の神が鎮座された。豊姫、淀姫という。

□ 肥後国
    ●  肥後国: (「釈日本紀」より) (肥後国風土記にいう) 肥前国風土記総記と全く同じ記事なので省略する。
    ●  迩陪魚: (「釈日本紀」より) (肥後国風土記にいう) 玉名郡長渚浜、昔、景行天皇が熊襲を討伐して帰る御船がこの浜に泊まった。船に多くの魚が寄って来たので、吉備国の朝勝見が釣りをして天皇に献じた。天皇に魚の名を問われたが知らなかったので、天皇は「多くいることを尓倍佐尓(にべさに)という。この魚は尓倍魚と呼ぶ」と言われた。
    ●  阿蘇郡: (「阿蘇家文書」より) (肥後国風土記にいう) 昔、景行天皇が玉名郡長渚浜を立って、この地を巡って国見をなされた。野原が広くて人が見えなかったが、二人の神が現れた。阿蘇都彦と阿蘇都媛が「ここにいる」というので、阿蘇郡と名付けた。
    ●  阿宗岳: (「釈日本紀」より) (筑紫国風土記にいう) 肥後国閼宗(あそ)県の西南20余里に禿山があった。頂きに霊感の沼があった。石壁が垣を為し、白緑の淵があった。波は五色、水には毒があった。名付けて苦水という。岳が中央に聳えて4つの県を含む。諸々の川の源が流れだした。故に中岳と呼び、閼宗の神宮となった。
    ●  水嶋: (「万葉集註釈」より) (風土記にいう) 球磨県の乾の方七里に海中に嶋があった。周囲70里、なずけて水嶋という。寒水を出す。

□ 日向国
    ●  日向国: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 景行天皇、児湯(こゆ)郡丹裳の小野に遊行され、次のように言われた。「この国は東海の扶桑(ひいずるかた)に向かっている。、日向と呼ぶべし」
    ●  吐濃峯: (「塵袋」より) (かの国の記にいう) 児湯(こゆ)郡吐濃峯に吐乃の大明神がおられる。昔、神功皇后が新羅を討って、この神を招来し、船の舳を守らせた。韓国より帰還され韜馬(うしか)峰で弓を射ると、土の中から黒い頭をした男女が出てきて祝い部として仕えた。子孫は繁栄したが、疫病が蔓延して死に失せた。これは神人を国役に使ったので吐乃の大明神が怒られたからである。 
    ●  知鋪郡: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 臼杵郡知鋪(ちほ)郷(宮崎県臼杵郡高千穂町)、瓊瓊杵尊が天より高千穂の二上山に降臨された。その時天暗く昼夜の区別もないほどであった。大鉗・小鉗という土蜘蛛が現れ、皇孫命が稲の千穂を抜いて揉んで籾として周囲に投げ散らすと明るくなるといった。故に千穂となずける。
    ●  高日山: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 宮崎郡高日村、瓊瓊杵尊が天降って剣の柄をこの地においた。故に剣柄(高日)村と呼んだ。多加比ともいう。
    ●  韓栗生村: (「塵袋」より) (風土記にいう) くしぶの木が多かった故に栗生村と呼ぶ。くしぶの木ではなく小栗の木が多い地という。昔、かさむ別という人、韓の国に渡ってこの木を持ち帰り植えたという。

□ 大隅国
    ●  必志里: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、この村の中に海の州(ひし)があった。故に必志里と呼ぶ。
    ●  串卜郷: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、国を作った神は、人を派遣してこの村の様子を探らせた。「髪梳(くしら)の神あり」との報告があったので、故に久西良の郷と呼んだ。今は串卜郷という。
    ●  耆小神: (「塵袋」より) (風土記にいう) シラミの子を「きさし」という。沙虱の訓を耆小神(きさしむ)という。
    ●  醸酒: (「塵袋」より) (風土記にいう) 大隅の国には、村の男女を集めて米をかみ、酒船に入れさせる。酒の香りが出てくると、また集まってこれを飲む。なずけてくちかみの酒という。

□ 薩摩国
    ●  竹屋村: (「塵袋」より) (風土記にいう) 皇祖瓊瓊杵尊が日向国知鋪(ちほ)郷栗生山に降臨されてから、薩摩国閼駝(あた)郡の竹屋村に移られた。この村土着の竹屋守の女に二人の子を産ませた。竹を刀にして臍の緒を切ったという。

□ 壱岐国
    ●  鯨伏郷: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、熊鰐(海神)が鯨を追うと鯨は島陰に隠れた。故に鯨伏(いさふし)郷という。ワニも鯨も石に化した。一里を隔てて在る。俗に鯨を伊佐(いさ)という。
    ●  朴樹: (「塵袋」より) (壱岐の島の記にいう) 常世の社に朴の木(えのき)があった。鹿の角のような枝があった。

(完)

文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月30日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第22回

6) 逸文(その6)


□ 阿波国
    ●  中湖: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 牟夜戸余奥湖中にあるため中湖と呼んだ。
    ●  勝間井: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 実作国勝間田池の話に全く同じ。
    ●  奈佐浦: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 奈佐とは波の音のこと。海部(あま)は波を奈という。
    ●  天本山: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 阿波国に天より大きな山が降ってきた。これを天の本山という。砕けて大和国に降った山は天の香山という。(神聖な山という意味である。)

□ 讃岐国
    ●  阿波島: (「万葉集註釈」より) 讃岐国屋島の北100里に嶋がある。名を阿波島という。

□ 伊予国
    ●  御嶋: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 乎知郡御嶋に居ます神は大山積神で、 この神は仁徳天王の時代に、百済国より渡来し津国御嶋(大阪府高槻市淀川岸、古代、三島江と呼んだ))に住んだ。本来御嶋というは津国の御嶋のことである。
    ●  熊野岑: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 野間郡熊野の岑。昔ここで熊野という船を作った。今になるまで石となって存在する。故に熊野と呼ぶ。
    ●  湯泉: (「万葉集註釈」より) (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 大穴大神が死んだ少奈比古命を生き返らそうとして、大分の速見の湯を下樋で運んできて、湯浴みさせたところ生き帰った。命は「しばらく寝ていたようだ」と元気そうに足踏もをした。以来湯の効用は神代から今の世まで病を癒し万病に効く薬としてきた。天皇らが湯に幸行することは5度あった。①第12代景行天皇と后、②第14代仲哀天皇と神功皇后、③聖徳太子、④第37代斉明天皇と皇后、⑤6天智天皇と天武天皇
    ●  斉明天皇御歌: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 御歌1首「みきたつに泊てて見れば・・・」
    ●  神功皇后御歌: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 「橘の島にしおれば 河遠み 曝さで縫いし吾が下衣」
    ●  天山: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 伊予郡の郡家より東北に天山あり。天山となずけるのは、天より降った二つの山のうち、倭には香山、伊予には天山という。久米の臣らが祀っている。
    ●  二の木: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 二つの木とは、一は椹(むく)の木、一は臣の木という。臣の木不明、むくは椋の木、椹はさわら

□ 土佐国
    ●  土左高賀茂神社: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 土左郡家の西4里に土左高賀茂神社がある。神の名は一言主尊である。その祖は分からないが、一説には大穴六道命の子(鴨氏)だという。
    ●  天河命・浄川媛命: (吉田家蔵「雅事問答」より) (風土記にいわく) 土左郡家の内に天の河命を祀る社がある。土左高賀茂神社の娘子である。さらにその南に社がある。浄川姫命を祀る。
    ●  朝倉神社: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 土左郡朝倉郷に社がある。天津羽羽神をまつる。
    ●  玉島: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 吾川郡玉嶋、神功皇后が国巡りをしてこの嶋に泊まった。浜に光る石を見つけ、「これは海神のくれた白真珠だ」といった。故に嶋の名を玉嶋と呼ぶ。
    ●  神河: (「万葉集註釈」より) (土左国風土記にいう) 神河、三輪川と訓む。源は山の中で伊予国にいたる。この川の水で酒を醸す。

□ 筑前国
    ●  胸肩神躰:  (「釈日本紀」より) (風土記に見る) 胸肩の神の躰は玉であった。
    ●  香襲宮: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 筑紫の国に至れば、まず香襲宮に参る。仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐のためこの地に行宮を設けた。(福岡県東区 香椎宮)
    ●  資珂嶋: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 糟屋郡資珂嶋、昔神功皇后が新羅に赴く時、夜に御船はこの嶋に停泊した。従者に大浜、小浜というものがいたが、小浜に命じてこの嶋に火を取りにやらした。あまりに早く火をく求めてきたので問うと、「この嶋と打ち上げの浜は陸続きでした」と答えた。故に近嶋と呼んだ。
    ●  怡土郡: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 昔仲哀天皇の時代、熊襲退治のため筑紫に幸行したとき、怡土県主らの祖、五十跡手(いとて)一族は穴門の引島に天皇の軍を迎えた。天皇はだれかと問うと、 五十跡手は「高麗国意呂山よりこの地に天下りした日鉾の末裔、五十跡手である」と言った。天皇は喜んで「いそしかも、五十跡手の地は恪勤〈忠勤にはげむ)国というべし」と言った。今は訛って怡土という。
    ●  芋美野: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 伊都県子饗原、石が二つあった。色白く丸く磨いた石であった。神功皇后が新羅を討つときに腹の子が動いたので、二つの石を裾の腰に挟んで戦に勝った。凱旋して芋美野に着いて子が生まれた(誉田天皇)。 故にこの地を芋美野(うみの)と呼ぶ。(福岡県糟屋郡宇美町に宇美八幡宮がある)
    ●  児饗石: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 前の芋美野の記事に同じ。 この石を皇子産(みこうみ)の石という。今訛って児饗(こふ)の石という。
    ●  塢舸水門: (「万葉集註釈」より) (風土記にいう) 塢舸(おか)県の東に大江の口がある。大型の船が入る。塢舸の水門という。そこから鳥旗の浦に通じる。小型の船が入る。名を久妓門という。海のなかに二つの島がある。阿斛島、志波島という。
    ●  西海道節度使: (「万葉集註釈」より) (筑前国風土記にいう) 奈良天平4年、西海道節度使に藤原朝臣、宇合が任じられた。前の軍制の改革である。(宇合は武家の祖、常陸国風土記の編纂行に加わったとされる)
    ●  大三輪神: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 神功皇后、新羅を討つため軍を整え出発したが、大三輪の神に行く手をふさがれた。そこで社を建てこの神を祀って新羅戦争に勝ったという。
    ●  うりあげの浜: (「和歌童蒙抄」より) (筑前国風土記にいう) 狭手彦連が船にのって遠征にでかけたが、船が前に進まない。石勝が占って言うには 「海神が狭手彦の妾那古若を欲しいと言って、船を留めている。妾那古若を神に差し出せ」という。天皇の命に背くことはできないので妾を海に浮かべた。
    ●  大城山: (「万葉集抄秘府本」より) (風土記にいう) 筑前国御笠郡大野に山があった。大城の山という。
    ●  宗像郡: (「宗像大菩薩御縁起」より) (西海道の風土記にいう) 宗像大神(三女神)は埼門山に居られた時、青い玉を奥津宮に、紫の玉を仲津宮に。八咫の鏡を辺津宮において、三つの御神体とされた。故に身形の郡と呼ぶ。のちに宗像という。その大海命の子孫は宗像朝臣らである。 
    ●  神石: (「太宰管内志」より) (筑前風土記にいう) 芋美野、児饗石の記事の内容に同じ。神石で腹を撫でると妊婦の心と体が休まる。この石は」筑前の伊都県にあったが、落雷によって3つになった。

(つづく)

文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月29日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第21回

6) 逸文(その5)


□ 丹後国
    ●  天橋立:  (「釈日本紀」より) (丹後国風土記にいう) 与謝郡の郡家の丑寅に速石里がある。この里の海に長く大きな埼がある。先を天の橋立と呼び、後ろを久志の浜と名付ける。由来は伊弉諾命が天に通うため橋を作ったとされる。これより東海を与謝の海、西の海を阿蘇の海という。この二つの海の間にいろいろな魚貝等が採れる。
    ● 浦嶼子: (「釈日本紀」より) (丹後国風土記にいう) 浦島太郎伝説である。丹後国与謝郡日置里筒川村に日下部首らの先祖、筒川の水江の浦の嶼子という人夫がいた。姿かたち麗しく風流なことたぐいなし。このことは元の国司伊預部の馬養が記している。雄略天皇の時代、三日三晩一人で船を出して漁をしていたが獲物はなく、5色の不思議な亀を得た。嶼子が寝ている間にその亀は美しい婦人になった。尋ねるに天上の神であった。美しい娘に誘われるままに蓬莱山に行くことになり、目をつむっている間に海の中の大きな島に着いた。まさに常世の国に来た感がする。天女と一緒に大きな家にはいると、天人らに亀姫の夫と紹介され大歓迎を受けた。童は空の星、百品の料理を出し、酒杯を挙げて酌み交わし、神の舞の宴を為し、日の暮れるのも忘れ婚姻が終った。それから3年の年月が流れ<、ふと里心を越して両親を思い嘆きは日に増していった。天女は夫の顔色が優れぬことを愁い、帰りたくなったのかと問うた。別れの際に、女は玉匣を嶼子に与え、私を忘れられない時に玉匣を取り、決して開いてはいけないという。本の筒川の浜に送り返された嶼子は見知らぬ村人に「水の江の嶼子の家人を知らないか」と問うと、古老が伝えるには、嶼子は遊びに出たまま帰らず、300年が経ったという。玉匣を撫でて神女を偲んでいたが、ふと約束を忘れ玉匣を開いたところ、神姫の魂は天高く飛んで行った。最後に4首の歌が添えられている。 
    ● 羽衣奈具社: (「古事記裏書」より) (丹後国風土記にいう) 羽衣天女伝説である。丹後国丹波郡の郡家の西北に比治里がある。比治山の頂には井があり真奈井という。この井に天女七人が舞い降り水浴みをしていた。和奈佐の老夫婦がこの井に来て一人の衣を隠した。やがて天女らは舞い上がったが、衣のない女は取り残され、老夫婦はこの天女に我が子に成れと迫った。衣のない天女はそれに従って翁の家に入り10年が過ぎた。天女は酒を造ることに巧みで、一口飲むと万病が消える酒は評判となり、それを翁が売って、家は次第に裕福になった。故に上形(ひじかた)の家(上流の家)といい、比治里と呼んだ。傲慢になった翁は天女を追い出した。泣く泣く天女は荒塩村に至りて、私の心は荒塩のよう、よって比治さとのことを荒塩村という。又丹波郡の哭木の里にきて槻木によって泣いた。故に哭木の村という。竹野郡船木の里の奈具村に来て「この村は私の心を慰める」と言ってこの村に留まった。奈具社の豊宇賀能売命のことである。(老夫婦はまるでブラック企業みたいなもので、天女もこれでは救われない)

□ 因幡国
    ●  白兎: (「塵袋」より) (因幡国風土記にいう) 因幡国高草郡には二つのいわれがある。一つは読んで字の通りに解釈する。二つは竹草の郡とする見方である。竹は草の長という意味で竹林があったとする説である。昔竹林に老いた兎が住んでいた。洪水があって竹林は崩れ兎は竹の根にしがみついて大きな島に流れ着いた。水位が下がって元居たところに帰りたいと思ったが、渡る物がない。すると水の中に鰐(サメ)がいるので一案を講じた。ワニに向かって「おまえの一族はどのくらいいるのか、その数を数えたいのでここから気多埼まで並んでみてくれないか。」と言われたワニは背中を並べた。兎はその背の上を踏み竹の崎にたどり着いた。最後に黙ってればいいのに、だましたわけを得意そうに言ったものだから、兎はワニに皮を剥がれて丸裸にされ痛くて泣いた。それを大穴大神は憐れんで、蒲の穂を塗ると痛くないと教えたという。
    ●  竹内宿祢: (「万葉緯」より) (因幡国風土記にいう) 仁徳天皇の55年、大臣竹内宿祢の御年360余歳が因幡国にやってきた。宇倍山の麓の亀金で行方が分からなくなった。ここにある宇倍社h竹内宿祢の御霊であるという。
    ●  稲葉国: (寂恵本「古今和歌集」上より)  風土記には稲葉国とあり、誤りて因幡とした。ただしこの国にはいろいろな説がある。

□ 伯耆国
    ●  粟嶋: (「釈日本紀」より) (伯耆国風土記にいう) 相見郡の郡家の西北に余部里がある。粟嶋と呼ぶ。出雲の少日子命が粟の種を撒いたところ、穂実り離々(ほたり)となった。そこで命は粟に乗って弾かれて天に還ったという。故に粟嶋と呼ぶ。
    ●  地震: (「塵袋」より) (伯耆国風土記にいう) 地震があった時、鶏と雉は恐れて鳴いた。山鳥は谷を越えて羽を立てて踊ったという。
    ●  伯耆国: (「諸国名義考」より) (引用した風土記には) 手摩乳の娘稲田姫は、八岐大蛇に飲み込まれそうになったので、山中に逃げた。母が遅れたので娘は「母来ませ」と言ったので、母来の国と呼んだ。後に伯耆国と改めた。

□ 石見国
    ●  人丸: (「詞林采葉抄」より) (石見国風土記にいう) 天武3年、柿本人麻呂、岩見守に任じられ、翌年正三位播磨の守に任じられた。それ以来持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の七代の朝廷に仕えた。持統の時代四国に配流され、文武の時代東海に左遷された。子の躬都良は隠岐に流されそこで死んだ。

□ 播磨国
    ●  藤江浦: (「万葉集註釈」より) 播磨国住吉大明神が藤の枝を切らせ、海に浮かべて誓いを立てた。「この藤の枝の流れ着く先をわが領とする」と、藤の枝が流れて着いた所を藤江浦と呼ぶ。住吉の御領となった。

□ 実作国
    ●  美作国守: (伊呂波字類抄」より) (風土記にいう) 和銅6年備前の守、百済の南典(百済国滅亡時、国王義慈を祖とする一族)、堅身らが解(答申書)によって備前の六郡を割いて美作国を置いた。備前介堅身を美作国の守とする。
    ●  勝間田池: (「詞林采葉抄」より) (美作国風土記にいう) 日本武尊、櫛を池に落とした故に勝間田池と呼ぶ。玉かつまとは櫛の古語である。

□ 備前国

    ●  牛窓: (「本朝神社考」より) 神功皇后の船が備前国の海上を過ぎた頃、大きな牛が出て船を転覆させようとした。住吉明神は翁になって現れ、この牛の角を掴んで投げ倒した。その場所を牛転びと言い、今訛って牛窓と呼ぶ。

□ 備中国
    ●  新造御宅: (「万葉集註釈」より) (備中国風土記にいう) 賀夜郡松岡の東南二里に新たに作る御宅がある。天平6年、国司石川朝臣賀美、郡司大領下道朝臣人士、少領園臣五百国等の時に造った。
    ●  迩磨郡: (「本朝文粋」より) (備中国風土記にいう) 皇極6年唐の将軍 蘇定方、新羅軍を率いて百済を滅ぼした。百済は使節を送ってきて援助を乞うた。天智天皇の立太子も終えて、天皇は下道郡に宿泊した時、その村は大変大きく富んでいるの見て天皇は2万人の徴兵を行った。故にこの村を二万の里と呼んだ。後に迩磨という。その後天皇は筑紫宮で亡くなったので、百済旧援軍は中止となった。
    ●  宮瀬川: (「神名帳頭註」より) (風土記にいう) 賀夜郡伊勢御神社の東に川がある、宮瀬川と名付けた。川の西には吉備建日命の宮がある。三代の王の宮がある故に宮瀬と呼ぶ。

□ 備後国
    ●  蘇民将来: (「釈日本紀」より) (備後国風土記にいう) 疫病退散の国社がある。昔北の海に居た武塔の神が南の海の娘をよばいに出かけ、日が暮れて宿を乞うため蘇民将来(弟)の家にいった。弟の家は豊かであったが武塔の神の要請は拒否した。兄の家は貧しかったが、武塔の神に宿を貸した。粟の食も与えた。後年武塔の神は八柱の子を引き連れて蘇民将来の子孫の家に復讐しに来た。女を残して皆殺しにした。そして「私は素戔嗚命の神である。もし疫病があれば、蘇民将来の子孫だと言って茅の輪を腰に付けていれば、疫病を遁れられるであろう」といった。(この話の落ちが悪い。兄弟の家の区別なく男は皆殺しにしたのか不明である。 茅の輪くぐりの風俗伝承なら、こんな残虐な報復劇はない。神は残虐で傲慢なるを以て支配者なのだろう。民に優しい神では国は治まらないと言いたいのか。)

□ 紀伊国
    ●  手束弓: (「万葉集抄秘府本」より) (紀伊国風土記にいう) 手束弓(たつかゆみ)とは弓の取る柄を太くしたもの。紀伊国の雄山の也木守が持つ弓という。

□ 淡路国
    ●  鹿子湊: (「詞林采葉抄」より) (淡路国風土記にいう) 応神天皇20年天皇が淡路島に狩りに出かけたとき、海の上に鹿が現れた。実は鹿の皮の衣を着た人間であった。侍従に問わさせると、「私は日向国諸県君牛です。年を取って仕えることはできなくとも、なお天恩を忘れたことはない。そこで私の娘髪長姫を天皇に献上します」という。船を寄らせた。この湊を鹿子の湊という。(後日、応神天王はこの娘を皇子(後、仁徳天皇)に譲ったという)

(つづく)

文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月28日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第20回

6) 逸文(その4)


□ 近江国
    ● 伊香小江: (「帝王編年記」より) (古老伝えて曰う) (滋賀県長浜市余呉の天女衣掛伝説) 近江国伊香余呉郷、伊香の小江。郡家の南にある。天の八女、白鳥となって天より降り、江の南の津で浴する。伊香刀美が山から遥かに白鳥を見て、近づいて見ると神人であった。恋する心を起し白い犬に天衣を盗み取った。神人の姉7人は飛び昇ったが、妹は衣がないので飛ぶことができなかった。天女の浴する浦を神の浦という。こうして伊香刀美は天女と夫婦になった。子供男二人、女二人を生んだ。子らは伊香連らの先祖である。後母は天衣を探し取り天に帰った。
    ● 竹生嶋: (「帝王編年記」より) (古老伝えて曰う) 霜速比古命、多々美比古命は伊吹山の神である。比佐志比女命は伊吹山の神の姉、浅井比咩命は浅井の岡の神でるある。伊吹山と浅井岡とが背比べをした。浅井岡は一夜で高さを倍にした。伊吹山が怒って刀を抜いて浅井比咩を殺した。その頭が江に落ちて嶋になった。竹生嶋と呼んだ。
    ● 細波国: (橘守部「神楽人綾」より) (浅井家 近江国の風土記にいう) 淡海国はまたの名を細浪国という。目の前の湖上のささ浪の様子からなずけられた。

□ 美濃国
    ● 金山彦神・一の宮: (卜部兼?「神名帳頭註」より) (風土記にいう) いざなみ命が火の神かぐつちを生むとき、熱さに耐えずおう吐した。これが神となる。金山彦の神となる。一の宮である。(美濃国不破郡神山神社)

□ 飛騨国
    ● 飛騨国: (寺島良安「倭漢三才図会」より) (風土記にいう) この国は元美濃国の内であった。天智天皇の大津京を造営する際、この郡より良い材木を出して馬の荷物に載せて来たる。その速いこと飛ぶようだった。ゆえに飛騨国と呼ぶ。

□ 信濃国
    ● ふせやのははき木: (「袖中抄」より) (風土記にいう) ははき木は美濃信濃両国の境、ふせや原というところにある木である。遠くで見ると帚を立てたようであり、近くで見ると幻であったと判る。ゆえに有るようで逢えない例えに用いられる。

□ 陸奥国
    ● 八槻郷: (伴信友「古本風土記逸文」より) (陸奥国風土記にいう) 景行天皇の時代、日本武尊、東の夷を討ってこの地(福島県白河郡棚倉町八槻)に至った。八目の鳴鏑で夷を射殺した。その矢が落ちた場所を矢着と呼ぶ。昔この地の八人の土蜘蛛がいた。国造磐城彦が征討した後も掠奪が止まないので、日本武尊が征討に乗り出した。土蜘蛛は石城によって激しく抵抗し、津軽の蝦夷とも連動して官軍を悩ました。武尊は槻弓、槻矢をもって蝦夷を殺し、土蜘蛛を射殺した矢は野に生えて槻木となった。その地を八槻の郷という。正倉がある。
    ● 飯豊山: (伴信友「古本風土記逸文」より) (陸奥国風土記にいう) 白河郡飯豊山は豊岡姫命の神聖な場所である。飯豊青尊が物部臣をして祭祀を執り行った。故にその名を山に遺す。また古老云う。垂仁天皇27年代飢饉が起きて人民多く死亡したので、飢え山という。名を改めて豊田山と呼ぶ。
    ● 塩釜明神の神子: (藤原範兼「和歌童蒙抄」より) (陸奥国の風俗に見えたり) 陸奥の神、塩釜の明神に誓いをするため、若い女を供物として神の内殿に入れた。この神の嫁は宮司の許可がなければ親子といえど会うことはできない。年に一度だけ逢うことが許される風俗が陸奥国に見られる。

□ 若狭国
    ● 若狭国: (寺島良安「倭漢三才図会」より) (風土記にいう) この国の男女夫婦となる。共に長寿で年齢を知らない。後に神となる。今一の宮(若狭国遠敷郡「若狭日吉神社」)がそれである。

□ 越前国
    ● 帰る山・あわでの森・笑う山: (藤原定家「顕註蜜勘」より) (風土記を引いて) 和歌に見る「帰る山」は越前にある。「敦賀」も越前にある。本の名は風土記を引いてあわで森、わらう山などという。
    ● 気比神宮: (「神名帳頭註」より) (風土記に言う) 気比の神社(福井県敦賀市曙町)は宇佐神社と同神である。八幡は応神天皇の垂迹、気比の明神は仲哀天皇の神がいます。

□ 越後国
    ● 八坂丹: (「釈日本紀」より) (越後国風土記にいう) 八坂丹は玉の名、玉の色は青い。故に青八坂丹の玉という。
    ● 八掬脛: (「釈日本紀」より) (越後国風土記にいう) 崇仁天皇の時代、越後の国に八掬脛という脚長の人がいた。土蜘蛛の末裔である。

(つづく)


文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月27日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第19回

6) 逸文 (その3)


□ 尾張国
    ● 熱田社: (「釈日本紀」より) (尾張国風土記にいう) 日本武命が東国平定の後帰る時に、尾張連らの祖宮酢媛命の家に泊まり、姫と婚姻した。夜、厠に行き、草なぎの剣を桑の木の上に置いた。忘れて殿にもどり、再び取りに行くと剣が光っていた。酢媛命に「この剣は神の気がある。斎紀祭り、私の魂と思え」といった。故にここに社を作った。熱田郷の名を取り熱田社と呼ぶ。
    ● 吾縵郷: (「釈日本紀」より) (尾張国風土記にいう) 垂仁天皇の時代、品津別皇子は7歳になっても言葉が話せなかった。その後皇后が見た夢に神が現れて「私は多具国の神、阿麻乃弥加都比売(出雲国風土記島根郡にみえる)、未だ祀ってもらえないでいる。私のために祝人を立てるなら、皇子は物を言え長生きできるであろう」といった。帝は日置部の祖建岡の君を卜人として神捜しを行った。建岡の君は美濃国花鹿山に至って榊の枝で蔓を作り神の意を問うた。「私の蔓が落ちるところに神がある」と言って蔓が落ちたところがこの地であった。阿豆良郷と呼んだ。
    ● 川島社: (「万葉集註釈」より) (尾張国風土記にいう) 葉栗郡川島の社、凡海部の忍人がいうに「この神は白い馬に乗りオキドキ現れる」と。詔により天社として斎祀る。
    ● 福興寺・三宅寺: (「万葉集註釈」より) 三宅連の氏寺、愛知の郡家より9里,日下部郷の伊富村にある。平城の聖武天皇の神亀元年、主政三宅連麻佐が作り奉った。
    ● 大呉里: (「塵袋」より) 尾張国大呉里、景行天皇の時代、西の方から大きな笑い声が聞こえてきた。天皇は怪しんで石津田連を派遣して調べた。石津田連が見ると牛のような顔をしたものが集まって大声で笑っていた。石津田連は少しも恐れず剣をぬいて全員を切り殺したこれより大斬りの里と呼んだが、後日訛って大呉の里となった。
    ● 徳々志: (「塵袋」より) (尾州記) 昔の美女の特徴で顔が太っているのを徳々志(ふくよかな)と呼ぶ。
    ● 登々川: (「塵袋」より) (管清公記にいう) 大穴大神と小彦命が巡行した時、往還の足跡である故に跡々(とと)という。または賭々ともいう。

□ 駿河国
    ● 富士雪: (「万葉集註釈」より) (駿河国風土記にいう) 富士山に積った雪は、6月15日には消えて、午前2時以降にまた雪が降り積もるという。
    ● 三保松原・神女羽衣: (「本朝神社考」より) (風土記) 三保の松原は駿河国有度郡にある。北には富士山、南には太平海がある。久能山は西に険しく、清見ヶ関・田子の浦はその前にある。松木は数を知らず。古老云う。昔神女があり、天より下り来て羽衣を松の枝に晒すのを見た漁師はそれを拾って還さなかったので、神女は天に戻ることができなかった。そこで夫婦となった。(天人女房譚) 後に羽衣を取り返し雲に乗って帰る。
    ● てこの呼坂・不来見の浜: (下河原長流「枕詞燭明抄」より) (駿河国の風土記に言う) 廬原郡不来見の里の女神のもとに通ってくる男神がいた。その神はいつも岩木山を越えてくるので、その山の荒ぶる神が通行を邪魔するため通うことは難しかった。女は岩木山を望んで男の名を呼ぶのでてこの呼坂という。東国の訛りで女のことをてこという。田子の浦もてこの浜である。てこのよび坂の3首の万葉集の歌を添える。

□ 伊豆国
    ● 伊豆日金嶽猟鞍: (加藤謙斎「鎌倉実記」より) (北畠親房の記の伊豆の風土記にいう、孫引き) 伊豆別王子は履行天皇の子武押別の命である。その時駿河国の伊豆埼を分割して伊豆国となずけた。日金嶽は瓊瓊杵尊の御霊を祀る。興野の神狩りは国ごとに奉仕する。8か所の狩場を構えその行装は図に示される。推古天皇の時代、伊豆・甲斐領国に聖徳太子の御領が多かった。これから狩鞍は中止された。八牧の狩場には昔の狩鞍の司、山の神をまつる。幣坐の神坐と呼ぶ。 
    ● 温泉: (「鎌倉実記」より) (伊豆の風土記にいう、孫引き) 天孫が天下る前、大穴大神と小彦命が、民が夭折することを憐れんで、薬と湯泉の術を定めた。伊豆の湯、箱根の元湯がそれである。走り湯は元正天皇の時代に開かれた。一日に二度温泉がほとばしり出る。熱いので下樋で湯船に導き、浸かれば万病に効く。
    ● 奥野伊豆船: (「鎌倉実記」より) (伊豆の風土記にいう、孫引き) 応神天皇5年冬10月に伊豆の国に大船を作らせる。長さ10丈、軽く走る。船を造れる木は日金山の奥野の楠である。

□ 甲斐国
    ● 鶴郡菊花山: (「夫木和歌抄」より〉 (風土記にいう) 甲斐の国鶴郡に菊花山がある。流れる水は菊を洗い、その水を飲む人は鶴のごとく長寿となると云々

□ 相模国
    ● 足軽山: (「続歌林良材集」より) (相模国風土記にいう) 足軽山は、この山の杉の木で造った船の軽いことにちなんでなずけた。
    ● 伊曽布利: (「万葉代匠記」より) (相模国風土記にいう) 鎌倉郡見越埼に常に速き浪があった。国人はなずけていそふりという。石を振るという意味である。

□ 上総・下総国
    ● 上総・下総国: (菊本賀保「国花万葉記」より) (風土記) 総とは木の枝の総称である。この国に大きな楠があった。長さ数百丈である。時の帝これを怪しみ占わしめると、大凶事という。これによって楠を切り倒すと南に倒れた。これより上の枝を上総、下の枝を下総という。

□ 常陸国
    ● 三柱の天皇号: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 或るはいう。景行天皇に時代(巻向日代宮大八州照臨天皇)、或はいう。継体天皇の時代(石村玉穂宮大八州処馭天皇)、或はう。孝徳天皇に時代(難波長柄豊前大朝八州撫馭天皇)
    ● 国・郡の称: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 新治郡、白壁郡、筑波郡、香嶋郡、那賀郡、多賀郡など
    ● 枳波都久岡: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 枳波都久岡(きはつくのおか)は常陸国真壁郡にある。
    ● 桁藻山: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 常陸多珂桁藻(たなめ)山は、道後桁藻山ともよめる。 
    ● 賀久賀鳥: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 賀久賀鳥とは日本紀には鳴鳥(みさご)の名がある。常陸国風土記では河内郡浮島村に賀久賀鳥がいる。かわいい声で鳴く。景行天皇がこの村に行宮された時、30日間毎日この鳥の声を聴いて伊賀理命を召して、この鳥を網で捕まえた。天皇甚く悦感して彼に鳥取の姓を与えた。 
    ● 久慈理岳: (「塵袋」より) その岡の姿が鯨に似ていることからいう。鯨を久慈理と訛った。(常陸太田市大里町中野丘陵をいう)
    ● 賀蘇理岡: (「塵袋」より) 常陸国で賀蘇理というはさそり蜂のことである。賀蘇理岡にはさそり蜂がたくさんいた故にこの名が付いた。(鉾田市勝下)
    ● 尾長鳥: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 尾長鳥または酒鳥は頭が黒く尾は長い。色は青鷺に似ている。村に住む鶏に似ている。
    ● 比佐頭・大谷村: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 大谷の村(鉾田市田崎)に大きな榛を伐採し、本の材を鼓に、末の材を瑟(ひさづ)に作る。
    ● 積麻・伊福部岳: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 兄妹が田植えをしていた。遅くなった方が伊福部神の災いを受けるというが、妹が遅くなって、雷が鳴り行くとは殺された。兄は怒ってその神の後を追うべく、肩に止まった雉の尾に積麻の糸をつけて神を追跡した。雉は伊福部岳に登ったので、雷のいる石室に入り太刀を抜いて迫った。恐れた雷神は助命を乞い、今後子孫が百歳まで雷を受けないように約束した。男はこの神を許して、雉には感謝を込めて、子々孫々雉の肉を食わない事を誓った。
    ● 沼尾池: (「夫木和歌抄」より〉 (風土記にいう) 香嶋の沼尾社に沼尾池がある。神代から水が下って蓮が生え、この水を飲むものは不老不死と夏なる言い伝えがある。
    ● 流れ海: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 香嶋の埼には下総の海の境から深く入り込んだ利根川の河口がある。これを流海と呼ぶ。今では内海という。一つの流れは鹿島郡と行方郡に流れ(霞ヶ浦東湖)、もう一つの流れは行方郡と下総の先を流れて信太郡、茨城郡まで入る(霞ヶ浦西湖)。

(つづく)