ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 田中素香著 「ユーロ ー危機の中の統一通貨」 岩波新書

2011年12月31日 | 書評
欧州の通貨ユーロの将来を展望する 第11回

3) ユーロの仕組み (2)

 銀行間の資金取引の金利(インターバンク金利)は資金の需給関係によって変動するが、中央銀行は物価安定や雇用政策のために適切と思われる政策金利を設定する。資金の供給・吸い上げによって中央銀行は、銀行間市場金利を政策金利へと誘導する。金利を調節する方法として、上限として「限界貸し出し金利」、下限として「預金金利」を見て、「市場介入金利」を上限と下限の±1%内に設定するのである。リーマンショック後にこの貸付残高が500億ユーロから8000億ユーロと桁違いに増加した。世界金融危機の中でECBは巨額のユーロ資金を供給して銀行の流動性危機を回避した。一般に政策金利は不況時には景気刺激のため引き下げられ、好況期には部羽化上昇と景気過熱を抑えるため政策金利は引き上げられる。ユーロは市場介入金利を1998年3%でスタートした。2000年以降原油価格高騰やユーロ相場下落のため政策金利は引き上げられ2001年に4.75%となった。アメリカのITバブル崩壊による深刻な不況になったので、金利は引き下げられ2003年半ばより2%という低金利になった。この低金利は2006年初めまでの2年半維持された。2006年より景気過熱と不動産バブルが懸念されたので金利は4.25%まで引き上げられた。2008年末にはリーマンショック後の世界不況で急速に金利は引き下げられ2009年初めには1%(実質0.25%に誘導)となった。経済危機のため日米はゼロ金利政策を取った。いまなお金利は危機管理に全力を投入している段階である。ユーロ圏の金融政策は本質的にジレンマを抱えている。先進国6カ国だけでユーロ圏を作ったなら単一金利政策で問題はなかったはずだが、南欧や東欧が加盟したため域内格差が顕在した。ある国にとっては金利が高すぎ手不況を深刻化させる一方、他の国では低すぎて景気刺激やバブルの膨張を助長することが同時に起こりうるのである。2001年から成長率の高いアイルランドやスペイン、フランス、イタリアでは消費者物価指数が金利を上回り(逆さや)実質金利はマイナスなった。やがて住宅バブルが発生した。2005年までの長い経済停滞は先進国を低成長に巻き込み、スペイン、アイルランドでは不動産バブルが蓄積した。これを「ジレンマケース」といい、金融政策ではどうしょうもなかった。
(つづく)

読書ノート 吉村武彦著 「ヤマト王権」  シリーズ日本古代史 ② 岩波新書

2011年12月31日 | 書評
日本初めての全国的統治政権「ヤマト王権」 第17回

4) 継体天皇と朝鮮半島ー6世紀前半の任那経営 (3)

 律令制では日本国王は天皇、その正妻は皇后で、王位を継承する1人の後継者を皇太子(東宮)と称した。律令制以前の王位継承はどのようにして行われたか、古事記の第12代景行天皇の記事には、3人の「太子」を挙げている。継体以前の王位継承者は複数いたと見られる。古事記に兄弟殺しの伝承が多いのはその辺の事情をあらわしているのであろうか。ところが継体天皇時には新しい王位継承の動きがあった。「太兄」制度の誕生である。この①太兄、②兄弟による継承が大化の改新以前の王位継承の原理であった。この太兄制は中大兄が即位した7世紀後半まで存在した。大化以前の新帝即位は、天皇没後に群臣が新しい天皇を推挙する手続きによった。群臣の意見が分かれるときは、一番有力な臣の主導でことが決するようだ。推古女帝の没後、田村皇子と山背皇子が候補者であったが、蘇我蝦夷の主導で田村皇子が天皇の位についた。この陽に群臣は新天皇を推挙し、新天皇から群臣が任命されるという手続きであった。律令制の官人制度では天皇が替わっても群臣の地位は基本的には変化しない。日本書紀は、534年継体天皇が継承者を指定して(譲位)、即日継体天皇がなくなったという記事があるが、これは一寸頂けない無理なつじつま合わせをしている。中国王朝の譲位という制度を倣ったように見せかける記述であり、少なくとも日本の天皇制で天皇在位中の譲位(禅譲)は、大化の改新における皇極天皇から孝徳天皇への譲位が最初である。継体天皇没後になにやら政変が起きたようである(辛亥の変)。王朝が替わったとか、2王朝が並存したとかという噂がある。「百済本記」には天皇と皇子が同時になくなったいう。継体天皇没後を531年とし、欽明天皇即位を532年とする説では、安閑、宣化天皇は存在しないことになる。林屋辰三郎氏は列島で内乱が発生したという。
(つづく)

文芸散歩  池田亀鑑校訂 「枕草子」 岩波文庫

2011年12月31日 | 書評
藤原道隆と中宮定子の全盛時代を回想する清少納言 第89回

[245] 「一条の院をば今内裏とぞいふ・・・」 第2類

 中宮定子がお産で三条宮に移っているころ内裏が火事で焼け、帝は一条宮に移って新内裏と呼ばれた。天皇がおられる殿は清涼殿といって、中宮はその北に居られた。西と東は渡殿で、帝がお渡りになったり中宮が参上なさる通路となった。その前には前裁を植え竹垣を結って優雅になされていた。二月二十日のうららかな春の日が照りつけるころ、渡り殿の西の廂で帝が笛を奏せ給う。笛は高遠兵部卿を師としていたが、二人で高砂を繰り返しお吹きになるのはたいへんめでたいものであった。高遠が帝に笛の事を申上げるのもすばらしい。そのあと中宮は三条宮で亡くなられるので、ほんの一時の幸せな時間であった。「芹摘みし昔の人も我がことや 心にもののかなわざりけむ」という歌も考える必要がなかったくらいであった。「芹摘む」とは「何の思いもかなわない不幸な状態」をいう。ここで話はガラッと変わって、木工寮のすけさだの蔵人の面白い話となる。すけさだの蔵人と云うゾンザイで粗野な人間なので女房からはあだ名は「露わ」と呼ばれていた。「ぼんくら人間、尾張の子」とはやされたのは、尾張の兼時の娘の子であったからだ。帝が笛を吹かれるの聞いて、すけさだは「もっと大きく吹いてください。聞こえませんので」というのだが、帝は「そうかな、それでもわかるだろう」といって低い音で吹かれた。そして帝がお渡りになった時「あいつがいないようだ、よし今吹くぞ」といって笛を吹かれるのは大変素敵よ。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「除夜作」

2011年12月31日 | 漢詩・自由詩
残年何事獨蕭然     残年何事ぞ 獨り蕭然たり
 
今夕寒燈不敢眠     今夕寒燈 敢えて眠らず

白髪愁顔追往時     白髪愁顔 往時を追い
 
更鐘破歴想新年     更鐘歴を破り 新年を想う

 
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(韻:一先 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)